湖に還る日

笠緒

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第一章 巡り絡む運命

天正二年――光弾く水面を望む坂本城にて

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 目の前に、空の色を一面に受けた湖が広がっていた。
 陽の光を浴びた水面がキラキラと輝いており、その合間を縫うように、小舟が何艘も泳いでいる。網らしきものを引いたりしているところを見ると、この湖に生きる漁師だろうか。
 はなだ色を薄く伸ばした空に、ぽんぽんと綿毛を散らばしたような雲が散らばっており、地平に浮かぶ萌黄もえぎを幾度も重ねたような深い緑の島々。
 近江国おうみのくに坂本城さかもとじょう・天守から望む琵琶湖の風景は、まるで上等な絹織物のようだ。

「わぁ……っ、見て、父さまっ! 水面がまるで箔を浮かべたようだわっ」

 たまが眼前に広がる湖を指さしながら、歓声を上げる。全く同じ事を考えていたきょうが僅かに目を細めながら、妹のさらに奥にいる人物へと視線を向けると、「ふむ」と顎先に指をやる壮年の男の姿があった。
 明智十兵衛光秀あけちじゅうべえみつひで
 この坂本城の城主であり、京と玉の父親である。

「箔か。琵琶湖に箔を浮かべ並べたら、如何ほどの貨幣が必要だろうか。まずは正確な大きさを測るために測量をせねばなるまいが、今、ざっと私が計算したところ――」
「旦那さま。今はそういったお話をしているわけでは御座いません」

 本気で箔を浮かべる計算をし始めた父へ、母の熙子ひろこが、顔色ひとつ変えず冷静にそれを止める。それに一度瞼を上下させた彼は、「そうか」と短く頷き、再び湖へと視線を流していった。
 スーッ、と視界を横切る素早い影は、燕だろうか。そういえば、城の至る所でピチュピチュとその囀りが聴かれるようになってきていた。あの燕も、もしかしたらその内の一羽なのかもしれない。
 そんな燕へとちら、と視線を流す父の横顔は、相変わらず温度の変化が見られることなく、さらりとしている。
 先ほどの発言に垣間見られるように、彼は真面目過ぎるほどに真面目だ。頭の回転が良く、恐らく有能な者が多いと聞く織田家中の中でも、随一の切れ者であろうと思われるのに、その頭脳は冗談を解する事には一切使われない。
 幼子の気まぐれで衝動的な意味のない言動にも、真っ向から向き合い、頭を悩ませるような人だった。もしかすると、知らない者には神経質そうに感じられるかもしれない。
 けれど。

「京」

 光秀が湖へと睫毛の先を向けたまま、少女の名を呼んだ。
 母や妹と共にいる時も、もっぱら聞き役である内気な少女は、自身からあまり父親に対し話しかける事をしない。彼もまた、日頃よりさほど口数が多いわけでもないので、結果こうして父から名を呼ばれるという事が滅多になかった。

(わ、わたくし、何かしてしまった……?)

 京は驚きに軽く一度、二度、睫毛を羽ばたかせながら、「はい」と震えた声を返す。

「京は、この眺めをどう思う?」
「な、眺め、ですか……? 大変美しいと、思います。あ、あの……、わたくしも、玉と同じように、箔を散りばめたような……綾織物のように思いました」
「綾織物。そうか、なるほどな。まるで万葉の和歌うたのようだな」

 光秀の薄い唇が、船底の形を作った。

「京は、この琵琶湖が好きか」
「それは……、はい」

 ここで暮らすようになってきて、幾度この湖に助けられただろう。
 何度、涙を受け止めてもらっただろう。

「わたくしは、この湖が好きです」

 京がこくり、頷くと、風に舞った黒髪が一筋、頬にかかる。そこへ、光秀の、武具を持つ武将にしてはすらりとした指が伸び、優しくそっと払われた。

「そうか。ならば……よい」

 そうして、表情の色があまり出ないそのおもてが、穏やかな笑みを食む。
 日頃、物静かで几帳面な性格ゆえに、神経質な性質タチに思われがちだが、その実、思いやりに溢れた人である。
 父・光秀が主君よりこの近江国・志賀郡を与えられ、湖を抱く城を造り始めてから早三年。今日のようなよく晴れた日には、ふたつの天守を持つこの水の城の大天守に家族を上らせ、こうして景観を楽しませてくれていた。
 もっとも、織田家中において多忙を極める父なので、こうしてのんびりとした時間を家族で過ごせることなどそうあるわけでもないのだが。

