48 / 87
ひそむ闇
ひそむ闇(5)
しおりを挟む
「ほっといてください。ちゃんと寝てますよ」
しっしっと追い払う仕草をすると、ヨハンは「はいはい」と立ち上がった。
正確には窓から下が見えないよう、怖々と中腰で後ずさる。
「やれやれ。司令官殿が笑って、泣いたので、ぼくは帰りますよ」
「あ、ああ」
気を付けてくださいと言うべきか、それともここは礼を述べるべきなのか。
シュターレンベルクがまごついている間に、ヨハンは下り階段に足を踏み出す。
二段ほど降りたところで、こちらを振り返った。
「なに、寒くなったらオスマン軍は野営を続けていられず国へ帰るでしょう。冬になるまで壁の中で共に耐えましょうそ、防衛司令官殿」
それまで、決して死んではなりませんよ──そんな呟きを残して、彼の姿は階段の下に吸い込まれる。
ちょっと怪我をしただけなのに、これほど気遣われるとは。
もしかしたら死相でも出ていたのだろうか。
たとえそうだとしても、今崩れるわけにはいかない。
自分が崩れればこの都市は滅びる。
市民たちは死ぬ。
己の無力さを突き付けられる。
あんな思いはもう二度と御免だ。
シュターレンベルクは一つだけ、市長に嘘をついていた。
本当はこの数週間、眠っていない──一瞬たりとて。包囲が始まった時から、一睡もしていない。
精神が高揚し、いつもより口数が多くなっていることも自覚している。
脳内には明晰な思考が次々と浮かび、身体の動きもいつもよりずっと軽やかだ。
すべてが現実のこととは思えない。
時折、夢の中を漂っているかのような感覚に陥ることもある。
とうに塞がったはずの腹の傷がシクシクと痛んで、我に返るのだ。
可愛かったエルミアがあの夜、豹変したこと。
揉みあっているうちに動かなくなってしまったこと。
そして、そのまま消えてしまったこと。
空に浮かぶ月の形は、あの夜とほとんど変わっていない。
だって、あれからほんの数日しか経っていないのだから。
なのに遠く感じる。
そもそも自分は彼女のことを何ひとつ知らない。
何歳なのか、どこ出身なのか、エルミアという名が本名なのかすら分からない。
──誇り高いあなたが好きだった。それは本当よ。
彼女はそう言った。
その声も、もはや思い出せない。
美しかったはずのその姿さえも、記憶の中で薄れている。
気付けば、エルミアを思う時間は減っていた。
頬に滴の当たる感触。
今度こそ本当に涙かと一瞬怯むが、すぐにそれが雨だと気付く。
霧のような細い雨。
風に煽られて塔の中に吹きこんでくる。
いつ降り出したのだろうか。
この様子では、すぐには止みそうにはない。
「奴らのトンネル掘りは、明日は休みだな」
グラシの向こうの篝火に視線を送る。
呑気なもので、彼らは雨天は作業を中断してくれるのだ。
こういう時くらい兵らを休ませてやりたいものだが、そうもいくまいと考える。
足元をすくわれて、また市内へ侵入されてはならない。
敵は確実に中にも潜んでいる。
一瞬たりとて気を抜くわけにはいかなかった。
そろそろ行くか、とシュターレンベルクは立ち上がる。
いつまでもここに居るわけにはいかない。
塔から降りて、鬱陶しいがバーデン伯の様子でも伺ってやらねばならないか。
右足を引きずりながら、先程市長が消えた階段の方へと向かう。
登りはいいけど、下りがきついんだよなとぼやきながら一歩足を踏み出したその瞬間。
グラリ。
足元が揺らいだ。
階段が崩れ落ちたのではないかというほどの振動。
同時に爆音。
空気の塊に側頭部を殴られ、シュターレンベルクは咄嗟にその場にうずくまる。
そうでもしなければ、螺旋階段を下まで吹き飛ばされてしまいそうだった。
足裏にビリビリとした振動が伝わってくる。
視野の端に一瞬映った光景に、彼は驚愕した。
息を詰めて振り返る。
階段、小部屋、窓──さっきまで自身が座っていた窓枠が、完全に抉れているではないか。
何が起こった?
