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【第一章 ウィーン包囲】パン・コンパニオン
パン・コンパニオン(2)
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舌が回るのは結構だが、早くもリヒャルトの馬は遅れ気味だ。
しっかりしろよという思いで指揮官は振り返る。
リヒャルトがビクリと肩を震わせたのが分かった。
冷たい視線だと感じたのであろう。
父上との呼び方から分かるように、リヒャルトは防衛司令官シュターレンベルクの息子であった。
王宮に出入りする者の礼儀として皇帝の前では必ず被ることになっている「かつら」を、むしり取って床に投げつけたのはシュターレンベルク自身だ。
子飼いの配下もそれに倣う。
神聖ローマ帝国皇帝レオポルトがウィーンを出立した次の日のことだ。
リヒャルトの言うように、カツラのない生活は楽なものである。
今は七月。
宮廷での静かな動きであればともかく、馬を駆り、あるいは走り、土煙や銃の黒煙にまみれる戦いの場では蒸れて暑いばかりだ。
儀礼にうるさい宮廷人も、敬意を払う対象の皇帝もウィーンから離脱した今、ここは軍人の街となっていた。
戦うために一番効率的な方法を選択するのは、指揮官として当然のことだ。
三人共、不必要に首を振る動作を繰り返すのは、短い髪ゆえ風が頭皮をくすぐるのが心地良いからであろう。
もっとも、ルイ・ジュリアス、リヒャルトという若い二人は壁に囲まれた市から出たことによる緊張の方が先立っているかもしれない。
シュターレンベルクはチラと背後の二人に視線を送った。
まずは左列。
あまり似ていないといわれる我が跡取り息子リヒャルトだが、濃い茶をした髪の色は同じだ。
のっぺりした顔立ち、貧弱な体躯はしごく頼りなく感じるものであったが、総司令官の息子として防衛戦でも「重職」を任されている。
そのリヒャルトに攻撃され、黙ってしまった右側──ルイ・ジュリアスの方に視線を巡らせる。
聡明な青の目が印象的な若者は、息子と同年代ながら何もかも違っていた。
馬上でも揺らぐことのない体幹。
腰に下げた剣も銃もまったく重みを感じさせない。
手綱を操る腕は逞しく、手練れであることは一目瞭然だ。
ルイ・ジュリアス・フォン・サヴォイエン・カリグナン。
フランス貴族の血を引くという若者は、今もシュターレンベルクから一歩下がった位置を駆けている。
──三十万の精鋭が貴市を包囲している。改宗(イスラム)か死か、選べ。
オスマン帝国軍司令官カラ・ムスタファ・パシャからの書簡の内容をかいつまんで話すと、背後から「サンジュウマンっ!」と悲鳴に近い呻き声、右隣りからは押し殺した呼吸音が返ってきた。
赤地に白の三日月と星の透かしという、彼らの国旗が印された用紙を使用した、それは降伏を促す文書であった。
つい数時間前に届けられたものだ。
「随分高価な紙を使っていた。見たけりゃ見ていいぞ。王宮にちゃんと保管しているからな。ああ、破っちゃいないよ。陛下が帰ったら一応見せなきゃならないだろ」
軽口を装った言葉に、シュターレンベルクの不安がにじみ出る。
レオポルトが無事に戻って来るか、その時に戻れるウィーン(ここ)がちゃんと存在しているか──。
皮肉な考えが去来するが二人の手前、口には出すことはできない。
「そ、それで返事は何となさったのですか?」
「そんなもの拒否に決まっているじゃないか、リヒャルト殿」
指揮官の息子の間の抜けた問いかけに、ルイ・ジュリアスが返す。
無論だ。
儀礼に沿って、ちゃんと「拒否」の返書をしたためた。
怒りに任せて使者を処刑するような真似はしない。
何故なら自分は危機的状況にあるこの都市の防衛を任されたのだから。
迂闊な行為は、街の破滅に直結する。
頭の中で手紙の文面を反芻したのは、暗い思いから目を逸らすためである。
敵の使者はちゃんと生かして帰してやった。
自分には防衛司令官としての責任があるからだ。
ならば、夕べの出来事はどう説明する?
