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第二章 縺れ澱む想い
天正二年――光弾く水面を望む高島にて
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先日まで辺りを駆ける風と言えば、湿った重たい気休め程度のものだったが、ふ、と気づけば頬を撫ぜる風が冷気を帯びていた。
どこまでも高く高く青が広がり、巨大な雲が上へ上へと積み上がっていたあの空は、いつの間にかその高さを徐々に落とし、刷毛を伸ばしたかのような雲を浮かばせている。
空が始まる場所へと視線を下ろしていけば、その色をそのまま映す水面を境界とした湖が、陽射しをキラキラ弾く姿を視界いっぱいに横たわらせていた。けれど、周囲を見渡すと、草木の色は赤や黄へと衣替えをし始めており、季節は留まる事なく冬へと近づいている事を伺わせる。
京は、そんな波打ち際へとさくり、さくり、草鞋裏を転がしていく。ザザァ、と引いては寄せる水音と、ときおり鳴く鳥は、モズだろうか。水面の遠くに浮かぶ船まで届きそうなほどに、甲高い声だった。
実家の坂本よりも北に位置するこの場所だが、さほど景色というものに変わりはないらしい。記憶のままのその風景に、心がほ、と安堵の息を吐く。けれど、最近それとは別に、カリカリと爪で心の裡を掻かれたかのような、そんな落ち着かない気持ちも少女の中に生まれていた。
「あれ、お屋敷の御方さまではないですか」
突如かけられたその声に、京が面を向けると、そこには亀助という名の漁師の姿。毎日、琵琶湖で釣れた魚などを新庄城下の市場に卸しており、彼と知り合い言葉を交わすようになってから、一月以上は経っただろうか。
どうやら漁から戻ってきたばかりのようで、網を巻きながら話しかけてくる。
「あ……、はい。あの、亀助は、これから市へ?」
「えぇ。朝一で行こうと思ったんですがね。ちぃっと時化ってやがったんで、様子見とったんで、こんな時間ですわ」
「そうですか……。時化……」
いま、視界の端に映る琵琶湖は、鏡のように静かな水面が広がっているが、朝一はどうやらそうではなかったらしい。
「御方さまは、あれですか。今日も殿さまからの書状が届くんで?」
「っ、それ、は……、今日、とは限らなくて……、その、いつになるか、わたくしには、わかりません……が」
くるくる、と巻き取った網を縛りながら、何の気負いもなさそうに発せられた亀助の言葉に、京の頬に一瞬で朱が走る。喉元まで迫り上がるように弾んだ心臓を、無理やり飲み込むように京が返事をすると、背後から「ふっ」と堪えきれないような笑いが漏れた。
京が肩越しにそちらを見遣れば、口許に拳を当て「失礼を」と視線を逸らす渡邊与右衛門重の姿があった。確か、四十路には僅かに足りない程の年の頃だが、生え際に白いものがあるせいか実年齢よりも老けて見えるかもしれない。
彼の妻がよく喋る事に反して、彼はひどく寡黙な人間であり、京とて人の事は言えないが、表情もお世辞にも豊かとは言い難い人間だ。そんな彼が思わず、といった体で噴き出すのだから、よほど自身の言動はおかしかったらしい。
「与右衛門……、わたくしの先ほどの言は、旦那さまのお恥となってしまうようなものだったでしょうか……?」
それじゃあ、と亀助が去った後に、彼の小さくなった後ろ姿を見ながら、京は訊ねた。心の中のカリカリとした擽ったい想いを押さえなければと思いつつ、どうしてもうまくいかない。
「いえ。特に、問題はないかと」
「そう……ですか。それなら、良かったのですが……」
「と、言いますか……。某から、こう申し上げるのも如何なものかとは思いますが、津田の御家は、左様に堅苦しくお考えにならなくともよい御家かと存じますが」