爆撃を受けた?
シャーヒー砲では無理だ。
ここまで届くはずがない。
ならばコロンボルナ砲か。
いや、それよりも何故この位置を?
ピンポイントで狙ったとしか思えない。
自分がいつもいる位置を、誰かが敵に流したのか。
そう思った瞬間、シュターレンベルクは階段を駆け下りていた。
塔から飛び出すと、周囲に詰めていた兵らが口々に何事か叫ぶ。
指揮官の身を案じての事だろうが、シュターレンベルクは彼らを押し退けて走り出す。
足や腕の痛みなど完全に消し飛んでいた。
防衛司令官の居所を敵は熟知していた。
そうに違いない。
でなければ狙撃に近いあんな砲撃は不可能だ。
ならば──ウィーンを陥とすうえで、もう一人の重要人物。
あんな感じだが市長は人格者だ。
市民をまとめ、団結させている。
彼を慕ってカプツィナー教会への避難者は他の建物に比べて圧倒的に多いくらいだ。
ヒュン──鉛の塊が高速で空気を切り裂く嫌な音。
走るシュターレンベルクの頭上だ。
次の瞬間。
ドンと爆音が地面を震わせた。
あちこちで悲鳴があがり、通りが人で溢れ返る。
人をかき分けて走るにつれ、悲鳴は大きくなっていった。
カプツィナー教会は王宮のすぐ側に位置し、皇帝一族の納骨堂とされている。
そして、そこには市長がいる。
多くの市民や避難民、そして娘のマリア・カタリーナも。
今、シュターレンベルクの目の前でカプツィナー教会は瓦礫と化していた。
しっしっと追い払う仕草をすると、ヨハンは「はいはい」と立ち上がった。
正確には窓から下が見えないよう、怖々と中腰で後ずさる。
「やれやれ。司令官殿が笑って、泣いたので、ぼくは帰りますよ」
「あ、ああ」
気を付けてくださいと言うべきか、それともここは礼を述べるべきなのか。
シュターレンベルクがまごついている間に、ヨハンは下り階段に足を踏み出す。
二段ほど降りたところで、こちらを振り返った。
「なに、寒くなったらオスマン軍は野営を続けていられず国へ帰るでしょう。冬になるまで壁の中で共に耐えましょうそ、防衛司令官殿」
それまで、決して死んではなりませんよ──そんな呟きを残して、彼の姿は階段の下に吸い込まれる。
ちょっと怪我をしただけなのに、これほど気遣われるとは。
もしかしたら死相でも出ていたのだろうか。
たとえそうだとしても、今崩れるわけにはいかない。
自分が崩れればこの都市は滅びる。
市民たちは死ぬ。
己の無力さを突き付けられる。
あんな思いはもう二度と御免だ。
シュターレンベルクは一つだけ、市長に嘘をついていた。
本当はこの数週間、眠っていない──一瞬たりとて。包囲が始まった時から、一睡もしていない。
精神が高揚し、いつもより口数が多くなっていることも自覚している。
脳内には明晰な思考が次々と浮かび、身体の動きもいつもよりずっと軽やかだ。
すべてが現実のこととは思えない。
時折、夢の中を漂っているかのような感覚に陥ることもある。
とうに塞がったはずの腹の傷がシクシクと痛んで、我に返るのだ。
可愛かったエルミアがあの夜、豹変したこと。
揉みあっているうちに動かなくなってしまったこと。
そして、そのまま消えてしまったこと。
空に浮かぶ月の形は、あの夜とほとんど変わっていない。
だって、あれからほんの数日しか経っていないのだから。
なのに遠く感じる。
そもそも自分は彼女のことを何ひとつ知らない。
何歳なのか、どこ出身なのか、エルミアという名が本名なのかすら分からない。
──誇り高いあなたが好きだった。それは本当よ。
彼女はそう言った。
その声も、もはや思い出せない。
美しかったはずのその姿さえも、記憶の中で薄れている。
気付けば、エルミアを思う時間は減っていた。
頬に滴の当たる感触。
今度こそ本当に涙かと一瞬怯むが、すぐにそれが雨だと気付く。
霧のような細い雨。
風に煽られて塔の中に吹きこんでくる。
いつ降り出したのだろうか。
この様子では、すぐには止みそうにはない。
「奴らのトンネル掘りは、明日は休みだな」
グラシの向こうの篝火に視線を送る。
呑気なもので、彼らは雨天は作業を中断してくれるのだ。
こういう時くらい兵らを休ませてやりたいものだが、そうもいくまいと考える。
