クロワッサン物語

コダーマ

文字の大きさ
45 / 87
ひそむ闇

ひそむ闇(2)

しおりを挟む
 一五二九年の第一次ウィーン包囲の際も、神聖ローマ帝国皇帝であるカール五世、その弟であるオーストリア大公フェルディナントの両名が首都を脱出したという。
 オスマン帝国軍に包囲された市は、ニコラス・サルム伯率いる二万の軍勢が守護することとなった。
 その時も兵の数の乏しさ故、野戦は回避し籠城に徹するという戦法が取られたものだ。

 意識して踏襲しようというわけではないが状況が酷似している以上、同じ戦略を立てざるをえない。
 もっとも、その時のように冬の到来と共に敵軍が去ってくれるかどうか、今回は分からないわけだが。

 風に打たれながら、シュターレンベルクは首を振った。
 考えても仕方のないことだ。
 防衛に徹する──こちらとしてはそれ以外に道はないのだから。
 願わくは灯かりの届かない市中の闇に、良くないものが潜んでいないようにと祈りながら。

「ああ、ここにいましたか」

 遠くの篝火を見詰めながら百五十年ほども昔の包囲戦のことを考えていたせいか、意識が散漫になっていたらしい。
 だからシュターレンベルクはその声に、とにかく驚いてしまった。
 咄嗟の動きで銃を構えそうになるも、耳に覚えのある早口に気付いて全身の力を抜く。

「詰所にいるだの、市門に行っただの、陵堡を回っているだの。散々振り回されました。探しましたよ、防衛司令官殿」

 階段をヒィヒィ言いながら登ってきたのは、ウィーン市の市長ヨハンであった。

「全部回った。回り終わったから、ここに来たんだ」

 兵士や市民らが集う広場、それから詰所。
 見張りが詰めている十二の陵堡に市門。

 足が痛いなどと言っていられない。
 それらすべてに指揮官は日に何度か顔を出す。
 夜間には見張りの兵らの元にも気さくな様子で訪れた。
 そして、それ以外の時間を使って敵軍観察の名目でここ──大聖堂の塔に登るのだ。

「この悪趣味な階段っ!」

 膝が痛いと呻きながらも、市長はシュターレンベルクの座る窓枠に寄りかかった。
 崩れ落ちたと形容する方が相応しいか。

「大丈夫ですか、市長殿。トシですか?」

 座り込んで肩で息をするヨハンに対して、何しに来たんだという言葉を飲み込み、手を差し出す。

「も、もちろん……だ、大丈夫ですよ。こんな急な階段を上り下りするとは……。やはり軍人は違うということですか」

 あなただって足が痛いだの年齢がどうだの言っておきながら、しょっちゅうここに登っていると言うじゃないですか。
 まったく、軍人って生き物は体力馬鹿以外の何者でもありませんね──そんな悪口が続く。
 無論、互いに悪意をぶつけ合っているわけではない。
 こんなもの軽口にすぎない。

「オスマン軍が各地の砦の包囲を解き、その軍勢のほとんどをこちらに向けて行軍させているとの報が入ったのです、市長殿。だから、こうやって偵察している」

「今で総勢十万でしょう。これ以上膨れあがりますか!」

 掌を握ったり開いたりするシュターレンベルクの姿に、気まずそうな表情を隠そうともせず市長が頷いて見せる。
 メルク要塞からの軍鳩の便りを皮切りに、各地から同様の知らせが届いていた。
 戦争の局面は、一気に変わろうとしている。

「陵堡の見張りが言っていた。オスマン軍に本国皇帝からの使者が来たようだ。カラ・ムスタファはウィーン攻略を急かされたんだろう」

「それは厄介ですね。焦って墓穴を掘ってくれれば良いですが、なかなかそうもいかないでしょうね」

「俺なら墓穴を掘りかねんが」

「あはは、そうですね。指揮官殿は人に相談をしないから失敗が多い」

 市の責任者二人の会話である。
 気楽そうに聞こえるのは、オスマン軍集結という情報が、すぐさま危機に通じるというわけではないと分かっているからだ。

 市長もわざわざ夜中にこんな所にまで来たのは、別に用があるようである。
 先程からちらちらとシュターレンベルクの方へと視線をくれる。

「その調子だと、傷の具合は大丈夫そうですね」

「……き、傷とは?」

 咄嗟に右手を背に隠して、シュターレンベルクはヨハンから視線を逸らせた。

「無茶をしましたね。暴発しかけの銃を素手でつかむなど。腕がもげてもおかしくないのですよ」

「バーデン伯は一発目の火薬をほとんど地面に落としていた。暴発といっても大したことじゃ……」

 市内に侵入してきたセルゲンティティの撃退に成功した後、流れる血を隠しながら王宮に戻って手当をした。
 その様子を市長に目撃されていたらしい。

 腕がもげるなど大げさすぎる。
 大した傷ではないし、銃だって問題なく撃てるだろう。

 あの場でフランツやグイードに怪我がばれなかったのは幸いだった。
 自分が怪我を負ったと気付けば、あいつらはきっと騒ぐ。
 そうしたらバーデン伯の立場は……。

「バーデン殿は、あれはあれで随分しょげていらしたようですよ」

「まさか。あの若造が反省などするわけない」

「いやいや。頑固が玉に瑕ですが、あれはあれで真面目で良い青年です」

「玉に瑕どころじゃない。あの頑固者は……」

 どうやら市長は市長で、シュターレンベルクの腕を心配して様子を見に来たということらしい。
 どうせ明日の朝には顔を合わせるのだから、様子伺いならその時で良いものを。
 普段は嫌味ばかりなこの男の、これはこれで意外な思いやりであるらしい。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

大東亜戦争を有利に

ゆみすけ
歴史・時代
 日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

ゲート0 -zero- 自衛隊 銀座にて、斯く戦えり

柳内たくみ
ファンタジー
20XX年、うだるような暑さの8月某日―― 東京・銀座四丁目交差点中央に、突如巨大な『門(ゲート)』が現れた。 中からなだれ込んできたのは、見目醜悪な怪異の群れ、そして剣や弓を携えた謎の軍勢。 彼らは何の躊躇いもなく、奇声と雄叫びを上げながら、そこで戸惑う人々を殺戮しはじめる。 無慈悲で凄惨な殺戮劇によって、瞬く間に血の海と化した銀座。 政府も警察もマスコミも、誰もがこの状況になすすべもなく混乱するばかりだった。 「皇居だ! 皇居に逃げるんだ!」 ただ、一人を除いて―― これは、たまたま現場に居合わせたオタク自衛官が、 たまたま人々を救い出し、たまたま英雄になっちゃうまでを描いた、7日間の壮絶な物語。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~

bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。

処理中です...