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《本編》
50. …ごめんなさい…
しおりを挟むベッドの上に上体を起こし、病室の窓から見える景色をぼんやりと眺めていた。朝までは体に付けられていた装置は外され、右腕の点滴も、今は外されている。
トントン…
唐突にドアを叩くノック音。
「はい」
そちらを向いて返事をすれば、開いたドアの向こうから現れたのは、兄の瑠偉くん。
「瑠偉くん」
「琳…!」
何でか驚いた様な顔で僕の名前を呼んだ瑠偉くんは、僕の傍まで来て、昨夜から置きっぱなしにしていたパイプ椅子に座った。
「瑠偉くん、おはよう」
「ああ、おはよう、琳。起きて大丈夫なのか?」
「うん。胸に付いてた装置も点滴も、今朝外してもらったの。お粥だったけどご飯も食べられたんだよ。僕、2日何も食べてないから今日の昼と夜もお粥で様子見て、問題がないようなら明日から普通のご飯にしてくれる、って。病院食だけど」
僕が少しだけ舌を出して言うと、瑠偉くんは頭を撫でてくれた。いいこいいこしてもらうの、僕好き。2年前までは彼もよく撫でてくれたもの。僕、末っ子だから、素の僕はとっても甘えん坊なの。自分で言っちゃうけれど。
「そうか。美味しかったか? 物足りなくないか?」
「ん~ん、大丈夫。あんまりたくさん食べたら、胃がびっくりしちゃうもの」
「そうだな。びっくりしちゃうか」
話してる間も、瑠偉くんは僕の頭や頬、腕を撫でていた。まるで、僕の存在を確かめる様に。
「瑠偉くん、ごめんね」
「ん? どうした?」
「うん。お仕事…忙しいんでしょう? 僕が病院に運ばれたから、仕事を放り出して来てくれたんでしょう?」
「当たり前だろう? 仕事の事は気にするな。優秀な秘書に働き過ぎだと叱られた。いい機会だから少し仕事から離れて琳の看病をしろって、半ば強制的に1週間の休みを取らされた。優秀な上に怖いんだよ、俺の秘書。社長にも平気で物申す…」
瑠偉くんが怖がるなんて、秘書さん、どんな人だろう?
本気で怖がる表情をする瑠偉くんに、僕は笑った。
「まあ、そういう訳だ。仕事の事は気にするな」
「うん…」
暫くの間、僕は瑠偉くんの大きい手が頬を撫でてくれる温もりに包まれて…。
「…瑠偉くん、僕、離婚しても…いいかなぁ…」
やや静かな時間が流れた後に、僕は呟いた。
「琳…」
「瑠偉くん、彰宏さんから聞いたんでしょう?」
これは確信だった。僕が病院に運ばれた経緯を瑠偉くんに問われたら、彰宏さんはそこに至るまでをきっと話すと思うから。
「……………」
瑠偉くんは是も否も言わないけれど、僕の顔を真っ直ぐに見ている。無言の肯定…。
「今、無理に話さなくてもいいんだぞ? まずはゆっくり体を休めて…」
「ううん。聞いて。今…じゃないとダメ…なんだ」
瑠偉くんの言葉に僕は首を横に振った。
「瑠偉くんは…どこまで聞いたの…?」
「……………。恐らく、ほぼ全て…」
瑠偉くんは少しだけ迷いを見せてから答えた。ほぼと言ったのは、彰宏さんの言葉が全てではないと知っているから。彼は自分の身に起き、そして自分がしてきた事しか知らない。独りきりの僕が何を思い、どう過ごしていたのかは知らないのだから。けれど、僕は今更それを瑠偉くんに語るつもりはない。
「僕、死のうとした訳じゃないんだ」
「…琳…?」
「薬を一度にたくさん飲んじゃった事。
ただ…消えなきゃ…と思ったんだ…」
「! 消え…る…?」
「そう。僕、邪魔者だなぁ…って…」
「そっ…そんな事…っ…!」
「お願い、聞いて?」
「……………」
とにかく話を聞いてほしくてお願いすれば、瑠偉くんは黙ってくれた。
「僕ね、彰宏さんを愛してるの。多分、きっと、誰から見ても僕は放っておかれてるし、蔑ろにされてるんだと思う。でも、別れよう…とか、離れよう…なんて思わなかった。だって、嬉しかったんだもん。週に1日しか一緒にいられなくても、会いに来てくれるのが…傍にいてくれるのが嬉しかった。忘れられていない事が嬉しかった。触れてもらえなくても…。それが番の本能だとしても…」
彰宏さんが会いに来てくれた事に体が歓喜するのは番の本能だとしても、彼を愛する気持ちは僕自身のものだと思っている。だって、彼が近くにいなくても、彼を愛する気持ちは失くならないもの。
「でもね…」
僕は腰から下を覆う布団を握りしめた。
「…僅かな時間でも傍にいてくれるのなら…って思ってたのに、知っちゃったらもうダメだった…。彰宏さんと僕じゃない番との間に子供がいる…って…。その子、彰宏さんにそっくりで…。彼に他に番がいる事は我慢出来ても、僕よりもう一人の番を優先する事は仕方ないと諦められても、子供がいる事だけは見て見ぬふりは出来なかった。だって、それはもう『家族』って事だよね? 彰宏さんにとっての家族は僕の筈だった。でも、いつの間にか彼は僕以外と家族になっていた。法的には僕が夫でも、事実としては違う。僕と彰宏さんは一人と一人だ。けど、間に一人と一人を繋ぐ子供がいれば、そっちが本当の家族だよ。だから、僕は邪魔者。僕という夫がいるから、彰宏さんはたとえ短い時間でも此処に帰って来るしかない。僕という戸籍上の夫がいるから、彰宏さんの子供は『父親』のいない子のままだ。だから…だから離婚を申し出たのに…」
「琳……」
「…離婚、しないって言うの…。愛してる…って…。琳しか要らない…って…。だったら…どうして……。どうして僕が欲しかったもの全部、あの人にあげたの…? 彰宏さんと過ごす時間や愛情、そして子供…。僕の…僕だけのもの…だったのに…。僕が欲しかったものなのに…。全部、他の人に与えたくせに、どうして『愛してる』なんて…言えるの…? 」
ぽたぽたと僕が流した涙が頬を伝って零れ落ち、布団を握りしめた手の甲を濡らしていく。
本当は悔しかった。どうして僕から彰宏さんを奪った祐斗さんが彼の子供を抱っこしてるの? 彼は自分のものだって言いたいの? 僕と彰宏さんに子供がいないのは僕か悪いからだってお義母様に言われて…。
そして、僕は諦めたんだ。
「僕は彰宏さんの番。番のαから離れたΩの末路は知ってる。でも…それでも僕はもう…彼の近くにはいられない。いたくない。
だって僕はもう、ーーーーーーーから……」
「っ!!!」
僕が最後に言った言葉に、瑠偉くん驚いた顔をした。それから、泣きそうなくらいに哀しそうな顔…。
そして瑠偉くんは僕を抱き締めた。
「……ごめんなさい……」
僕は誰にともなく呟きー。
瑠偉くんにしがみつき、此処が病院である事も忘れて、声をあげて泣いたー。
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