当て馬令嬢は自由を謳歌したい〜冷酷王子への愛をゴミ箱に捨てて隣国へ脱走したら、なぜか奈落の底まで追いかけられそうです〜

平山和人

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航海から三日。船は、古くから「船乗りの墓場」と恐れられる霧の海域、通称『セイレーンの監獄』へと差し掛かった。 突如、海面から巨大な触手が突き上がり、船体を締め上げる。伝説の怪物、クラーケンだ。


「現れましたわね、この物語の『中ボス』が!」


エルナは恐怖よりも、どこかメタ的な高揚感を感じていた。彼女は現代知識を応用し、船員たちに「油を撒いて火矢を放つ」よう指示を飛ばす。 しかし、クラーケンの再生能力は異常だった。斬っても斬っても、闇の魔力を孕んだ触手が再生し、船を深海へと引きずり込もうとする。


「どけ、エルナ。……これ以上、お前の時間を奪わせるな」


シオンが前に出る。彼は腰に帯びた黒い剣――一度目の人生で、世界の終わりを共にした「禁忌の魔剣」を抜いた。 シオンが剣を振るうたび、空間そのものが凍りつき、クラーケンの細胞を根源から破壊していく。その圧倒的な力は、もはや人間が持っていいものではなかった。


「殿下、そんなに魔力を使ったら……!」 「構わん。お前の行く手を遮るものは、神であっても排除する」


シオンの髪が、魔力の反動で白く染まっていく。その光景に、エルナは胸が締め付けられるような痛みを感じた。 彼はエルナを守るために、文字通り「自分の存在」を削って戦っているのだ。


「レオン殿下、ユリ様! 私たちも援護しますわよ! 殿下一人に格好をつけさせてたまるもんですか!」


エルナの合図で、レオンが風の魔法を放ち、ユリが聖なる雷をクラーケンの脳冠に落とす。 四人の力が合わさった一撃が、深海の怪物を霧散させた。


勝利の歓声が上がる中、シオンは剣を鞘に戻すと、その場に崩れ落ちるように膝をついた。 「……殿下!!」 エルナが駆け寄る。シオンの吐息は白く、その肌は氷のように冷え切っていた。


「……ふっ、エルナ。情けない姿を見せたな」 「バカ言わないでください! 誰がそこまでしろと言いました!? あなたが死んだら、私の『契約相手』がいなくなるじゃないですか!」


エルナは、冷たくなったシオンの手を、自分の両手で懸命に温めた。 執着されているのではない。自分もまた、この男に執着し始めていることに、エルナはようやく気づき始めていた。



クラーケンとの激闘後、シオンは激しい高熱にうなされ、意識を失った。 「時を戻した代償」と「禁忌の魔剣」の使用が重なり、彼の魔力回路がオーバーヒートを起こしていた。


船室で、エルナは不眠不休でシオンの看病を続けていた。 濡れたタオルを替え、栄養のあるスープを口に含ませる。かつては彼を避け、逃げることばかり考えていた自分が、今では彼の呼吸の一つ一つに一喜一憂している。


「……エルナ……行かないでくれ……」


うわ言で繰り返されるのは、いつも彼女の名前だった。 一度目の人生で、冷たい牢獄で孤独に死んでいったエルナ。その彼女を救えなかった後悔が、何年経ってもシオンの魂を苛んでいるのだ。


「……どこにも行きませんわよ。今は、ね」


エルナはそっと、シオンの頬に触れた。 その時、シオンの目が薄っすらと開いた。焦点の定まらない瞳が、エルナを捉える。


「……エルナ? ああ、また夢か。夢の中のお前は、いつも私を優しく見てくれるな」 「夢じゃありませんわ、殿下。……本物の、生意気なエルナですわよ」


シオンは震える手を伸ばし、エルナの首筋を引き寄せた。 「……離さない。死んでも、魂になっても。お前を愛している……。たとえお前に、この愛を『不気味』だと言われても……」


シオンの唇が、エルナの額に触れる。それは口づけというよりも、神への祈りのような、切実な接触だった。 エルナは突き放すことができなかった。 この男の愛は、確かに重い。歪んでいる。けれど、これほどまでに一途に自分を求め、命を懸けてくれる存在が、これまでの人生に一人でもいただろうか。


「……全く。あなたを正気に戻すには、100章あっても足りなさそうですわね」


エルナは、シオンが眠りにつくまで、その手を握り続けた。 夜の海は静まり返り、二人の鼓動だけが狭い船室に響いていた。
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