エルミアはウィーン防衛司令官である自分に刃物を突き立て、降伏を迫った。
敵の手先であることは否定していたが、ならば何だというのか。
いずれにしても、彼女の遺体が消えたことは事実だ。
つまりそれは、敵の協力者が近くにいるということになる。
それともエルミアは死んではおらず、自分の足で逃げ出したか。
あの短い時間の間に、一体何が起こったと言うのだ。
──ああ、考え出すとグラグラと地面が揺れるようだ。
馬が歩を進める大地が頼りなく、沼にでも迷い込んだかのような心もとなさを覚える。
彼女が現実に存在していたのだろうかという疑問まで沸いてくる始末だ。
愛する女の顔を思い出そうとしても、鮮やかな森のような瞳の色しか蘇ってこないことに、シュターレンベルクは慄然とした。
「……大丈夫なのでしょうか、父上」
だから、背後から投げられた気弱そうな小さな声に、シュターレンベルクはビクリと身を震わせたのだった。
指揮官の馬の足取りが一瞬乱れたことに、しかし若い二人が気付いた様子はない。
大丈夫かという問いかけも父に向けての言葉ではなく、対象はウィーンという都市だったようだ。
つまり、圧倒的不利な戦況への不安を吐露したにすぎない。
「リヒャルト殿よ、弱気は一番の敵だ。我々は必ずこのウィーンを守り抜くんだ」
「弱気など。断じて……断じて私はそんな気は起こしていませんよ、ルイ・ジュリアス殿。ウィーンは帝国の都。異教徒の軍勢など蹴散らしてやれば良いでしょう」
「ああ。援軍の到着を待って必ず。それまではリヒャルト殿、壁の中で共に耐えよう」
「共にですって? むむ……非常に不本意ですが」
「そ、その言い草はどういう……こっちだって不本意だ!」
しっかりしろよという思いで指揮官は振り返る。
リヒャルトがビクリと肩を震わせたのが分かった。
冷たい視線だと感じたのであろう。
父上との呼び方から分かるように、リヒャルトは防衛司令官シュターレンベルクの息子であった。
王宮に出入りする者の礼儀として皇帝の前では必ず被ることになっている「かつら」を、むしり取って床に投げつけたのはシュターレンベルク自身だ。
子飼いの配下もそれに倣う。
神聖ローマ帝国皇帝レオポルトがウィーンを出立した次の日のことだ。
リヒャルトの言うように、カツラのない生活は楽なものである。
今は七月。
宮廷での静かな動きであればともかく、馬を駆り、あるいは走り、土煙や銃の黒煙にまみれる戦いの場では蒸れて暑いばかりだ。
儀礼にうるさい宮廷人も、敬意を払う対象の皇帝もウィーンから離脱した今、ここは軍人の街となっていた。
戦うために一番効率的な方法を選択するのは、指揮官として当然のことだ。
三人共、不必要に首を振る動作を繰り返すのは、短い髪ゆえ風が頭皮をくすぐるのが心地良いからであろう。
もっとも、ルイ・ジュリアス、リヒャルトという若い二人は壁に囲まれた市から出たことによる緊張の方が先立っているかもしれない。
シュターレンベルクはチラと背後の二人に視線を送った。
まずは左列。
あまり似ていないといわれる我が跡取り息子リヒャルトだが、濃い茶をした髪の色は同じだ。
のっぺりした顔立ち、貧弱な体躯はしごく頼りなく感じるものであったが、総司令官の息子として防衛戦でも「重職」を任されている。
そのリヒャルトに攻撃され、黙ってしまった右側──ルイ・ジュリアスの方に視線を巡らせる。
聡明な青の目が印象的な若者は、息子と同年代ながら何もかも違っていた。
馬上でも揺らぐことのない体幹。
腰に下げた剣も銃もまったく重みを感じさせない。
手綱を操る腕は逞しく、手練れであることは一目瞭然だ。