確かに、夫・信澄の歴を考えれば、他家に比べ、さほど重々しく考える必要がない家柄である事は間違いない。現当主・信長の甥という、連枝衆の中でも本家に近しい身分とは言え、彼の父は既に亡い。母も、父の死と同時に実家に戻ったとの事で、継ぐべき所領も譜第の臣というものも存在しない。
この家は、いままさに、彼から始まったも同然である。
「そう、かもしれないけれど。でも、わたくしが旦那さまのご評判を損なわせてしまう事だけは、それだけは、あってはならないもの……」
京がこうして琵琶湖まで足を運ぶようになってから、二月以上が経っていた。
七夕の折、信澄に無断で出過ぎた真似をしてしまい、その後、しばらく気落ちする日々が続いた。屋敷の人間や、城下に住まう家臣たち、その妻たちは皆優しく、良くしてくれる。それ故に、「だめなこ」であるという自分自身がたまらなく辛かった。
「だめなこ」であるという事実が、どうしようもなく怖かった。
優しくしてくれている人を失望させてしまったら。
優しい彼らの表情に、失望の感情を見てしまったら。
(それが)
何より、怖い。
つらいのだと。
怖いのだと。
そう泣いてしまいたいのに、これほどの厚遇を得ているくせに泣きたいだなんて何様のつもりだと、頭に北風の声が響いた。
けれど、それでも気落ちし続けたままでは、また周囲の人間を困らせてしまう。自身の気遣いが、良くない結果をよくもたらす事は過去何度も経験しており、京は誰よりそれを知っている。
(わたくしが、わたくしの為に泣けなくても)
それが巡り巡って周りの人の為になるのなら。
(泣く事は)
許されないだろうか。
涙をそっと、湖に落とす事は許されないだろうか。
行き場のない想いをどうにかしたくて、意を決して「琵琶湖を見たい」と於逸に告げると、彼女はふくふくとした頬を揺らしながら首を縦に振ってくれた。最初は輿で、と言われたが、それではあまりに仰仰しい。馬に乗れる事を話すと、於逸の代わりに渡邊が供をしてくれるという。
彼が、どういうつもりで京に付き合ってくれているのかはわからない。
ただ危険が近づかないように周囲に目を配りながら、それでも一定の距離を置いてくれている。
(もしかしたら、里恋しいのだと思われているのかもしれないわね)
思えば、嫁したばかりだというのに実家の事を思い出すは殆どなかった。
いまの京の時間のすべては、この地でどうあるべきかを考える事に費やされていた。
(我儘な小娘の気まぐれに付き合わせて、そればかりは本当に申し訳ない事だけど……)
それでも、何も言わず、ただ付き従ってくれる事がありがたかった。
涙を溶かすつもりで訪れたその日の琵琶湖は、いつも通り、青がひたすら広がっていた。箔を散りばめたような湖面が、たぷんたぷんと揺れていた。
どれほど見つめていただろうか。
気づけば傍近くまでやってきた渡邊が、ぽつり、声を落とした。
――御方さまの、小袖のようですな。
――え?
――これは失礼を。いや、某は生まれてこの方、ずっとこの近江で生きて参りました。琵琶湖を見て育って参りましたが、祝言の後に、御方さまがお召しになられていた、あの……青の小袖……。
祝言の後、信澄が岐阜へ旅立つ前に傍近くに仕えてくれている家臣を何人か紹介された。その折、確かに京は津田家で用意された青――杜若色の小袖を着ており、その事を言っているのだろう。
――あの小袖ですが、手前自慢のようになってしまいますが、あれは家内が探し求めたものに御座います。
――於さわ、が……。
話の筋が見えないままに、ただ先日知り合った彼の妻の名を呟くと、こくりと頷き、話は続いた。
――殿が……、七兵衛さまが、青の小袖を探すようにと女共に言われたそうに御座います。
――旦那さまが……?
