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《本編》
60. 番の解消はしない(彰宏side(24)
しおりを挟む「琳は長くは生きられないそうだ」
「………。…え…?」
「強い抑制剤の常用により、臓器がかなりダメージを受けているらしい。ボロボロだと…。何もしなければ早くて1年、長くても5年は生きられないだろうとの診断だ。今はまだ自覚症状としては出ていないが、徐々に体内を蝕んでいく症状には痛み止めなどの緩和ケアしか出来ないそうだ」
「……………」
俺の脳は理解するのを拒否していた。
琳が長く生きられない? 臓器がボロボロ…。
早くて1年、長くても5年の命…。
それは余命宣告ー。
……………。
……っ……!!!
瑠偉さんの言葉の意味を理解した時、俺の胸に湧き上がったのは『恐怖』ー。
「ど…どうして…。そんな……」
バンッ!!!
今度は両掌を打ち付ける様に、瑠偉さんがテーブルを叩いた。
「だから! それをお前が言うのか!」
そう叫ぶ瑠偉さんの顔は、怒りを孕んでいた。
「どうして琳を放置した! お前が琳を望んだんじゃないのか! 大切にするんじゃなかったのか! 愛してるんじゃなかったのか! 幸せに出来ないのなら何故、琳を番にした! 連れて行ったんだ! 琳が病院に運ばれていなかったらどうなったと思う!? 独り寂しく、誰にも看取られず、人知れず死んでたかも知れない! 愛人を優先するのなら、どうして琳を帰してくれなかったんだ! せめて…せめて1年前に帰してくれてれば…! 番と離れて長生きは出来ないとしても、こんなに早く…長くて5年なんていう余命宣告なんか受けなかったんだ! 今更、お前に選択権はない! サインしろ!」
鋭い眼光と言葉と共に、再度、離婚届へのサインを迫られる。
けれど、俺は首を横に振った。こんな事実を聞かされて、離婚なんて考えられる訳がない。
「サインはしません。離婚はしません。そんな事実を聞かされて、別れるなんて出来ません。俺は琳の夫です。唯一の番です。俺が最期まで琳といます。いたいです」
俺がそう訴えると、
フッ……
少しだけ落ち着いた様子の瑠偉さんが鼻で嗤った。
「夫の義務も番の義務も果たしていないのに?」
「…っ…!」
直球の正論に俺が言葉に詰まると、瑠偉さんは上着の胸ポケットから1枚のカードを取り出して、テーブルの上に置いた。そのカードには見覚えがある。俺名義のクレジットカード。生活費はここから使うように…と、琳に渡していたもの…。
「琳から、お前に返す様に預かってきた」
「……………」
「お前が帰って来ないと覚った日から、1円も使っていないそうだ」
「…!…」
俺は携帯端末でカードの使用状況を確認した。
半年程前から使った形跡がない事に茫然とした。
「…な…なんで……」
「自分1人なら大して食費はかからない。1人なのに2人の生活費を使うのは躊躇われたそうだ。病院の診察代、抑制剤の購入代金も、琳は自分の貯金から出していた」
「……………」
「で、確信を持って訊くが、愛人と子供の生活費は誰が出していた?」
「………。俺…です…」
「だよなぁ。琳が自主的に使用を控えたとはいえ、お前はそれに気付かず、愛人と子供は当たり前の様にお前の稼ぎで養われていた。発情期には琳を放置し、生活費は出さない。夫の義務と番の義務、どちらも果たしていないだろうが。そして、もう一人の番である愛人とは発情期を過ごし、子を設け、お前の金で養う。実質、どちらが家族は誰の目から見ても一目瞭然だろう?」
「そ…そんな…。俺は……」
「経緯なんかどうでもいい。いい加減に現実を見ろ。既にやり直せる時期は過ぎてるんだ。お前がいくらこれからは…と言おうと、遅すぎるんだ。
