クロワッサン物語

コダーマ

文字の大きさ
3 / 87
【序章】赤い三日月

赤い三日月(3)

しおりを挟む
「無理ですわ! だって、閣下はちっとも人望がないんですもの。ご子息からも嫌われている。自覚がおありなだけ、まだましかしらね。なのに、三十倍以上の数のオスマン帝国軍に勝つ気でいらっしゃるなんて!」

 無様ですわ──そう吠えて笑い転げる女を前に、男は左手で自らの右腕をつかんだ。拳の形に握り締められた右の手は、激しく震えている。
 怖いものなんて無いという視線で、エルミアはその手をちらりと見やった。

「怒っていらっしゃる? 当然よね。図星だもの」

「……エルミア、お前は何者なんだ。何故俺に近付いた?」

 感情を押し殺した静かな声に、女が堪えきれないというように噴き出した。

「わたくしが貴方に近付いた訳ですか? そんなの決まってますわ。貴方をずっと探していたから。ずっとずっと探していて。それから……」

 ──貴方が、このウィーンの将軍だからよ。

 わざとゆっくり。
 噛んで含めるように。
 自分の言葉が相手の感情に浸透するように女は言った。
 その笑みは美しい。
 世界が終わるときがくれば、天使はこんな風に笑うのだろうか。

 男は唇を噛みしめる。
 それは意外な答えではなかった。
 納得しろと理性は告げる。

 若く美しい娘が、地位のある中年に近づく理由など決まっている。
 金だ。
 あるいは彼女は情報を操る間諜だったのだろうか。
 理性は冷徹にそう告げる。

 まだ敵軍がここまで進軍してくるより前、近隣の町村からの避難民のために、ウィーンの市門は開け放たれていた。
 防衛の責任者として見回りと門兵の激励を兼ねて、また、その他諸々の確認事項を片付けるため、彼が市最大の規模を誇るケルントナー門に出向いた時のことだ。
 エルミアが市門をくぐってウィーンに入ってきたのは。

 目立つ女ではあった。
 薄汚れたフードと外套を羽織っていても、その美しさと愛らしさは零れ出てくるようだ。

 彼は女の姿にみとれた。
 何より、家族や村人らが一団になってやって来ることが多い中、不思議なことに彼女は一人であった。
 誰をも寄せ付けぬように全身を強張らせる様子は不審よりも哀れを誘うものである。
 ウィーンという堅固な要塞都市に辿り着いた安堵すら感じさせない。
 市壁の全容を見るために顔をあげることすらしなかったのだから。

 いくら何でも彼女が美人だから手を出したわけではない。
 避難民は、市門を抜けウィーンの街に入るように誘導される。
 神聖ローマ帝国の首都は石畳にきめ細かく覆われた壮麗な城塞都市である。
 通り沿いに二階建ての民家と商店が並び、出店がテントを連ねる賑わいの中、エルミアはぽつりと道に立ち尽くしていた。

 避難民はまず街の広場(アム・ホーフ)に集められ、家族単位で教会などの避難所を割り振られる。
 旅装のまま行列に並んだ彼女は、落ち着かないという様子で周囲に視線を走らせていた。
 そして多くの避難民と、それに対応するための兵士らの中からウィーン防衛司令官の姿を見付けるなり、パッと顔を輝かせたのだ。
 何事か呟いてこちらに駆け寄ってくる。
 兵や側近らの制止も振り払うほどの勢いで。

 もちろん戸惑いはあった。
 だが「お会いしたかったです」と嬉しそうに自分を見上げる美女の視線にぐらついてしまったことを責められるいわれはあるまい。

 その日のうちに、彼は誘われるがままに彼女を抱いた。
 以来、可愛くてずっとこの王宮の私室に置いている。
 エルミアと過ごしてきた時間は、僅か数週間ほどのものであった。
 彼は己の仕事に勤しむ間の、ほんの少しの隙間をエルミアとここで過ごしている。

 若い娘に翻弄され、慰められ、時にこうやって怒りを掻き立てられながら。
 でも最後は柔らかな胸に顔を埋めれば心は安らぎに満たされる──そう分かっていた。だから、今回もきっと──。

「エルミア、もう止そう。こんなことがしたいんじゃない。お前の目的が何であっても、俺は咎めたりはしない。この街で無事にいてほしいだけなんだ」

 クスリ。
 今度は失笑。
 女は唇の端を歪めた。

「閣下は甘くていらっしゃる。そう、さっき食べたガレットよりもずっとね」

「エルミ……何故?」

 腹にチクリと痛みを感じて、彼は視線を落とす。
 そして眼を見開いた。

 鋭い三日月を思わせる銀色──短剣だ。
 それが己の腹に突き立っているではないか。
 簡素な彫刻が施された柄に添えられているのは白い指。
 色が変わるくらい強く握り締め、その指先はすでに青紫に変じていた。

「ご、ごめんなさい、閣下。こんなこと、本当はしたくなかった。だって、わたくしは本当に閣下のことを……」

 震える唇から漏れる荒い息。
 途切れ途切れの言葉。
「あっ」と彼女が小さく声をあげた。
 男の腹に突き立てたナイフの柄に、信じられないくらいの反動を感じたのだ。

「エルミア……お前、オスマンの間者だったのか」

 意外なほどに力強い男の声。
 エルミアが顔を上げた瞬間。
 勢いよくナイフが弾かれる。

 若いころから戦場に慣れ、行軍と夜営、そして戦闘を繰り返してきた身体は筋肉に覆われていた。
 か弱い女の力で押し込まれた細いナイフの侵入など許す隙はない。
 腹に挿しこまれた細い刃先を止め、押し戻したのだ。
 抜けた刃が、敷物の上に音もなく落ちる。

「くっ!」

 それを拾おうと屈みこんだエルミアの目の前で、ナイフは蹴り飛ばされた。

「違うわよっ!」

 空も裂けよとばかりに、女が吠える。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

大東亜戦争を有利に

ゆみすけ
歴史・時代
 日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

ゲート0 -zero- 自衛隊 銀座にて、斯く戦えり

柳内たくみ
ファンタジー
20XX年、うだるような暑さの8月某日―― 東京・銀座四丁目交差点中央に、突如巨大な『門(ゲート)』が現れた。 中からなだれ込んできたのは、見目醜悪な怪異の群れ、そして剣や弓を携えた謎の軍勢。 彼らは何の躊躇いもなく、奇声と雄叫びを上げながら、そこで戸惑う人々を殺戮しはじめる。 無慈悲で凄惨な殺戮劇によって、瞬く間に血の海と化した銀座。 政府も警察もマスコミも、誰もがこの状況になすすべもなく混乱するばかりだった。 「皇居だ! 皇居に逃げるんだ!」 ただ、一人を除いて―― これは、たまたま現場に居合わせたオタク自衛官が、 たまたま人々を救い出し、たまたま英雄になっちゃうまでを描いた、7日間の壮絶な物語。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

処理中です...