――何でも、初めて御方さまをお見かけされた時にお召しになっておられた小袖が、琵琶湖のような青色で……とてもお似合いであったと。
その言葉に、京の瞳が零れんばかりに丸まった。
初めて見かけられた時、というのは、恐らく信澄が寝所で言っていた岐阜城を訪れた際の話だろう。
(確かにあの時は――)
縹色に竹の刺繍がされており、ところどころ箔が散りばめられた小袖だった。嫁入りの際にも一緒に持ってきており、部屋の長持にしまわれているはずだ。
色直しでは、婚家の用意したものを身に着ける事が一般的だが、そこまで考えて用意されたものだとは、思いもしなかった。あの時はただただ、初夜に妻としての務めを果たせなかったそれだけを怯え心を重くしていた。
――お輿入れになられる姫君と既にお会いしたのかと訊ねると、はっきりとはまだわからないが、恐らく間違いないだろう、などとよくわからん事を言っておいででしたな。
確かに寝所でも、そのような事は言っていた。
もしやと思っていた予想が当たったと。
――旦那、さまが……。
もしや、程度の予想だったとしても、あの日の自分を見て、選んでくれていたのか。
琵琶湖のように美しいあの小袖を、自分の為に――。
――某、近江の田舎生まれ、田舎育ちにて、女人の好む意匠などさっぱりわからんものですが、それでも、あの日、御方さまのお召しになられていた小袖が、この琵琶湖によう似ていた事だけはわかります。
この琵琶湖を見て、育ちましたからな。
お世辞にも微笑んで、などとは言えない渡邊の面ではあったが、それでもその唇の端は気持ち持ち上がり、目尻は優しさに溶けていたように思う。
そう、思えた。
そう、信じたかった。
(もう、いじけるのはやめよう)
「だめなこ」ならば、「だめなこ」として、努めればいい。
(津田七兵衛信澄さまの、妻として)
わたくしは、わたくしのなすべき事を、なそう。
再び城下へと足を運ぶようになったのは、それからだった。
それでも、流石に七夕の折の身勝手な行動を改めるべく、なるべくその場で答えを出さず、都度都度、岐阜の信澄へと消息を書くようになった。
――暑い日が続いておりますが、旦那さまはお変わりないでしょうか。
用件のみでは失礼かと、妻として一言二言、近況を交えながらの消息を送るようになると、その返信として彼らからも一言二言、近況連絡が届くようになっていた。
『大きな瓜を知人より頂いたが、とても岐阜の屋敷では食べきらないので、そちらに少し送る。恐らく味も良いかと思うので、皆で食べてほしい』
『本日、城下で祭りがありました。旦那さまより頂いた瓜を冷やして、皆に分け与えました。子供たちが大層喜んでおりました。ありがとうございました』
『京都の行商から、いい反物が手に入りました。旦那さまの帷子を繕いましたので、お送りいたします。屋敷にある旦那さまの小袖と同じ丈にてお仕立て致しましたが、もし合わなければ、送り返してくださいませ。お直し致します』
『まだ暑さも盛りで、また、俺は九右衛門どのの遣いにて方々に派遣されている身なので、帷子、本当に本当にありがたい。お礼に、こちらで見かけた櫛を送る。気に入ってもらえると、嬉しい』
『櫛、ありがとうございました。彫り物がとても美しくて、暇を作っては度々眺めております。本当に嬉しいです』
『今度、源左衛門どのの領内にある惣(村)で、納涼の祭りがあるとの事。先日、城下に麹売りが参っておりましたので、その者を連れ、甘酒など饗しようと思っておりますが、宜しいでしょうか』
『方々への気遣い、ありがたく思っている。勿論、甘酒を饗するのは良いが、京どのはやはり酒に強いとは思えないため、あまり嗜まれない方がよいのではないか。体調を崩されていない事を祈っている』
『於逸などもいるので大丈夫かとは思いますが、また倒れてしまうなどすると先方にご迷惑をおかけいたしますので、わたくしは失礼にならない程度に、口をつけるだけにしておきます。ご心配、本当にありがとうございます』
当初、申し訳程度の近況報告であったものが、いつしかそれは比率が変わり、互いの近況を伝えるためのものへと変化していった。最初は、決して出過ぎる事のないようにと始めた報告のための消息であり、その返書だったはずのものが、気づけばその便りを待っている自分がいた。
