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ひそむ闇
ひそむ闇(2)
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一五二九年の第一次ウィーン包囲の際も、神聖ローマ帝国皇帝であるカール五世、その弟であるオーストリア大公フェルディナントの両名が首都を脱出したという。
オスマン帝国軍に包囲された市は、ニコラス・サルム伯率いる二万の軍勢が守護することとなった。
その時も兵の数の乏しさ故、野戦は回避し籠城に徹するという戦法が取られたものだ。
意識して踏襲しようというわけではないが状況が酷似している以上、同じ戦略を立てざるをえない。
もっとも、その時のように冬の到来と共に敵軍が去ってくれるかどうか、今回は分からないわけだが。
風に打たれながら、シュターレンベルクは首を振った。
考えても仕方のないことだ。
防衛に徹する──こちらとしてはそれ以外に道はないのだから。
願わくは灯かりの届かない市中の闇に、良くないものが潜んでいないようにと祈りながら。
「ああ、ここにいましたか」
遠くの篝火を見詰めながら百五十年ほども昔の包囲戦のことを考えていたせいか、意識が散漫になっていたらしい。
だからシュターレンベルクはその声に、とにかく驚いてしまった。
咄嗟の動きで銃を構えそうになるも、耳に覚えのある早口に気付いて全身の力を抜く。
「詰所にいるだの、市門に行っただの、陵堡を回っているだの。散々振り回されました。探しましたよ、防衛司令官殿」
階段をヒィヒィ言いながら登ってきたのは、ウィーン市の市長ヨハンであった。
「全部回った。回り終わったから、ここに来たんだ」
兵士や市民らが集う広場、それから詰所。
見張りが詰めている十二の陵堡に市門。
足が痛いなどと言っていられない。
それらすべてに指揮官は日に何度か顔を出す。
夜間には見張りの兵らの元にも気さくな様子で訪れた。
そして、それ以外の時間を使って敵軍観察の名目でここ──大聖堂の塔に登るのだ。
「この悪趣味な階段っ!」
膝が痛いと呻きながらも、市長はシュターレンベルクの座る窓枠に寄りかかった。
崩れ落ちたと形容する方が相応しいか。
「大丈夫ですか、市長殿。トシですか?」
座り込んで肩で息をするヨハンに対して、何しに来たんだという言葉を飲み込み、手を差し出す。
「も、もちろん……だ、大丈夫ですよ。こんな急な階段を上り下りするとは……。やはり軍人は違うということですか」
あなただって足が痛いだの年齢がどうだの言っておきながら、しょっちゅうここに登っていると言うじゃないですか。
まったく、軍人って生き物は体力馬鹿以外の何者でもありませんね──そんな悪口が続く。
無論、互いに悪意をぶつけ合っているわけではない。
こんなもの軽口にすぎない。
「オスマン軍が各地の砦の包囲を解き、その軍勢のほとんどをこちらに向けて行軍させているとの報が入ったのです、市長殿。だから、こうやって偵察している」
「今で総勢十万でしょう。これ以上膨れあがりますか!」
掌を握ったり開いたりするシュターレンベルクの姿に、気まずそうな表情を隠そうともせず市長が頷いて見せる。
メルク要塞からの軍鳩の便りを皮切りに、各地から同様の知らせが届いていた。
戦争の局面は、一気に変わろうとしている。
「陵堡の見張りが言っていた。オスマン軍に本国皇帝からの使者が来たようだ。カラ・ムスタファはウィーン攻略を急かされたんだろう」
「それは厄介ですね。焦って墓穴を掘ってくれれば良いですが、なかなかそうもいかないでしょうね」
「俺なら墓穴を掘りかねんが」
「あはは、そうですね。指揮官殿は人に相談をしないから失敗が多い」
市の責任者二人の会話である。
気楽そうに聞こえるのは、オスマン軍集結という情報が、すぐさま危機に通じるというわけではないと分かっているからだ。
市長もわざわざ夜中にこんな所にまで来たのは、別に用があるようである。
先程からちらちらとシュターレンベルクの方へと視線をくれる。
「その調子だと、傷の具合は大丈夫そうですね」
「……き、傷とは?」
咄嗟に右手を背に隠して、シュターレンベルクはヨハンから視線を逸らせた。
「無茶をしましたね。暴発しかけの銃を素手でつかむなど。腕がもげてもおかしくないのですよ」
「バーデン伯は一発目の火薬をほとんど地面に落としていた。暴発といっても大したことじゃ……」
市内に侵入してきたセルゲンティティの撃退に成功した後、流れる血を隠しながら王宮に戻って手当をした。
その様子を市長に目撃されていたらしい。
腕がもげるなど大げさすぎる。
大した傷ではないし、銃だって問題なく撃てるだろう。
あの場でフランツやグイードに怪我がばれなかったのは幸いだった。
自分が怪我を負ったと気付けば、あいつらはきっと騒ぐ。
そうしたらバーデン伯の立場は……。
「バーデン殿は、あれはあれで随分しょげていらしたようですよ」
「まさか。あの若造が反省などするわけない」
「いやいや。頑固が玉に瑕ですが、あれはあれで真面目で良い青年です」
「玉に瑕どころじゃない。あの頑固者は……」