「父さまっ、あたくしも、この湖が好きですわっ」
「そうか。玉も好きか。私も、好きだ」

 その後に続く言の葉は、この青い琵琶湖のみならず、こうした家族の時間のことを示すのかもしれない。
 そよ、と穏やかな風が、京たちの佇む天守の外廻縁そとまわりえんを走り抜けていく。さら、と流れるのは豊かな黒髪。
 ふわりと爽やかな空気に溶ける薫物たきものは、清涼感のある荷葉かよう。先日、岐阜に住む叔母に贈ったものと同じ香りが周囲に漂う。

「旦那さま」

 キラキラと水面が光を弾く様に、京や玉が目を楽しませていると、母のピン、と張った声がかかった。その中に幾分、溜息にも似たものが孕んでいたような気がするのは、京の気のせいだろうか。
 有体に言うのならば、やや機嫌を損ねている――という表現が一番ふさわしい気がする。

「……あぁ」

 父もそれを感じ取っていたようで、ちら、と己の妻を横目にしながら、歯切れが悪い返事を零した。

「ご多忙ながら、こうしてわたくし達への御心配り、大変うれしゅうございますが……、今日こうして突然、家族で琵琶湖を望んでいる理由を、お忘れなきよう」

 外廻縁に取り付けられている高欄に上ろうとする弟の十五郎じゅうごろうを押さえながら、熙子は念を押すかのように父へと言葉を投げる。

(……理由?)

 確かに母の言う通り、今日こうして大天守に上り、家族で琵琶湖を見ようと父が言い出したのは突然だった。常ならば、午前中は領内の管理に関する政務を行っている父から、急に遣いがやってきて大天守に来いと言われた。
 城内とはいっても、天守は軍事に関わる櫓なので、許可がないと如何に城主の家族でも足をそうそう運ぶ場所ではない。特に坂本城は小天守を伴った構造で、そちらは客人を招き接待をする場所でもあった。
 いまにして考えれば確かに不思議な話ではあったが、呼ばれた時は久々に琵琶湖を高見から望めるという事で妹弟たちと喜び合い、疑問にも思わなかった。けれど、その時の母の表情は、何かを考えているような、そんな雰囲気があったような気もする。

「京」

 何事かあったのか、と思案し始めた少女へと、再び父の唇がその名を呼んだ。
 京はびくっ、とその細い肩を震わせて、父へと「はい」と視線を返す。今度こそ、何かしでかした事へのお咎めだろうか。
 胸の裡で心臓が一気に汗を掻き始め、緊張に溺れてしまいそうだ。

「実は今朝、岐阜の殿より書状ふみが届いた」
「……岐阜の、殿……」

 と、言えば、間違いなく織田弾正忠信長おだだんじょうのじょうのぶながの事だろう。

(お殿さまと言えば……)

 先日、父に連れられ岐阜へ行き、主君である信長と対面した。
 癇の強そうな印象こそ受けたものの、叔母とも楽しげに談笑しており、噂に聞くよりも恐ろしくはない、というのが京の感想だった。もっとも、緊張のあまり、許された後もさほど高くおもてを上げられなかったのだが。
 信長の側室である叔母や、父の従姉妹である信長正室もおり、さらに明るい気質の玉がいてくれたお蔭で特に何か取り返しのつかない事にはならなかったとは思うが、もしかしたら自分の陰気な態度に、不興を買ってしまったのだろうか。

「あ……あのっ、わたくし、あの時は、緊張していて……。不調法な事と、お叱りがありましたでしょうか……っ」

 自分のみが叱責を受けるならば、恐ろしくてたまらないがそれでも諦めはつく。きっとその後、琵琶湖に涙を零してしまう事になるだろうが、それでもきっと耐えられる。

(でも)

 京は、明智家のむすめだ。
 京の罪咎は、父の責任となる。

(わたくしのせいで、父さまがお叱りを受けてしまう……?)