墨をたっぷりと含んだ、あの文字がたまらなく待ち遠しかった。
消息を出したその直後に、早くも返事をいまかいまかと待っている自分自身に気づき、気を引き締めなければと思いながらも、前に届いた紙に流れるその文字を指先で辿る時間が増えていた。
先ほど、亀助に「今日も書状が届くのか」と訊かれたのは、京と信澄のやり取りが頻繁にある事を、領内の人間の大半が知っているせいである。
「先ほどの亀助のように、下々の者にもお声がけなさり、名まで覚えて下さる御方さまを、誉れと思うことがあっても、恥などと思う者は、この領内のどこにもいないかと……」
「そう、かしら……。そうあってほしい。そう、ありたいと……この二月ほど、思ってやってきたけれど……」
津田信澄の妻として。
良き、妻であろう。
この地を治める武将の妻として。
良き、奥方であろうと。
そう思い過ごしてきた。
(でも、わたくし、最近……変ね)
京は、涼しい風に煽られた黒髪を軽く手で抑え、自身の頬がやや熱く火照っている事に気づく。
(おかしいわ……)
胸の裡で、カリカリと何かが爪を立てて心を擽る。
琵琶湖を望むと、昔は心が落ち着いたのに、今は何故か夫となった青年を思い出す。
彼を思い出すと、心の裡が熟した果実を食んだ時のような気持ちで満たされる。
(おかしいわ)
キュイ、キュイ、と山間からモズの声が下りてきて、琵琶湖の水面を揺らしていく。キラキラと箔を散りばめたような湖が、その甲高い鳴き声をゆったりと呑み込んでいた。
朝方は時化っており、荒れていたらしいその湖面は、今は嘘のように空の色を映し出し、鏡のように輝いていた。
湖の沖に浮かぶ船は、漁師のものだろうか。
それとも越前へと向かう商船か。
――御方さまは、あれですか。今日も殿さまからの書状が届くんで?
――っ、それ、は……、今日、とは限らなくて……、その、いつになるか、わたくしには、わかりません……が。
先ほどの、亀助との会話が耳朶の奥で蘇る。
「……本当に、そうであったらいいのに」
あの時、言えなかったその一言を、京は心の中の形容しがたい想いと一緒に包むと、引いては寄せる琵琶湖の波間へと滲ませた。
どこまでも高く高く青が広がり、巨大な雲が上へ上へと積み上がっていたあの空は、いつの間にかその高さを徐々に落とし、刷毛を伸ばしたかのような雲を浮かばせている。
空が始まる場所へと視線を下ろしていけば、その色をそのまま映す水面を境界とした湖が、陽射しをキラキラ弾く姿を視界いっぱいに横たわらせていた。けれど、周囲を見渡すと、草木の色は赤や黄へと衣替えをし始めており、季節は留まる事なく冬へと近づいている事を伺わせる。
京は、そんな波打ち際へとさくり、さくり、草鞋裏を転がしていく。ザザァ、と引いては寄せる水音と、ときおり鳴く鳥は、モズだろうか。水面の遠くに浮かぶ船まで届きそうなほどに、甲高い声だった。
実家の坂本よりも北に位置するこの場所だが、さほど景色というものに変わりはないらしい。記憶のままのその風景に、心がほ、と安堵の息を吐く。けれど、最近それとは別に、カリカリと爪で心の裡を掻かれたかのような、そんな落ち着かない気持ちも少女の中に生まれていた。
「あれ、お屋敷の御方さまではないですか」
突如かけられたその声に、京が面を向けると、そこには亀助という名の漁師の姿。毎日、琵琶湖で釣れた魚などを新庄城下の市場に卸しており、彼と知り合い言葉を交わすようになってから、一月以上は経っただろうか。
どうやら漁から戻ってきたばかりのようで、網を巻きながら話しかけてくる。
「あ……、はい。あの、亀助は、これから市へ?」
「えぇ。朝一で行こうと思ったんですがね。ちぃっと時化ってやがったんで、様子見とったんで、こんな時間ですわ」
「そうですか……。時化……」
いま、視界の端に映る琵琶湖は、鏡のように静かな水面が広がっているが、朝一はどうやらそうではなかったらしい。
「御方さまは、あれですか。今日も殿さまからの書状が届くんで?」
「っ、それ、は……、今日、とは限らなくて……、その、いつになるか、わたくしには、わかりません……が」