どうやら市長は市長で、シュターレンベルクの腕を心配して様子を見に来たということらしい。
どうせ明日の朝には顔を合わせるのだから、様子伺いならその時で良いものを。
普段は嫌味ばかりなこの男の、これはこれで意外な思いやりであるらしい。
オスマン帝国軍に包囲された市は、ニコラス・サルム伯率いる二万の軍勢が守護することとなった。
その時も兵の数の乏しさ故、野戦は回避し籠城に徹するという戦法が取られたものだ。
意識して踏襲しようというわけではないが状況が酷似している以上、同じ戦略を立てざるをえない。
もっとも、その時のように冬の到来と共に敵軍が去ってくれるかどうか、今回は分からないわけだが。
風に打たれながら、シュターレンベルクは首を振った。
考えても仕方のないことだ。
防衛に徹する──こちらとしてはそれ以外に道はないのだから。
願わくは灯かりの届かない市中の闇に、良くないものが潜んでいないようにと祈りながら。
「ああ、ここにいましたか」
遠くの篝火を見詰めながら百五十年ほども昔の包囲戦のことを考えていたせいか、意識が散漫になっていたらしい。
だからシュターレンベルクはその声に、とにかく驚いてしまった。
咄嗟の動きで銃を構えそうになるも、耳に覚えのある早口に気付いて全身の力を抜く。
「詰所にいるだの、市門に行っただの、陵堡を回っているだの。散々振り回されました。探しましたよ、防衛司令官殿」
階段をヒィヒィ言いながら登ってきたのは、ウィーン市の市長ヨハンであった。
「全部回った。回り終わったから、ここに来たんだ」
兵士や市民らが集う広場、それから詰所。
見張りが詰めている十二の陵堡に市門。
足が痛いなどと言っていられない。
それらすべてに指揮官は日に何度か顔を出す。
夜間には見張りの兵らの元にも気さくな様子で訪れた。
そして、それ以外の時間を使って敵軍観察の名目でここ──大聖堂の塔に登るのだ。
「この悪趣味な階段っ!」
膝が痛いと呻きながらも、市長はシュターレンベルクの座る窓枠に寄りかかった。
崩れ落ちたと形容する方が相応しいか。
「大丈夫ですか、市長殿。トシですか?」
座り込んで肩で息をするヨハンに対して、何しに来たんだという言葉を飲み込み、手を差し出す。
「も、もちろん……だ、大丈夫ですよ。こんな急な階段を上り下りするとは……。やはり軍人は違うということですか」
あなただって足が痛いだの年齢がどうだの言っておきながら、しょっちゅうここに登っていると言うじゃないですか。
まったく、軍人って生き物は体力馬鹿以外の何者でもありませんね──そんな悪口が続く。
無論、互いに悪意をぶつけ合っているわけではない。
こんなもの軽口にすぎない。
「オスマン軍が各地の砦の包囲を解き、その軍勢のほとんどをこちらに向けて行軍させているとの報が入ったのです、市長殿。だから、こうやって偵察している」
「今で総勢十万でしょう。これ以上膨れあがりますか!」
掌を握ったり開いたりするシュターレンベルクの姿に、気まずそうな表情を隠そうともせず市長が頷いて見せる。
メルク要塞からの軍鳩の便りを皮切りに、各地から同様の知らせが届いていた。
戦争の局面は、一気に変わろうとしている。
「陵堡の見張りが言っていた。オスマン軍に本国皇帝からの使者が来たようだ。カラ・ムスタファはウィーン攻略を急かされたんだろう」
「それは厄介ですね。焦って墓穴を掘ってくれれば良いですが、なかなかそうもいかないでしょうね」
「俺なら墓穴を掘りかねんが」
「あはは、そうですね。指揮官殿は人に相談をしないから失敗が多い」
市の責任者二人の会話である。
気楽そうに聞こえるのは、オスマン軍集結という情報が、すぐさま危機に通じるというわけではないと分かっているからだ。
市長もわざわざ夜中にこんな所にまで来たのは、別に用があるようである。
先程からちらちらとシュターレンベルクの方へと視線をくれる。
「その調子だと、傷の具合は大丈夫そうですね」
「……き、傷とは?」
咄嗟に右手を背に隠して、シュターレンベルクはヨハンから視線を逸らせた。
「無茶をしましたね。暴発しかけの銃を素手でつかむなど。腕がもげてもおかしくないのですよ」
「バーデン伯は一発目の火薬をほとんど地面に落としていた。暴発といっても大したことじゃ……」
市内に侵入してきたセルゲンティティの撃退に成功した後、流れる血を隠しながら王宮に戻って手当をした。
その様子を市長に目撃されていたらしい。
腕がもげるなど大げさすぎる。
大した傷ではないし、銃だって問題なく撃てるだろう。
あの場でフランツやグイードに怪我がばれなかったのは幸いだった。
自分が怪我を負ったと気付けば、あいつらはきっと騒ぐ。
そうしたらバーデン伯の立場は……。
「バーデン殿は、あれはあれで随分しょげていらしたようですよ」
「まさか。あの若造が反省などするわけない」
「いやいや。頑固が玉に瑕ですが、あれはあれで真面目で良い青年です」
「玉に瑕どころじゃない。あの頑固者は……」
どうやら市長は市長で、シュターレンベルクの腕を心配して様子を見に来たということらしい。
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