ルイ・ジュリアス・フォン・サヴォイエン・カリグナン。
フランス貴族の血を引くという若者は、今もシュターレンベルクから一歩下がった位置を駆けている。
──三十万の精鋭が貴市を包囲している。改宗(イスラム)か死か、選べ。
オスマン帝国軍司令官カラ・ムスタファ・パシャからの書簡の内容をかいつまんで話すと、背後から「サンジュウマンっ!」と悲鳴に近い呻き声、右隣りからは押し殺した呼吸音が返ってきた。
赤地に白の三日月と星の透かしという、彼らの国旗が印された用紙を使用した、それは降伏を促す文書であった。
つい数時間前に届けられたものだ。
「随分高価な紙を使っていた。見たけりゃ見ていいぞ。王宮にちゃんと保管しているからな。ああ、破っちゃいないよ。陛下が帰ったら一応見せなきゃならないだろ」
軽口を装った言葉に、シュターレンベルクの不安がにじみ出る。
レオポルトが無事に戻って来るか、その時に戻れるウィーン(ここ)がちゃんと存在しているか──。
皮肉な考えが去来するが二人の手前、口には出すことはできない。
「そ、それで返事は何となさったのですか?」
「そんなもの拒否に決まっているじゃないか、リヒャルト殿」
指揮官の息子の間の抜けた問いかけに、ルイ・ジュリアスが返す。
無論だ。
儀礼に沿って、ちゃんと「拒否」の返書をしたためた。
怒りに任せて使者を処刑するような真似はしない。
何故なら自分は危機的状況にあるこの都市の防衛を任されたのだから。
迂闊な行為は、街の破滅に直結する。
頭の中で手紙の文面を反芻したのは、暗い思いから目を逸らすためである。
敵の使者はちゃんと生かして帰してやった。
自分には防衛司令官としての責任があるからだ。
ならば、夕べの出来事はどう説明する?
エルミアはウィーン防衛司令官である自分に刃物を突き立て、降伏を迫った。
敵の手先であることは否定していたが、ならば何だというのか。
いずれにしても、彼女の遺体が消えたことは事実だ。
つまりそれは、敵の協力者が近くにいるということになる。
それともエルミアは死んではおらず、自分の足で逃げ出したか。
あの短い時間の間に、一体何が起こったと言うのだ。
──ああ、考え出すとグラグラと地面が揺れるようだ。
馬が歩を進める大地が頼りなく、沼にでも迷い込んだかのような心もとなさを覚える。
彼女が現実に存在していたのだろうかという疑問まで沸いてくる始末だ。
愛する女の顔を思い出そうとしても、鮮やかな森のような瞳の色しか蘇ってこないことに、シュターレンベルクは慄然とした。
「……大丈夫なのでしょうか、父上」
だから、背後から投げられた気弱そうな小さな声に、シュターレンベルクはビクリと身を震わせたのだった。
指揮官の馬の足取りが一瞬乱れたことに、しかし若い二人が気付いた様子はない。
大丈夫かという問いかけも父に向けての言葉ではなく、対象はウィーンという都市だったようだ。
つまり、圧倒的不利な戦況への不安を吐露したにすぎない。
「リヒャルト殿よ、弱気は一番の敵だ。我々は必ずこのウィーンを守り抜くんだ」
「弱気など。断じて……断じて私はそんな気は起こしていませんよ、ルイ・ジュリアス殿。ウィーンは帝国の都。異教徒の軍勢など蹴散らしてやれば良いでしょう」
「ああ。援軍の到着を待って必ず。それまではリヒャルト殿、壁の中で共に耐えよう」
「共にですって? むむ……非常に不本意ですが」
「そ、その言い草はどういう……こっちだって不本意だ!」
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