当て馬令嬢は自由を謳歌したい〜冷酷王子への愛をゴミ箱に捨てて隣国へ脱走したら、なぜか奈落の底まで追いかけられそうです〜

平山和人

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静止した世界に、最初の「綻び」が生じたのは、それから数百年が経過した頃のことでした。


全次元に刻まれたエルナの「刻印」は、人類から悲しみを奪い、代わりに永遠の安寧を与えました。人々は老いることもなく、飢えることもなく、ただ天上の瞳を見上げて微笑み続ける。それは、かつての彼女が夢見た、統計学的に完璧な「最大多数の最大幸福」の具現化でした。


しかし、その完璧な調和を維持するために、エルナの意識は今や数兆もの思考プロセスに分割され、宇宙の隅々にまで散乱していました。彼女はもはや一人の女性ではなく、巨大な「演算システム」そのものへと変質していたのです。


深淵の玉座。 シオンは、動かなくなったエルナの骸のような体を抱きしめ続けていました。彼女の肉体は氷の鎖によって保存され、かつての美しさを保っていますが、その瞳に宿るのは数式の羅列だけで、自分を見る温かな光はありません。


「……目を開けろ、エルナ。……私を見ろ。……なぜ私を呼ばない? 世界を支配し、お前をこの腕に閉じ込めたというのに、なぜお前はここにいないのだ」


シオンの狂気は、静止した時間の中でさらに純度を増していました。彼は、自分が作り上げた「誰の目にも触れさせない檻」が、皮肉にもエルナの魂を世界という広大なネットワークへ拡散させ、彼女自身を消滅させてしまったことに気づき始めていたのです。


彼は、彼女の唇に自らの魔力を流し込み、無理やり言葉を紡がせようとします。


「……シ……オ……ン……サマ……」


エルナの口から漏れたのは、録音された記録のような無機質な音でした。


「……パラメータ……正常……依存率……100%……。幸福な……家畜……たちの……合唱を……お聞きに……なって……」


シオンはその言葉を聞き、獣のような咆哮を上げました。彼が欲しかったのは、自分をストーカーと罵り、嘲笑いながらも隣にいた、あの生身のエルナでした。システムの一部となった「神」ではなかったのです。


その時、閉ざされた深淵の次元に、鋭い光の杭が打ち込まれました。


「——神の沈黙は、長く続きすぎたわ」


空間を切り裂いて現れたのは、かつての反逆者、ユリでした。 彼女は「原初の闇」に侵食され、半分が影と化した姿で立っていました。エルナが作り出した「幸福な停滞」から漏れた、人々の無意識下の「虚無」——それを力に変え、彼女は数百年かけてこの監獄の座標を割り出したのです。


「シオン、哀れな王子。あなたが彼女を独占したせいで、この世界は死にゆく庭園となった。……エルナを解放しなさい。彼女を神の座から引きずり下ろし、再び『不完全な人間』へと戻す。それが私の、最後の反逆よ」


シオンは氷の剣を抜き、狂った笑みを浮かべて立ち上がりました。


「……解放だと? 笑わせるな。エルナは私のものだ。……たとえ彼女が冷たい数式の塊になろうとも、その破片の一つ一つまで、私が愛してやる」


シオンの放つ「独占の闇」と、ユリが背負う「世界の虚無」が激突します。 その衝撃で、玉座に座るエルナの肉体に亀裂が入りました。彼女の瞳の中で、処理しきれないエラーメッセージが高速で明滅します。


シオンの執着が世界を壊し、ユリの正義が神を殺そうとする。 その矛盾の渦中で、エルナの意識の深層に、一筋の「古い記憶」が蘇りました。それは、まだ魔法学校で統計学のノートを広げていた頃の、不完全で、野心的で、シオンの視線に苛立ちを感じていた、ただの少女だった頃の自分。


「……ああ、本当に……。……計算、間違いですわ……」


エルナのひび割れた唇が、本物の、人間らしい微かな震えを帯びました。


「……完璧な幸福なんて、退屈なだけ……。……殿下、聞こえますか?……私を、壊してくださいまし。……この世界ごと、あなたの狂気で、めちゃくちゃに……」


天上の瞳が赤く染まり、空中都市から血のような雨が降り注ぎ始めました。 物語は「ハッピーエンド」のその先、完全なる破滅を孕んだ、新しい「再誕」へと向かおうとしています。
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