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《本編》
72. 琳、ありがとう(彰宏side(27)
しおりを挟む泣きながら眠ってしまった琳を抱きしめたまま、どれくらいの時間が経っただろうか。
壁に掛けられた時計は、午後3時過ぎを示していた。
長峰家を訪ねてから2時間が経っている。
俺にもたれかかった体勢では寝苦しいだろう、と、そっと琳の体をソファーに横たえ、自分は端に座って琳の頭を膝に乗せた。頭を撫でながら綺麗な寝顔を見つめていると、ノック音と同時に、俺が返事をするよりも早くドアが開いた。
瑠偉さんが入って来る。
「やっぱり寝ちゃったか」
「? やっぱり?」
「ん? ああ。少しずつ日常生活に支障がないくらいには体調が戻ってきてるとはいえ、体力がな。疲れやすくなってるから、午後は昼寝させてるんだよ」
「そうなんですか…。そんな大切な時間を俺の為に使ってくれたんですね」
「気にするな。食後すぐ寝るのはよくないから、ベッドに入るのは3時くらいだ。それに、1時を指定したのは琳だしな。もしかしたら、お前と話をした後に休めるように、と思ったのかもな。実際のところは本人に訊かないと判らないが…」
「…琳…」
琳に会いたいと願った俺だけど、内心では拒否される事を覚悟していた。だから、琳が会ってくれると知った時は、只々嬉しかった。
けれど琳には、会うと決めてくれるまでには葛藤があった事は想像に難くない。離婚を告げられた『あの日』、俺は最悪な形で琳の想いを踏み躙ったのだから…。
それでも『会う』と決めてくれた。結局、やり直す事を受け入れてはもらえなかったが、出逢ってから今までの中で、『今日』が一番本音でぶつかりあえたのではないかと思う。今更過ぎて後悔しかない。
もっと早く本音で語り合えていたら、2人の未来は変わったのだろうか…。
寝てしまった琳とは、これ以上語り合えない。
別離の時間が迫っていた。
「彰宏、琳を部屋まで抱いて運んでくれないか」
不意に瑠偉さんが言った。
「え?」
「ソファーでは体が休まらない。ベッドに寝かせてやりたい」
「そう…ですね…。でも、良いんですか? 俺…」
「良い、と言っている。頼めるか?」
琳を抱いて運ぶくらいなら瑠偉さんは自分で出来る筈だ。寧ろそのほうが自然だ。なのに、俺に頼んだ。それが意味するところは…。
勝手な解釈をしてもいいのだろうか。この子と離れ難い…少しでも長く触れていたい、俺の気持ちを汲んでくれたのだ…と。
俺は一度、そっと琳の頭を座面に下ろして立ち上がり、ゆっくりした動きで、琳をソファーから抱き上げた。
(軽い…)
食欲は戻ったと本人は言っていたが、久し振りに抱き上げた琳は、やはり軽かった。
瑠偉さんの誘導で琳の部屋に入った俺は、抱き上げた時と同じ、ゆっくりとした動きで琳をそっとベッドに横たえ、肩まで布団を掛けた。熟睡しているのか、起きる気配はない。その事を少しだけ残念に思いながらも、床に膝を着いて座り、愛しい子の顔を間近で見つめる。
「もう一つ頼みがあるんだが…」
「? はい。俺に出来る事なら…」
「お前にしか頼めない。単刀直入に言う。服を脱いで置いていってくれないか」
「………。…? え…?」
服を脱げ…?