くるくる、と巻き取った網を縛りながら、何の気負いもなさそうに発せられた亀助の言葉に、京の頬に一瞬で朱が走る。喉元まで迫り上がるように弾んだ心臓を、無理やり飲み込むように京が返事をすると、背後から「ふっ」と堪えきれないような笑いが漏れた。
京が肩越しにそちらを見遣れば、口許に拳を当て「失礼を」と視線を逸らす渡邊与右衛門重の姿があった。確か、四十路には僅かに足りない程の年の頃だが、生え際に白いものがあるせいか実年齢よりも老けて見えるかもしれない。
彼の妻がよく喋る事に反して、彼はひどく寡黙な人間であり、京とて人の事は言えないが、表情もお世辞にも豊かとは言い難い人間だ。そんな彼が思わず、といった体で噴き出すのだから、よほど自身の言動はおかしかったらしい。
「与右衛門……、わたくしの先ほどの言は、旦那さまのお恥となってしまうようなものだったでしょうか……?」
それじゃあ、と亀助が去った後に、彼の小さくなった後ろ姿を見ながら、京は訊ねた。心の中のカリカリとした擽ったい想いを押さえなければと思いつつ、どうしてもうまくいかない。
「いえ。特に、問題はないかと」
「そう……ですか。それなら、良かったのですが……」
「と、言いますか……。某から、こう申し上げるのも如何なものかとは思いますが、津田の御家は、左様に堅苦しくお考えにならなくともよい御家かと存じますが」
確かに、夫・信澄の歴を考えれば、他家に比べ、さほど重々しく考える必要がない家柄である事は間違いない。現当主・信長の甥という、連枝衆の中でも本家に近しい身分とは言え、彼の父は既に亡い。母も、父の死と同時に実家に戻ったとの事で、継ぐべき所領も譜第の臣というものも存在しない。
この家は、いままさに、彼から始まったも同然である。
「そう、かもしれないけれど。でも、わたくしが旦那さまのご評判を損なわせてしまう事だけは、それだけは、あってはならないもの……」
京がこうして琵琶湖まで足を運ぶようになってから、二月以上が経っていた。
七夕の折、信澄に無断で出過ぎた真似をしてしまい、その後、しばらく気落ちする日々が続いた。屋敷の人間や、城下に住まう家臣たち、その妻たちは皆優しく、良くしてくれる。それ故に、「だめなこ」であるという自分自身がたまらなく辛かった。
「だめなこ」であるという事実が、どうしようもなく怖かった。
優しくしてくれている人を失望させてしまったら。
優しい彼らの表情に、失望の感情を見てしまったら。
(それが)
何より、怖い。
つらいのだと。
怖いのだと。
そう泣いてしまいたいのに、これほどの厚遇を得ているくせに泣きたいだなんて何様のつもりだと、頭に北風の声が響いた。
けれど、それでも気落ちし続けたままでは、また周囲の人間を困らせてしまう。自身の気遣いが、良くない結果をよくもたらす事は過去何度も経験しており、京は誰よりそれを知っている。
(わたくしが、わたくしの為に泣けなくても)
それが巡り巡って周りの人の為になるのなら。
(泣く事は)
許されないだろうか。
涙をそっと、湖に落とす事は許されないだろうか。
行き場のない想いをどうにかしたくて、意を決して「琵琶湖を見たい」と於逸に告げると、彼女はふくふくとした頬を揺らしながら首を縦に振ってくれた。最初は輿で、と言われたが、それではあまりに仰仰しい。馬に乗れる事を話すと、於逸の代わりに渡邊が供をしてくれるという。
彼が、どういうつもりで京に付き合ってくれているのかはわからない。
ただ危険が近づかないように周囲に目を配りながら、それでも一定の距離を置いてくれている。
(もしかしたら、里恋しいのだと思われているのかもしれないわね)
思えば、嫁したばかりだというのに実家の事を思い出すは殆どなかった。
いまの京の時間のすべては、この地でどうあるべきかを考える事に費やされていた。
(我儘な小娘の気まぐれに付き合わせて、そればかりは本当に申し訳ない事だけど……)
それでも、何も言わず、ただ付き従ってくれる事がありがたかった。
涙を溶かすつもりで訪れたその日の琵琶湖は、いつも通り、青がひたすら広がっていた。箔を散りばめたような湖面が、たぷんたぷんと揺れていた。
どれほど見つめていただろうか。
気づけば傍近くまでやってきた渡邊が、ぽつり、声を落とした。
――御方さまの、小袖のようですな。
――え?