 知らず、京の指が小袖に皺を作る。
 けれど次の瞬間、その手にそっと触れてくるひんやりとしたものがあった。はっ、と弾かれるように顔を上げれば、そこには軽く首を振る母・熙子の姿。自身の手へと触れてきたものは、彼女の指らしい。
 どうやら十五郎の世話は乳母に任せたようで、やんちゃ盛りの弟は少し離れた箇所で何やら楽しそうに走り回っていた。

「……母、さま?」
「違いますよ、京。岐阜の殿のお話は、そういったものではありません。……旦那さま。京が何事かと怯えておりますから、早く続きを」
「む……、そうか」

 光秀はそう言うと、熙子から京へと視線を流し、一度唇を湿らせる。

「京、そなたの縁談が決まった」

 そして、先ほどこの琵琶湖が好きかと訊ねた時と同じ口調で、言葉を紡いだ。

「――っ」

 刹那、少女の目が大きく丸まる。
 ひゅ、と吸い込んだ空気が、そのまま喉の奥へと忘れ飲み込まれていく。

(いま)

 確かに、「縁談」と聞こえたが、間違いではないだろうか。
 岐阜からの書状が来て、決まったというのならば、信長の声がかりの縁談なのだろうか。
 どこの誰に、いつ嫁ぐのか。
 次から次に浮かぶ疑問に、それでも飲み込んでしまった音がいつまでも宿る事はなく、京はただ瞳をぱちくりとさせていた。

「えぇぇええッ!! 京姉さま、お嫁に行かれるのっ!?」

 最初に驚きの声を出したのは、やはりと言うべきか――妹の玉だった。興奮からか、日頃は白いその頬が、紅色に染まっている。琵琶湖の水面も負けるほどの光を、その大きな瞳に宿し、京と光秀へと順に瞳を走らせている。

「玉や、落ち着きなさい。年頃の娘が、みっともないですよ」
「だって母さま、これが落ち着いていられるっ! 京姉さま、お嫁に行かれるの? どこ? どなたに嫁がれるの!?」
「え、あ……、さ、さぁ……。わたくしも、いま初耳だから……」

 転がるように京の隣へやってきた玉は、母に触れられていたそれを奪うようにして京の手を取った。
 京は驚きの中、半ば茫然となりながら、ようやく零れた声を父へと向ける。

津田於坊つだおぼうどのと言われる、殿の実の甥御どのだ」
「津田、の……於坊さま……」
「長く殿の側近を務められていた、有能な方だ。殿が仲人を務められるとの事で、我が家へとお声がかかった」

 長く信長の側近を務めていたという事は、恐らく優秀な若者だろう。甥とはいえ、信長自らが縁談の話を纏めるというのは、そうある話ではないだろうし、信頼厚く重用されているに違いない。
 そしてそこに明智家が選ばれたという事は、勿論、父・光秀の立場もあるだろうが、間違いなく先日の目通りが理由なのだと思えた。

(でも)

 だとしたら、それは自分で良かったのだろうか。
 それほど優れた殿方に添う妻が、自分のような「だめなこ」で良いのだろうか。

(本当は)

 誰の目にも明らかなほどに見目麗しく賢い玉を、望まれたのではないだろうか。
 驚きのあまりすっかり引いていたはずの緊張が、再び京の胸の裡で騒ぎ始める。

(こわい)

 怖い。
 そんな人に、呆れられたら。

(だめなこだと、思われるのは)

 怖い。
 焦りにも似た感情が溢れ出そうになる。

(でもきっとこの縁談がうまくいけば、父さまのお役に立てる)

