【完結】観察者、愛されて壊される。

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【第三章】逃亡編

3-3

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(孝視点)



廊下が騒がしい。笑い声でも怒鳴り声でもない。
けれど、妙に耳につく。水面下をうごめく水流のような、ざわめき。

———何かが、探されている音だ。


(……気持ち悪い。)

顔も覚えてない学園の人間が、大衆に過ぎない奴らが、海岸に押し寄せる波みたいに俺を探してる。

孝は誰もいない旧棟の奥、応接室跡の部屋で一人、膝を抱えていた。
壁一面を覆う本棚、薄暗い間接照明、カーテン越しの午後の光。ここは“秘密の部室”——今の俺のシェルター。


——外に出れば、視線が刺さる。

直接声をかけてくる者はいない。
けれど、すれ違いざまの噂話、スマホを手に何かを覗き込む視線、Bクラスの誰かがちらとこちらを見たあとにコソコソ何かを話す声。


(……完全に囲まれてるな)

俺の情報網が逆流していた。
笑える話だ。“観察者”を観察するネットワークができあがってるなんて、まるで滑稽な喜劇だ。


(いや……元はといえば、俺の“彼氏”のせいか)

 
澪ちゃんは、今でも″とっても人気者″らしい。
彼の憂い顔一つで誑かされて、彼の意図を汲もうと勝手に動く奴らが大勢いる。

俺一人いなくなっただけで、なんで澪がそんな顔を見せるのか分からなかったけど。
俺には分からない傷心があるんだろう。

澪ちゃんが、意図してこんなこと、出来るわけない。


ふと、ノートPCを開く。

パスワード認証を解除して、フォルダを開き、監視カメラの動画をひとつ選ぶ。
再生ボタンを押すと、あの日の食堂が映し出された。

——大っ嫌いな風紀委員長と、生徒会長。立宮凪と、根津美咲。


(…………)

孝は無言のまま画面をぼんやりと見つめた。
再生を止めて、一時停止。
ズーム。

——そこにいたのは、笑う根津美咲だった。

けれど孝の目には、笑ってなどいないように映る。
あんなの、ただ“笑顔の仮面”だ。
あの王子様に囲まれて、逃げ場もなくされて——

 
「ねぇ……君なら、分かるでしょ?」

俺は思わず呟いた。

画面の中、美咲の横顔は答えない。けれど、それでもいい。
この声は、自分のためのものだから。


「あの風紀委員長がどれだけ″恐ろしい″か。
 自分のすること、してきたこと、全部全部一瞬で、簡単に塗り潰されて、気が狂いそうになる…!」

言葉を重ねるうちに、喉が詰まりそうになる。
美咲の表情は変わらない。
それでも、俺には分かる。
あの瞬間、確かに“逃げたい”って顔をしてた。

———ねぇ、今なら俺も分かるよ。
人に乞われるって、怖いんだ。見られて、暴かれる気がして、澪のあの獰猛な目と、視線を合わせることさえ怖いんだ。

 

「……ねぇ。ここに来てよ。……一緒に逃げてよ、美咲くん」

震える声で、そう囁く。

誰もいない、旧棟の奥の部屋。
眠気混じりの午後の空気。カーテンの隙間から差し込む光が、ソファの上のクッションに斜めの影を落としている。


「……君が、俺を助けてくれるなら、きっと、全部……」

途中で言葉が途切れた。
続けたら、泣きそうだったから。

 

でも——それでも。
今夜も、俺はこの部屋で彼の映像を見ながら眠る。

世界のどこかで、誰かに好かれるフリをして、でも実は全部逆だったと、そう言ってくれる日を願って。

ねえ、お願い。そんな″地獄″が幸せなんて、言わないで。

まるで祈るように、
美咲の写真を、枕元に置いた。

 

(……いつか、君がここに来てくれますように)

 

——それだけが、
この壊れていく俺の、最後の慰めだった。

 











***
(澪視点)





放課後、静まりかけた廊下の隅。
窓の外では夕日がじりじりと沈みかけ、茜に染まる空がガラスに映っていた。

その前で天瀬晴人が立っていた。
相変わらず、絵に描いたような佇まい。制服は乱れひとつなく、金の髪は光を帯び、笑みは完璧に整っていた。
俺は正面に立ち、視線を合わせる。