――これは失礼を。いや、某は生まれてこの方、ずっとこの近江で生きて参りました。琵琶湖を見て育って参りましたが、祝言の後に、御方さまがお召しになられていた、あの……青の小袖……。
祝言の後、信澄が岐阜へ旅立つ前に傍近くに仕えてくれている家臣を何人か紹介された。その折、確かに京は津田家で用意された青――杜若色の小袖を着ており、その事を言っているのだろう。
――あの小袖ですが、手前自慢のようになってしまいますが、あれは家内が探し求めたものに御座います。
――於さわ、が……。
話の筋が見えないままに、ただ先日知り合った彼の妻の名を呟くと、こくりと頷き、話は続いた。
――殿が……、七兵衛さまが、青の小袖を探すようにと女共に言われたそうに御座います。
――旦那さまが……?
――何でも、初めて御方さまをお見かけされた時にお召しになっておられた小袖が、琵琶湖のような青色で……とてもお似合いであったと。
その言葉に、京の瞳が零れんばかりに丸まった。
初めて見かけられた時、というのは、恐らく信澄が寝所で言っていた岐阜城を訪れた際の話だろう。
(確かにあの時は――)
縹色に竹の刺繍がされており、ところどころ箔が散りばめられた小袖だった。嫁入りの際にも一緒に持ってきており、部屋の長持にしまわれているはずだ。
色直しでは、婚家の用意したものを身に着ける事が一般的だが、そこまで考えて用意されたものだとは、思いもしなかった。あの時はただただ、初夜に妻としての務めを果たせなかったそれだけを怯え心を重くしていた。
――お輿入れになられる姫君と既にお会いしたのかと訊ねると、はっきりとはまだわからないが、恐らく間違いないだろう、などとよくわからん事を言っておいででしたな。
確かに寝所でも、そのような事は言っていた。
もしやと思っていた予想が当たったと。
――旦那、さまが……。
もしや、程度の予想だったとしても、あの日の自分を見て、選んでくれていたのか。
琵琶湖のように美しいあの小袖を、自分の為に――。
――某、近江の田舎生まれ、田舎育ちにて、女人の好む意匠などさっぱりわからんものですが、それでも、あの日、御方さまのお召しになられていた小袖が、この琵琶湖によう似ていた事だけはわかります。
この琵琶湖を見て、育ちましたからな。
お世辞にも微笑んで、などとは言えない渡邊の面ではあったが、それでもその唇の端は気持ち持ち上がり、目尻は優しさに溶けていたように思う。
そう、思えた。
そう、信じたかった。
(もう、いじけるのはやめよう)
「だめなこ」ならば、「だめなこ」として、努めればいい。
(津田七兵衛信澄さまの、妻として)
わたくしは、わたくしのなすべき事を、なそう。
再び城下へと足を運ぶようになったのは、それからだった。
それでも、流石に七夕の折の身勝手な行動を改めるべく、なるべくその場で答えを出さず、都度都度、岐阜の信澄へと消息を書くようになった。
――暑い日が続いておりますが、旦那さまはお変わりないでしょうか。
用件のみでは失礼かと、妻として一言二言、近況を交えながらの消息を送るようになると、その返信として彼らからも一言二言、近況連絡が届くようになっていた。
『大きな瓜を知人より頂いたが、とても岐阜の屋敷では食べきらないので、そちらに少し送る。恐らく味も良いかと思うので、皆で食べてほしい』
『本日、城下で祭りがありました。旦那さまより頂いた瓜を冷やして、皆に分け与えました。子供たちが大層喜んでおりました。ありがとうございました』
『京都の行商から、いい反物が手に入りました。旦那さまの帷子を繕いましたので、お送りいたします。屋敷にある旦那さまの小袖と同じ丈にてお仕立て致しましたが、もし合わなければ、送り返してくださいませ。お直し致します』