彰宏、琳を解放してくれ。残りの人生、寂しい思いはさせたくない。温かい場所で心穏やかに過ごさせてやりたいんだよ」
「っ……。………」
俺は俯いて唇を噛み締め、膝で拳を握った。
温かい場所…。
琳、俺と一緒じゃ、君の心は寒いままなのか…。
心穏やかではいられないのだろうか……。
「彰宏、サインをしなさい」
離れた場所に座る父さんが言った。俺は父さんの方を向いた。
「父さん…?」
「サインしなさい」
「で…でも俺……」
「彰宏、お前に…私達に、拒む権利などない。それだけの事をしたのだから」
「……………」
俺は膝に置いていた手を上げ、瑠偉さんが差し出したペンを震える手で受け取り、一文字ずつゆっくりと時間をかけて名前を書いた。そんな俺の無駄な足掻きを、瑠偉さんは急かせる事なく、無言で見ていた。
「番の解消はしません」
書き終えてペンを置いた俺は、瑠偉さんをまっすぐ見据えて言った。
「番ではいさせて下さい」
「ああ。それで構わない」
「…え?」
「琳は番の解消も希望していたが、俺と両親、華英は望んでいない。してほしくない…というのが本音だ。無論、お前の為なんかじゃない。番を解消する時、Ωの心身にはかなり負荷がかかるという。正直、今の琳には耐えられる気がしない。余命を更に縮めかねないからな」
「…そう…ですね…。すみません…」
瑠偉さんは全て記入済みの離婚届を畳むと、懐にしまう。
「あ…あの…一つお願いが…!」
意を決して声を上げた俺を、瑠偉さんの視線が射抜く。じっと見てくる視線は、俺の言葉の先を促していた。
「一度っ…一度で良いんです! 琳に…! 琳に会わせて下さい! 話がしたいんです! 離婚届を提出する前に、どうかっ…!」
無理を承知で願った。会って話をしても、もうやり直せる可能性は皆無だろう。けれど、どうしても伝えたかった。自分の偽りのない『愛』を。今更だと言われても、最後なら…せめて…。
俺は瑠偉さんの言葉を待った。駄目だと言われれば諦めるしかない。祈る思いで待った。
そして……。
「琳に訊いてみよう。琳の返事がどちらでも必ず連絡はするから、待っていろ」
「!! あっ…ありがとうございます…!」
確約ではないが、瑠偉なら必ず連絡をくれる筈だ。気長に待とう。そして、琳の答えがもし『NO』なら、潔く諦めよう。
「交換条件というわけではないが、俺からも頼みがある」
「頼み…ですか。何でしょうか? 俺に出来る事なら…」
「もう一人の番に会わせてもらう」
「………。え?」
俺の言葉に被せる様に言われたそれは、頼みというより命令に聞こえた。
「安心しろ。危害を加える訳じゃない。犯罪者にはなりたくないからな。話がしたいだけだ。2人きりになるつもりはない。お前も同席して構わない。というか、同席しろ。
彰宏、俺はお前が赦せない。が、それ以上に愛人が赦せないんだよ。他人の人生を壊しておきながら、自分だけ安全な場所で幸せになるなど赦せない。言葉で解らせる。自分がどれ程の罪を犯したのかを。お前が愛人とこの先どうなろうと、愛人をどうしようと、もう関係ない事だが、ちゃんと理解して、何も出来ないのなら誠心誠意の謝罪くらいすべきだと思わないか?」
瑠偉さんの言う事は至極全うな事だった。
祐斗に逃げ場はない。逃げる事は赦されない。
「分かりました。いつでも連れて行くので、こちらの都合は無視して構いませんから、瑠偉さんの都合のいい時に連絡して下さい」
「分かった。琳の返事と併せて、また連絡する」
瑠偉さんは、泣き崩れていたお義母さんを立たせ、彼女の肩を抱いて支えながら部屋を出て行った。
俺と父さんは、畳に額をつけて土下座をしながら見送り、10分程の時間を開けてから、料亭を後にしたー。
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