 京もこの乱世の武家に生まれたむすめとして、自身のすべき仕事はわかっている。
 できることならば、父の役に立つ娘でありたい。
 けれど――。

(こわい)

 助けてくれと、京の視線が現実から逃げるように眼下の琵琶湖へと向けられた。
 そこには先ほど同様、穏やかな湖の青が広がっている。
 キラキラとした水面を泳ぐ、小さな漁師たちの舟。
 ときおり、商人のものだろうか。大きな船がその後ろに扇の波を描きながら真っすぐに進んでいる。

「京」

 押し黙った娘を不思議に思ったのか、光秀は少女の視線を追うように琵琶湖へと視線を這わせた。

「於坊どのは、殿の側近を務められているが、そのご領地は高島たかしまにある」

 高島と言うのは、同じ近江国の地名であり、この志賀郡よりも北――琵琶湖の西側に面した土地である。

「輿入れは、恐らく高島にある新庄城しんじょうじょうになる。と、なれば、陸路を行くよりも、きっと琵琶湖を渡る方が行きやすいはずだ」
「旦那さま。琵琶湖を進むということは……湖賊は大丈夫なのでしょうか……」
「湖賊……っ? えっ、賊が、湖にいるの?」

 ひっくり返ったような玉の声に、一瞬母の眉が皺を刻んだが、それでも何も気にしていない妹の姿にため息混じりに母が頷いた。
 この琵琶湖には古来より、堅田衆かたたしゅうと呼ばれる者たちがいるらしい。けれど信長の近江侵攻と共にその配下に下ったという事だ。つまるところ、それはこの地を治める父の配下となったという事である。

「とは言え、その全てが下ったというわけではないのでしょう? もしならず者がいて、襲われたらと思うと……。湖上ともなれば、逃げようがないではありませんか」
「まぁ、仮定の話をすれば不安はいくらでも出てくる。だが……」

 光秀は一度言の葉を切ると、す、とすらりとした指を眼下の湖へと向けた。その差し示した場所には商船がおり、その傍に小さな小舟がついていた。一度その歩みを止めた船へ、何やら両者で話をつけたらしく、小舟から十名ほどの人間が乗り込んでいく。

「あれは、恐らく越前へと向かう商人の船。それに乗り込んだ者たちが、堅田衆だ」
「乗り込んで、どうするのですか?」
「護衛を申し出ている。それを断れば、彼らが湖賊となり、襲う」
「……っ、それは……」
「護衛の押し売りみたいだわ……」

 買わなければ命がないのだから、既に成功が保証された売込みである。
 けれど、どうやら父は、この地に昔から住みその全てを把握している彼らに、ある程度の自治を許しているらしい。彼らには彼らの、何百年といった今までの暮らし向きがあり、任せた方がこの地を治めやすいという事だった。

「京の輿入れも、我が家の家臣のみならず、あの者たちへ護衛を頼む。流石に、事前に話をつけるから、京の乗る船にあの者たちが乗り込んでくる事はない」

 だから、そこは安心せよと父は母へと言葉を紡ぐ。
 京にも母の心配するところへの恐怖心というものが、ないわけではない。けれど、どうしても、その先の夫となる人へ呆れられないかという心配の方が、胸を大きく穿ってしまう。

「京」
「は、はいっ」

 ぼんやりと、商船が再び水面を走っていく様子を見つめていた京は、はっ、と弾かれたように顔を上げた。

「先ほど、琵琶湖が好きだと言ったな」
「は、はい」
「つまり、そなたが綾織物と称したこの風景が、輿入れの道となるということだ」

 生真面目で、几帳面で、神経質――。
 日頃、感情の色が灯らない光秀のおもてが、それでも、眉尻を僅かに下げて唇に弧を刷いていた。

(綾織物が……、)

 ――琵琶湖が、輿入れの道。
 大きく目を開いた京へ、父の瞳が優しく溶ける。
 じわり、滲んだ視界の先で、大きな青が少女のその雫を受け止めた。
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