『まだ暑さも盛りで、また、俺は九右衛門どのの遣いにて方々に派遣されている身なので、帷子、本当に本当にありがたい。お礼に、こちらで見かけた櫛を送る。気に入ってもらえると、嬉しい』
『櫛、ありがとうございました。彫り物がとても美しくて、暇を作っては度々眺めております。本当に嬉しいです』
『今度、源左衛門どのの領内にある惣(村)で、納涼の祭りがあるとの事。先日、城下に麹売りが参っておりましたので、その者を連れ、甘酒など饗しようと思っておりますが、宜しいでしょうか』
『方々への気遣い、ありがたく思っている。勿論、甘酒を饗するのは良いが、京どのはやはり酒に強いとは思えないため、あまり嗜まれない方がよいのではないか。体調を崩されていない事を祈っている』
『於逸などもいるので大丈夫かとは思いますが、また倒れてしまうなどすると先方にご迷惑をおかけいたしますので、わたくしは失礼にならない程度に、口をつけるだけにしておきます。ご心配、本当にありがとうございます』
当初、申し訳程度の近況報告であったものが、いつしかそれは比率が変わり、互いの近況を伝えるためのものへと変化していった。最初は、決して出過ぎる事のないようにと始めた報告のための消息であり、その返書だったはずのものが、気づけばその便りを待っている自分がいた。
墨をたっぷりと含んだ、あの文字がたまらなく待ち遠しかった。
消息を出したその直後に、早くも返事をいまかいまかと待っている自分自身に気づき、気を引き締めなければと思いながらも、前に届いた紙に流れるその文字を指先で辿る時間が増えていた。
先ほど、亀助に「今日も書状が届くのか」と訊かれたのは、京と信澄のやり取りが頻繁にある事を、領内の人間の大半が知っているせいである。
「先ほどの亀助のように、下々の者にもお声がけなさり、名まで覚えて下さる御方さまを、誉れと思うことがあっても、恥などと思う者は、この領内のどこにもいないかと……」
「そう、かしら……。そうあってほしい。そう、ありたいと……この二月ほど、思ってやってきたけれど……」
津田信澄の妻として。
良き、妻であろう。
この地を治める武将の妻として。
良き、奥方であろうと。
そう思い過ごしてきた。
(でも、わたくし、最近……変ね)
京は、涼しい風に煽られた黒髪を軽く手で抑え、自身の頬がやや熱く火照っている事に気づく。
(おかしいわ……)
胸の裡で、カリカリと何かが爪を立てて心を擽る。
琵琶湖を望むと、昔は心が落ち着いたのに、今は何故か夫となった青年を思い出す。
彼を思い出すと、心の裡が熟した果実を食んだ時のような気持ちで満たされる。
(おかしいわ)
キュイ、キュイ、と山間からモズの声が下りてきて、琵琶湖の水面を揺らしていく。キラキラと箔を散りばめたような湖が、その甲高い鳴き声をゆったりと呑み込んでいた。
朝方は時化っており、荒れていたらしいその湖面は、今は嘘のように空の色を映し出し、鏡のように輝いていた。
湖の沖に浮かぶ船は、漁師のものだろうか。
それとも越前へと向かう商船か。
――御方さまは、あれですか。今日も殿さまからの書状が届くんで?
――っ、それ、は……、今日、とは限らなくて……、その、いつになるか、わたくしには、わかりません……が。
先ほどの、亀助との会話が耳朶の奥で蘇る。
「……本当に、そうであったらいいのに」
あの時、言えなかったその一言を、京は心の中の形容しがたい想いと一緒に包むと、引いては寄せる琵琶湖の波間へと滲ませた。
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多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
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