……………。
え~と……。
俺は、瑠偉さんに言われた言葉の意味を考えながら首を傾げた。
「ああ、悪い。唐突過ぎたか」
「あ、はい…。えっと、どういう……」
「琳の精神の安定の為…と言えば解るか?」
「……………」
精神の安定……。
「蒸し返すようで悪いが他意はない。それを承知の上で聞いてくれるか?」
「はい」
俺は頷き、瑠偉さんも頷いてから改めて口を開いた。
「お前は週末に帰って再び家を出る時に、着ていた服を琳に渡していたのだろう?」
「…っ! …はい…」
あれは…渡していた…というより、俺が勝手に置いていただけだ。琳に『情けのつもりか』と言われて、反論出来なかった。寝る時は抱きしめていたと聞かされて、あれは間違いではなかったと思ったのも本当だ。慰めになっていた事に安堵していた俺は、本物のクズだ。弁明のしようもない。
まさかそこを蒸し返されるとは思わなかったが、瑠偉さんの言わんとしている事が解ったような気がする。
「ここまで言えば俺が言いたい事は解ると思うが…」
「はい。何となくは…」
「それでいい。
琳は2人の家を離れた。お前と離れる事を選んだ。琳の選択だ。琳が、悩んで、苦しんで、傷付いて、そして選んだ道だ。覆す事はない」
「っ…! …はい…」
「ただ、家を離れ、番と離れた琳には、Ωとして縋るものが無くなるという事だ。
まあ要するに、気休めにしかならないからも知れないし、今更何の慰めにもならないかも知れない。俺の自己満足かも知れないが…。Ωは番のαの匂いに包まれるだけで安心するから…という事だ。
今の琳は自身のフェロモンが弱くなっているだけじゃなく、フェロモンを感知する嗅覚も弱くなっていてな。服に染み付いたαフェロモンは感じられないかも知れない。何より、琳が要らないと拒否する可能性もある。そうなれば申し訳ないが、服は送り返す事になってしまうが…」
「……………」
瑠偉さんの話の途中ではあったが、俺は静かに立ち上がると、着ていた服を脱ぎ始めた。
「俺の服を貸す」
「ありがとうございます」
お礼を言う。流石に裸では帰れない。
「下着は…」
「シャツはくれ。パンツはさすがにな…」
確かに…。番のとはいえ、パンツを大事そうに抱える弟を、兄としては見たくないだろう。
替えの服を持ってくると言って一度部屋を出た瑠偉さんは、ものの数分で替えの服一式と、保存用の袋を持って戻って来た。
パンツ一丁の姿で待っていた俺に、一瞬なんともいえないような顔をしていたけれど、俺は見なかった事にした。
瑠偉さんに手渡された服は、何と!スーツの上下。とワイシャツ。ちなみにスーツの色はダークブルー。
何で?と思った俺だけれど…。
「私服もあるにはあるんだが、数が少なくてな。仕事柄、スーツのほうが多いんだ。俺とお前は身長は同じくらいだし、コレは普段使いの既製品だから、着る人は選ばないと思う」
という事らしい。
有り難く受け取り、服を着るより先に、着て来て今しがた脱いだばかりのスラックスとワイシャツ、中に着ていたシャツ、それとジャケットを畳み、服と一緒に受け取った保存袋に入れてしっかり口を閉じた。余計な匂いが付かないようにとの瑠偉さんの配慮だ。
それから俺は、借りたスーツを着た。確かに着る人を選ばないらしく、着心地は悪くない。
「ありがとうございます。クリーニングに出してからお返しします」
「ああ。慌てないからいつでもいい」
「はい」
俺は返事をしてから、眠る琳の傍で跪いた。
「……………」
最後に目に焼き付けるように琳の寝顔を見つめる。
もう本当にこれでお別れだ。
琳のおでこと頬にそっとキスをする。
「琳、ありがとう」
数多の意味を込めてお礼を言い、立ち上がる。
「そろそろ、御暇しますね。今日は琳と話をする場を設けて下さり、ありがとうございました」
「会うと決めたのは琳だ。
外まで送ろう」
瑠偉さんと連れ立って部屋を出て階段を下りた所で、先程まで琳と話をしていた応接室の前に、お義母さんと華英さんが立っているのが見えた。彼女達は近付いてくるでも何かを言うでもなく、ただ此方を見ていた。俺は深く頭を下げた。赦してもらえるとは思わないが、謝罪の意味を込めて…。
「琳は、慰謝料は要らないそうだ」
外に出た所で瑠偉さんが言った。
「え? いや、そんな訳には…」
俺有責での離婚なのだから、当然、慰謝料を払うべきは俺だ。払う義務がある。
「宏斗を育てるのに使ってほしい、と。
だが俺は、お前は納得しないだろうと思っていたんでな。代替案がある。琳には内緒で」
「代替案…?」
「琳の体が治る事はないが、少しでも長く穏やかに生きる為の定期的な診察、治療、経過観察はする。その治療費の請求書をお前の所に郵送するから、お前が支払えばいい。琳が頑張ってくれればくれるだけお前の支払う額は増えるし、琳が頑張ってる証拠だから、お前にとっても喜ばしい事だろう?」
「………。いいん…ですか…?」
「提案しているのは俺だ」
「分かりました。治療費、払わせて下さい」
「ああ」
「ありがとうございます」
俺は瑠偉さんに感謝し、2階の琳の部屋の窓を一度見上げてから、長峰家を後にした。
この日が、琳と会話をした最後の日になったー。
琳が療養の為に沖縄に移住したと知ったのは、それから1ヶ月以上が経ってからだったー。
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