足元をすくわれて、また市内へ侵入されてはならない。
敵は確実に中にも潜んでいる。
一瞬たりとて気を抜くわけにはいかなかった。
そろそろ行くか、とシュターレンベルクは立ち上がる。
いつまでもここに居るわけにはいかない。
塔から降りて、鬱陶しいがバーデン伯の様子でも伺ってやらねばならないか。
右足を引きずりながら、先程市長が消えた階段の方へと向かう。
登りはいいけど、下りがきついんだよなとぼやきながら一歩足を踏み出したその瞬間。
グラリ。
足元が揺らいだ。
階段が崩れ落ちたのではないかというほどの振動。
同時に爆音。
空気の塊に側頭部を殴られ、シュターレンベルクは咄嗟にその場にうずくまる。
そうでもしなければ、螺旋階段を下まで吹き飛ばされてしまいそうだった。
足裏にビリビリとした振動が伝わってくる。
視野の端に一瞬映った光景に、彼は驚愕した。
息を詰めて振り返る。
階段、小部屋、窓──さっきまで自身が座っていた窓枠が、完全に抉れているではないか。
何が起こった?
爆撃を受けた?
シャーヒー砲では無理だ。
ここまで届くはずがない。
ならばコロンボルナ砲か。
いや、それよりも何故この位置を?
ピンポイントで狙ったとしか思えない。
自分がいつもいる位置を、誰かが敵に流したのか。
そう思った瞬間、シュターレンベルクは階段を駆け下りていた。
塔から飛び出すと、周囲に詰めていた兵らが口々に何事か叫ぶ。
指揮官の身を案じての事だろうが、シュターレンベルクは彼らを押し退けて走り出す。
足や腕の痛みなど完全に消し飛んでいた。
防衛司令官の居所を敵は熟知していた。
そうに違いない。
でなければ狙撃に近いあんな砲撃は不可能だ。
ならば──ウィーンを陥とすうえで、もう一人の重要人物。
あんな感じだが市長は人格者だ。
市民をまとめ、団結させている。
彼を慕ってカプツィナー教会への避難者は他の建物に比べて圧倒的に多いくらいだ。
ヒュン──鉛の塊が高速で空気を切り裂く嫌な音。
走るシュターレンベルクの頭上だ。
次の瞬間。
ドンと爆音が地面を震わせた。
あちこちで悲鳴があがり、通りが人で溢れ返る。
人をかき分けて走るにつれ、悲鳴は大きくなっていった。
カプツィナー教会は王宮のすぐ側に位置し、皇帝一族の納骨堂とされている。
そして、そこには市長がいる。
多くの市民や避難民、そして娘のマリア・カタリーナも。
今、シュターレンベルクの目の前でカプツィナー教会は瓦礫と化していた。
10
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記
糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。
それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。
かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。
ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。
※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。
ゲート0 -zero- 自衛隊 銀座にて、斯く戦えり
柳内たくみ
ファンタジー
20XX年、うだるような暑さの8月某日――
東京・銀座四丁目交差点中央に、突如巨大な『門(ゲート)』が現れた。
中からなだれ込んできたのは、見目醜悪な怪異の群れ、そして剣や弓を携えた謎の軍勢。
彼らは何の躊躇いもなく、奇声と雄叫びを上げながら、そこで戸惑う人々を殺戮しはじめる。
無慈悲で凄惨な殺戮劇によって、瞬く間に血の海と化した銀座。
政府も警察もマスコミも、誰もがこの状況になすすべもなく混乱するばかりだった。
「皇居だ! 皇居に逃げるんだ!」
ただ、一人を除いて――
これは、たまたま現場に居合わせたオタク自衛官が、
たまたま人々を救い出し、たまたま英雄になっちゃうまでを描いた、7日間の壮絶な物語。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる