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【第一章 ウィーン包囲】パン・コンパニオン
パン・コンパニオン(3)
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後方の二人、徐々に仲の悪さが露呈してきた。
シュターレンベルクの暗い表情が、別の意味で苦いものに変じる。
連隊長として総司令官に付き従うルイ・ジュリアスと、シュターレンベルク家の長男という立場で同程度の地位にあるリヒャルト。
同年代の二人だが、両者の間に時に冷たい空気が流れるのは仕方のない話であろう。
シュターレンベルクの駆る馬が僅かにスピードをあげた。
後ろ足で跳ね上げた砂塵が後方の二人の腿のあたりを打った筈だが、彼らがそれに気付いた様子はない。
気付けば手綱を放し、右手親指は口元へ。
二人の下らない争いに苛立ちの思いが募り、爪をギリギリと噛みしめていたのだ。
──閣下は本当はお優しい方ですわ。
不意に、エルミアの声が脳裏に蘇った。
──怒鳴る前に大きく息を吸って、頭の中でみっつ数えて。
エルミアが言うがままに息を吸い、祈りの言葉のように「ひとつ、ふたつ、みっつ」──唱える。不思議と心は落ち着いた。
「リヒャルト殿は隊列の訓練にも来ないではないか。ああ、担当が違ったか」
「うぬぅ……、私が防火担当なのを馬鹿にしているのですか!」
「馬鹿になどするはずないだろう。戦いに関わりのない部署でも、立派な仕事ではないか」
「その言い方。うぅ……やっぱり馬鹿にしている」
「二人とも……」
後ろの二人をこれ以上放置しても薄ら寒い思いが強まるだけなので、シュターレンベルクは彼らに「安心」を与えてやることにした。
「いいかげんに止めろ。ここは壁の中じゃない。すぐそこに敵軍が布陣しているんだぞ」
「ヒッ、三十万のオスマン軍が……」
「閣下、驚かせないでください」
すぐそこというのは無論、嘘だ。
空き地(グラシ)を警戒して、オスマン帝国軍はウィーンから相当の距離を置いて陣を敷いている。
「オスマン軍三十万は虚言だ。それにこちらには策がある」
「虚言ですか。確かに三十万人とは途方もない数で、いちいち数えていられませんが」
「いちいち数えるわけないだろう、リヒャルト殿。部隊の単位と個数で大体の数を判断するんだよ」
「わ、私だって実際一人ひとりを数えたりなんてしませんよ。そんなことをしていたら日が暮れてしまいます。しかしながら、都を完全に囲まれているというのは確かでしょう」
「それはそうだが……。だが簡単に諦めてはいけない。何か手がある筈だ」
銘々好き勝手な反応を寄越してくれた。
若手の二人が防衛線で大部隊の指揮をとることはまずないが、それにしても不安になる。
いざという時、ウィーン防衛軍は本当に結束できるのだろうか。
オスマン帝国とは東方の大国である。
東端はカスピ海に達し、西は北アフリカにまで領土を拡大する広大な帝国だ。
軍勢の強さと残虐さはヨーロッパでも知れ渡っている。
微かな不安を打ち払うように、シュターレンベルクは「安心」の説明を始めた。
オスマン軍も首都コンスタンティノープル──彼らはコスタンティーニーイェと呼ぶらしい──を出立した時は成程、大軍を率いていただろう。
その数三十万に達していたかもしれない。
だが、進軍する彼らの前にウィーンへの通路たるハンガリー、そしてオーストリア各地の砦が立ちふさがる。
シュターレンベルクとて、のうのうと待っていたわけではない。
これらの地域に点在する諸侯らに裏切りの機会を与えないよう半年も前から骨を折っていた。
戦えば蹴散らされるのは目に見えている。
そのため砦は総司令官の指示に従って城門を固く閉ざし、沈黙した。
オスマン軍としては神聖ローマ帝国側の要塞を無視して通り過ぎるわけにはいかず、最低限の包囲をそこに残す羽目になる。
従ってここ、ウィーンに至った敵兵は十万弱に過ぎない。
そこにはクリミア、ワラキア、モルタヴィアなど属領からの補助部隊も数に入っている。
それらが実際の戦力として機能するかといえば疑問符が付くわけだ。
しかも軍勢には物売りや修理工ら、多数の非戦闘員も混ざっている。
つまり三十万はおろか、十万人の人数の中でも、実際に戦闘に従事する人数は限られるというわけだ。
しかしそれは、敵軍だけではない。
同様に我がウィーン守備軍も、市民や学生をかき集めた数字がようやく「万」に届いたのが精一杯というのが現実であった。
リヒャルトが言うように、大きな三日月形をなして市を囲む敵軍の配置は、壮観と言わざると得ないのが確かなのだ。
まぁ、そこは彼らに敢えて今告げるべき事実ではあるまいが。
シュターレンベルクの暗い表情が、別の意味で苦いものに変じる。
連隊長として総司令官に付き従うルイ・ジュリアスと、シュターレンベルク家の長男という立場で同程度の地位にあるリヒャルト。
同年代の二人だが、両者の間に時に冷たい空気が流れるのは仕方のない話であろう。
シュターレンベルクの駆る馬が僅かにスピードをあげた。
後ろ足で跳ね上げた砂塵が後方の二人の腿のあたりを打った筈だが、彼らがそれに気付いた様子はない。
気付けば手綱を放し、右手親指は口元へ。
二人の下らない争いに苛立ちの思いが募り、爪をギリギリと噛みしめていたのだ。
──閣下は本当はお優しい方ですわ。
不意に、エルミアの声が脳裏に蘇った。
──怒鳴る前に大きく息を吸って、頭の中でみっつ数えて。
エルミアが言うがままに息を吸い、祈りの言葉のように「ひとつ、ふたつ、みっつ」──唱える。不思議と心は落ち着いた。
「リヒャルト殿は隊列の訓練にも来ないではないか。ああ、担当が違ったか」
「うぬぅ……、私が防火担当なのを馬鹿にしているのですか!」
「馬鹿になどするはずないだろう。戦いに関わりのない部署でも、立派な仕事ではないか」
「その言い方。うぅ……やっぱり馬鹿にしている」
「二人とも……」
後ろの二人をこれ以上放置しても薄ら寒い思いが強まるだけなので、シュターレンベルクは彼らに「安心」を与えてやることにした。
「いいかげんに止めろ。ここは壁の中じゃない。すぐそこに敵軍が布陣しているんだぞ」
「ヒッ、三十万のオスマン軍が……」
「閣下、驚かせないでください」
すぐそこというのは無論、嘘だ。
空き地(グラシ)を警戒して、オスマン帝国軍はウィーンから相当の距離を置いて陣を敷いている。
「オスマン軍三十万は虚言だ。それにこちらには策がある」
「虚言ですか。確かに三十万人とは途方もない数で、いちいち数えていられませんが」
「いちいち数えるわけないだろう、リヒャルト殿。部隊の単位と個数で大体の数を判断するんだよ」
「わ、私だって実際一人ひとりを数えたりなんてしませんよ。そんなことをしていたら日が暮れてしまいます。しかしながら、都を完全に囲まれているというのは確かでしょう」
「それはそうだが……。だが簡単に諦めてはいけない。何か手がある筈だ」
銘々好き勝手な反応を寄越してくれた。
若手の二人が防衛線で大部隊の指揮をとることはまずないが、それにしても不安になる。
いざという時、ウィーン防衛軍は本当に結束できるのだろうか。
オスマン帝国とは東方の大国である。
東端はカスピ海に達し、西は北アフリカにまで領土を拡大する広大な帝国だ。
軍勢の強さと残虐さはヨーロッパでも知れ渡っている。
微かな不安を打ち払うように、シュターレンベルクは「安心」の説明を始めた。
オスマン軍も首都コンスタンティノープル──彼らはコスタンティーニーイェと呼ぶらしい──を出立した時は成程、大軍を率いていただろう。
その数三十万に達していたかもしれない。
だが、進軍する彼らの前にウィーンへの通路たるハンガリー、そしてオーストリア各地の砦が立ちふさがる。
シュターレンベルクとて、のうのうと待っていたわけではない。
これらの地域に点在する諸侯らに裏切りの機会を与えないよう半年も前から骨を折っていた。
戦えば蹴散らされるのは目に見えている。
そのため砦は総司令官の指示に従って城門を固く閉ざし、沈黙した。
オスマン軍としては神聖ローマ帝国側の要塞を無視して通り過ぎるわけにはいかず、最低限の包囲をそこに残す羽目になる。
従ってここ、ウィーンに至った敵兵は十万弱に過ぎない。
そこにはクリミア、ワラキア、モルタヴィアなど属領からの補助部隊も数に入っている。
それらが実際の戦力として機能するかといえば疑問符が付くわけだ。
しかも軍勢には物売りや修理工ら、多数の非戦闘員も混ざっている。
つまり三十万はおろか、十万人の人数の中でも、実際に戦闘に従事する人数は限られるというわけだ。
しかしそれは、敵軍だけではない。
同様に我がウィーン守備軍も、市民や学生をかき集めた数字がようやく「万」に届いたのが精一杯というのが現実であった。
リヒャルトが言うように、大きな三日月形をなして市を囲む敵軍の配置は、壮観と言わざると得ないのが確かなのだ。
まぁ、そこは彼らに敢えて今告げるべき事実ではあるまいが。
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