湖に還る日

笠緒

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第二章 縺れ澱む想い

天正二年――光弾く水面を望む高島にて

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 先日まで辺りを駆ける風と言えば、湿った重たい気休め程度のものだったが、ふ、と気づけば頬を撫ぜる風が冷気を帯びていた。
 どこまでも高く高く青が広がり、巨大な雲が上へ上へと積み上がっていたあの空は、いつの間にかその高さを徐々に落とし、刷毛を伸ばしたかのような雲を浮かばせている。
 空が始まる場所へと視線を下ろしていけば、その色をそのまま映す水面を境界とした湖が、陽射しをキラキラ弾く姿を視界いっぱいに横たわらせていた。けれど、周囲を見渡すと、草木の色は赤や黄へと衣替えをし始めており、季節は留まる事なく冬へと近づいている事を伺わせる。
 きょうは、そんな波打ち際へとさくり、さくり、草鞋わらじ裏を転がしていく。ザザァ、と引いては寄せる水音と、ときおり鳴く鳥は、モズだろうか。水面の遠くに浮かぶ船まで届きそうなほどに、甲高い声だった。
 実家の坂本よりも北に位置するこの場所だが、さほど景色というものに変わりはないらしい。記憶のままのその風景に、心がほ、と安堵の息を吐く。けれど、最近それとは別に、カリカリと爪で心の裡を掻かれたかのような、そんな落ち着かない気持ちも少女の中に生まれていた。

「あれ、お屋敷の御方さまではないですか」

 突如かけられたその声に、京がおもてを向けると、そこには亀助きすけという名の漁師の姿。毎日、琵琶湖で釣れた魚などを新庄しんじょう城下の市場に卸しており、彼と知り合い言葉を交わすようになってから、一月ひとつき以上は経っただろうか。
 どうやら漁から戻ってきたばかりのようで、網を巻きながら話しかけてくる。

「あ……、はい。あの、亀助は、これから市へ?」
「えぇ。朝一で行こうと思ったんですがね。ちぃっと時化ってやがったんで、様子見とったんで、こんな時間ですわ」
「そうですか……。時化……」

 いま、視界の端に映る琵琶湖は、鏡のように静かな水面が広がっているが、朝一はどうやらそうではなかったらしい。

「御方さまは、あれですか。今日も殿さまからの書状おふみが届くんで?」
「っ、それ、は……、今日、とは限らなくて……、その、いつになるか、わたくしには、わかりません……が」

 くるくる、と巻き取った網を縛りながら、何の気負いもなさそうに発せられた亀助の言葉に、京の頬に一瞬で朱が走る。喉元までり上がるように弾んだ心臓を、無理やり飲み込むように京が返事をすると、背後から「ふっ」と堪えきれないような笑いが漏れた。
 京が肩越しにそちらを見遣れば、口許に拳を当て「失礼を」と視線を逸らす渡邊与右衛門重わたなべよえもんしげるの姿があった。確か、四十路には僅かに足りない程の年の頃だが、生え際に白いものがあるせいか実年齢よりも老けて見えるかもしれない。
 彼の妻がよく喋る事に反して、彼はひどく寡黙な人間であり、京とて人の事は言えないが、表情もお世辞にも豊かとは言い難い人間だ。そんな彼が思わず、といった体で噴き出すのだから、よほど自身の言動はおかしかったらしい。

「与右衛門……、わたくしの先ほどの言は、旦那さまのお恥となってしまうようなものだったでしょうか……?」

 それじゃあ、と亀助が去った後に、彼の小さくなった後ろ姿を見ながら、京は訊ねた。心の中のカリカリとした擽ったい想いを押さえなければと思いつつ、どうしてもうまくいかない。

「いえ。特に、問題はないかと」
「そう……ですか。それなら、良かったのですが……」
「と、言いますか……。それがしから、こう申し上げるのも如何なものかとは思いますが、津田つだの御家は、左様に堅苦しくお考えにならなくともよい御家かと存じますが」

 確かに、夫・信澄のぶずみの歴を考えれば、他家に比べ、さほど重々しく考える必要がない家柄である事は間違いない。現当主・信長のぶながの甥という、連枝衆の中でも本家に近しい身分とは言え、彼の父は既に亡い。母も、父の死と同時に実家に戻ったとの事で、継ぐべき所領も譜第の臣というものも存在しない。
 この家は、いままさに、彼から始まったも同然である。

「そう、かもしれないけれど。でも、わたくしが旦那さまのご評判を損なわせてしまう事だけは、それだけは、あってはならないもの……」

 京がこうして琵琶湖まで足を運ぶようになってから、二月ふたつき以上が経っていた。
 七夕の折、信澄に無断で出過ぎた真似をしてしまい、その後、しばらく気落ちする日々が続いた。屋敷の人間や、城下に住まう家臣たち、その妻たちは皆優しく、良くしてくれる。それ故に、「だめなこ」であるという自分自身がたまらなく辛かった。
 「だめなこ」であるという事実が、どうしようもなく怖かった。
 優しくしてくれている人を失望させてしまったら。
 優しい彼らの表情に、失望の感情を見てしまったら。