「“あの子”がどこにいるか、教えてあげようか?」
「………あんた、人の事情に首突っ込んで、暇人なのか?」

苛立ちを隠す気はなかった。だが、晴人はにこにことしたまま言葉を継いだ。


「まさか。君が早く“あの子”を始末してくれないと、ちょっと困ったことがあってね」
「……困ったこと?」
「うん。監視カメラのデータが——抜かれてる。何箇所か、ログも改ざんされてるみたいなんだ。僕はどうしても、“あの子の仕業”のような気がしてね」

その言葉に、俺は思わず眉をひそめた。


(……垣根が、カメラのデータを?)
「——だから、餌になりそうな映像に、ちょっと“仕込み”をしておいたんだ」

さらりと、まるで悪意のない日常会話のように言われた言葉に、一瞬耳を疑った。


「食堂の、いつも僕らが座る席が映るカメラ。いつも美咲くんが座る席がとてもよく見えるから、犯人が″あの子″だったら、簡単に釣れると思うよ。」
「……根津を利用していることに関しては、あんたはそれでいいのか」

俺が鋭く問うと、晴人の笑みが少しだけ深くなった。


「美咲くんを利用してるんじゃなくて、“あの子の恋心”を利用しているだけだよ。」

静かに、確実に吐き出されるその言葉に、ゾクリとするほどの“冷たさ”を感じた。
罪悪感なんて微塵も感じてない声。
そして同時に、俺の中の何かが確信に変わる。


(こいつは——根津に本気で執着してる)

だから、障害になるものに対して一切の容赦がない。
そして、″それ″は同じように、


(俺も——)

 








夜の帳が降りる頃。

晴人から受け取った“新品の鍵”をポケットに入れて、俺は旧棟の奥、ドアプレートがない扉の前に立っていた。
人の気配はなく、外からは一切中が見えない。


(………、……)

溜め息を一つ。

覚悟を決めて、鍵を差し込む。
新品の金属が軽やかに回り、ドアは音もなく開いた。

中は——静かだった。

カーテンの隙間から漏れる街灯の明かり。
ソファの上で、小さく丸くなって眠る垣根孝の姿が、そこにあった。

くしゃりと癖があるパーマはソファーに流れて、いつもは見えなかった顔が見える。意外と長い睫毛は伏せられたまま、かすかに寝息を立てる姿に、あの悪辣漢の面影はない。

無防備に眠る顔はあどけなくて、その寝顔だけは素直だった。

背を向けたまま、垣根は気づかない。
俺が、すぐ目の前に立っているというのに。

 

(ああ——)

胸が熱を持った。

(駄目だ。我慢しないと。本当に、確実にしたいなら)

今起きたら、きっとこいつは、
「ごめんね澪ちゃん」って言って、
「俺が悪かったよ」って元の部屋に戻って、
「澪ちゃんのお茶が飲みたいな」なんて何事もなかったように笑って、
それでしばらくして——また煙に巻いたように居なくなる。


それじゃ、意味がない。

俺が欲しいのは、“一時的な関係”じゃない。

こいつがもう二度と逃げられないようにする、
もっと確実で、もっと致命的なものが——


(——ここに、ある)

 

ゆっくりと、垣根のカバンに手を伸ばす。
奥に隠されるように差し込まれていた、生徒手帳。

それは、垣根孝の“観察記録”のすべて。

ページをめくると、達筆な文字と丁寧すぎる箇条書き。
“誰を、いつ、どこで見たか”
“その時、何をしていたか”
“その表情はどんなだったか”
気持ち悪いくらい、冷静で、整っていて。
垣根孝という男そのままを写したみたいだ。
 

(……人が見られたくないもの、人が知られたくないもの、
 無遠慮に暴く。やっぱり、お前はこういうやつだ)


——でも、それでよかった。

お前を生かしてきた最大の″矜持″が、お前を殺す最大の″弱点″になる。
手帳を閉じ、懐に滑り込ませる。


横を見れば、開かれたままのノートパソコンには根津美咲が映っていた。
お前が罠に掛かるのを待ちながら、お前が罠に掛からないといいのにと願っていた。

だって天瀬晴人の仕込み通りに事が動くということは、
あいつの予想通りに″垣根孝の関心は根津美咲にある″ということだから。



(………裏切りもの。)


垣根孝は、最後まで何も知らず、
安らかに眠ったまま、
“逃げ場”を失ったことさえ知らない。


俺は静かにノートパソコンを閉じて、部屋を出た。
 







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