(それが)

 何より、怖い。
 つらいのだと。
 怖いのだと。
 そう泣いてしまいたいのに、これほどの厚遇を得ているくせに泣きたいだなんて何様のつもりだと、頭に北風の声が響いた。
 けれど、それでも気落ちし続けたままでは、また周囲の人間を困らせてしまう。自身の気遣いが、良くない結果をよくもたらす事は過去何度も経験しており、京は誰よりそれを知っている。

(わたくしが、わたくしの為に泣けなくても)

 それが巡り巡って周りの人の為になるのなら。

(泣く事は)

 許されないだろうか。
 涙をそっと、湖に落とす事は許されないだろうか。
 行き場のない想いをどうにかしたくて、意を決して「琵琶湖を見たい」と於逸に告げると、彼女はふくふくとした頬を揺らしながら首を縦に振ってくれた。最初は輿で、と言われたが、それではあまりに仰仰しい。馬に乗れる事を話すと、於逸の代わりに渡邊が供をしてくれるという。
 彼が、どういうつもりで京に付き合ってくれているのかはわからない。
 ただ危険が近づかないように周囲に目を配りながら、それでも一定の距離を置いてくれている。

(もしかしたら、里恋しいのだと思われているのかもしれないわね)

 思えば、嫁したばかりだというのに実家の事を思い出すは殆どなかった。
 いまの京の時間のすべては、この地でどうあるべきかを考える事に費やされていた。

(我儘な小娘の気まぐれに付き合わせて、そればかりは本当に申し訳ない事だけど……)

 それでも、何も言わず、ただ付き従ってくれる事がありがたかった。
 涙を溶かすつもりで訪れたその日の琵琶湖は、いつも通り、青がひたすら広がっていた。箔を散りばめたような湖面が、たぷんたぷんと揺れていた。
 どれほど見つめていただろうか。
 気づけば傍近くまでやってきた渡邊が、ぽつり、声を落とした。

  ――御方さまの、小袖のようですな。
  ――え?
  ――これは失礼を。いや、それがしは生まれてこの方、ずっとこの近江で生きて参りました。琵琶湖を見て育って参りましたが、祝言の後に、御方さまがお召しになられていた、あの……青の小袖……。

 祝言の後、信澄が岐阜へ旅立つ前に傍近くに仕えてくれている家臣を何人か紹介された。その折、確かに京は津田家で用意された青――杜若色かきつばたいろの小袖を着ており、その事を言っているのだろう。

  ――あの小袖ですが、手前自慢のようになってしまいますが、あれは家内が探し求めたものに御座います。
  ――於さわ、が……。

 話の筋が見えないままに、ただ先日知り合った彼の妻の名を呟くと、こくりと頷き、話は続いた。

  ――殿が……、七兵衛しちべえさまが、青の小袖を探すようにと女共に言われたそうに御座います。
  ――旦那さまが……?
  ――何でも、初めて御方さまをお見かけされた時にお召しになっておられた小袖が、琵琶湖のような青色で……とてもお似合いであったと。

 その言葉に、京の瞳が零れんばかりに丸まった。
 初めて見かけられた時、というのは、恐らく信澄が寝所で言っていた岐阜城を訪れた際の話だろう。

(確かにあの時は――)

 縹色はなだいろに竹の刺繍がされており、ところどころ箔が散りばめられた小袖だった。嫁入りの際にも一緒に持ってきており、部屋の長持ながもちにしまわれているはずだ。
 色直しでは、婚家の用意したものを身に着ける事が一般的だが、そこまで考えて用意されたものだとは、思いもしなかった。あの時はただただ、初夜に妻としての務めを果たせなかったそれだけを怯え心を重くしていた。

  ――お輿入れになられる姫君と既にお会いしたのかと訊ねると、はっきりとはまだわからないが、恐らく間違いないだろう、などとよくわからん事を言っておいででしたな。

 確かに寝所でも、そのような事は言っていた。
 もしやと思っていた予想が当たったと。

  ――旦那、さまが……。

 もしや、程度の予想だったとしても、あの日の自分を見て、選んでくれていたのか。
 琵琶湖のように美しいあの小袖を、自分の為に――。

  ――それがし、近江の田舎生まれ、田舎育ちにて、女人にょにんの好む意匠などさっぱりわからんものですが、それでも、あの日、御方さまのお召しになられていた小袖が、この琵琶湖によう似ていた事だけはわかります。

 この琵琶湖を見て、育ちましたからな。
 お世辞にも微笑んで、などとは言えない渡邊のおもてではあったが、それでもその唇の端は気持ち持ち上がり、目尻は優しさに溶けていたように思う。
 そう、思えた。
 そう、信じたかった。

(もう、いじけるのはやめよう)

 「だめなこ」ならば、「だめなこ」として、努めればいい。

(津田七兵衛信澄さまの、妻として)

 わたくしは、わたくしのなすべき事を、なそう。
 再び城下へと足を運ぶようになったのは、それからだった。
 それでも、流石に七夕の折の身勝手な行動を改めるべく、なるべくその場で答えを出さず、都度都度、岐阜の信澄へと消息ふみを書くようになった。

  ――暑い日が続いておりますが、旦那さまはお変わりないでしょうか。

 用件のみでは失礼かと、妻として・・・・一言二言、近況を交えながらの消息ふみを送るようになると、その返信として彼らからも一言二言、近況連絡が届くようになっていた。

『大きな瓜を知人より頂いたが、とても岐阜の屋敷では食べきらないので、そちらに少し送る。恐らく味も良いかと思うので、皆で食べてほしい』
『本日、城下で祭りがありました。旦那さまより頂いた瓜を冷やして、皆に分け与えました。子供たちが大層喜んでおりました。ありがとうございました』

京都みやこの行商から、いい反物が手に入りました。旦那さまの帷子かたびらを繕いましたので、お送りいたします。屋敷にある旦那さまの小袖と同じ丈にてお仕立て致しましたが、もし合わなければ、送り返してくださいませ。お直し致します』
『まだ暑さも盛りで、また、俺は九右衛門きゅうえもんどのの遣いにて方々に派遣されている身なので、帷子、本当に本当にありがたい。お礼に、こちらで見かけた櫛を送る。気に入ってもらえると、嬉しい』
『櫛、ありがとうございました。彫り物がとても美しくて、暇を作っては度々眺めております。本当に嬉しいです』

『今度、源左衛門げんざえもんどのの領内にある惣(村)で、納涼の祭りがあるとの事。先日、城下に麹売りが参っておりましたので、その者を連れ、甘酒など饗しようと思っておりますが、宜しいでしょうか』
『方々への気遣い、ありがたく思っている。勿論、甘酒を饗するのは良いが、京どのはやはり酒に強いとは思えないため、あまり嗜まれない方がよいのではないか。体調を崩されていない事を祈っている』
『於逸などもいるので大丈夫かとは思いますが、また倒れてしまうなどすると先方にご迷惑をおかけいたしますので、わたくしは失礼にならない程度に、口をつけるだけにしておきます。ご心配、本当にありがとうございます』

 当初、申し訳程度の近況報告であったものが、いつしかそれは比率が変わり、互いの近況を伝えるためのものへと変化していった。最初は、決して出過ぎる事のないようにと始めた報告のための消息ふみであり、その返書だったはずのものが、気づけばその便りを待っている自分がいた。
 墨をたっぷりと含んだ、あの文字がたまらなく待ち遠しかった。
 消息ふみを出したその直後に、早くも返事をいまかいまかと待っている自分自身に気づき、気を引き締めなければと思いながらも、前に届いた紙に流れるその文字を指先で辿る時間が増えていた。
 先ほど、亀助に「今日も書状ふみが届くのか」と訊かれたのは、京と信澄のやり取りが頻繁にある事を、領内の人間の大半が知っているせいである。

「先ほどの亀助のように、下々の者にもお声がけなさり、名まで覚えて下さる御方さまを、誉れと思うことがあっても、恥などと思う者は、この領内のどこにもいないかと……」
「そう、かしら……。そうあってほしい。そう、ありたいと……この二月ふたつきほど、思ってやってきたけれど……」

 津田信澄の妻として。
 良き、妻であろう。
 この地を治める武将の妻として。
 良き、奥方であろうと。
 そう思い過ごしてきた。

(でも、わたくし、最近……変ね)

 京は、涼しい風に煽られた黒髪を軽く手で抑え、自身の頬がやや熱く火照っている事に気づく。

(おかしいわ……)

 胸の裡で、カリカリと何かが爪を立てて心を擽る。
 琵琶湖を望むと、昔は心が落ち着いたのに、今は何故か夫となった青年を思い出す。
 彼を思い出すと、心の裡が熟した果実を食んだ時のような気持ちで満たされる。

(おかしいわ)

 キュイ、キュイ、と山間やまあいからモズの声が下りてきて、琵琶湖の水面を揺らしていく。キラキラと箔を散りばめたような湖が、その甲高い鳴き声をゆったりと呑み込んでいた。
 朝方は時化っており、荒れていたらしいその湖面は、今は嘘のように空の色を映し出し、鏡のように輝いていた。
 湖の沖に浮かぶ船は、漁師のものだろうか。
 それとも越前へと向かう商船か。

  ――御方さまは、あれですか。今日も殿さまからの書状おふみが届くんで?
  ――っ、それ、は……、今日、とは限らなくて……、その、いつになるか、わたくしには、わかりません……が。

 先ほどの、亀助との会話が耳朶の奥で蘇る。

「……本当に、そうであったらいいのに」

 あの時、言えなかったその一言を、京は心の中の形容しがたい想いと一緒に包むと、引いては寄せる琵琶湖の波間へと滲ませた。
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