【完結】言えない言葉

未希かずは(Miki)

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5.二つの自分 前編

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「ただいま」

 そっとアパートのドアを開けると、リビングから翼が駆け寄ってきた。
 両手にスケッチブックと鉛筆を抱え、目はキラキラ輝いてる。

「おかえり! バイト、どうだった!?」

 翼の前のめりな声に、ずっと心配してくれてたんだなって、胸が温かくなった。
 僕が靴を脱ぐのも待てず、声を掛けてくる翼に、思わず笑みがこぼれる。

「俺も好き」
「水瀬と同じで嬉しい」

 大和との会話を思い出して、僕は頬が熱くなった。
 それを見た翼は、笑顔をさらに輝かせた。

 やっぱり、翼の笑顔って素敵だな。
 この笑顔を覚えておいて、また鏡で練習しなきゃ。
 僕は、心の中に翼の笑顔をそっとしまい込んだ。

「その顔、なんかうまくいったんだよね?」
「心配してくれてたんだね。ありがと。うん、いつもより話せたよ。翼のおかげで、ちょっと自信が持てた」
「やった! さすが、僕の弟!」

 喜びを全身で表して、僕に抱きつく翼は、とても魅力的だ。
 感謝を込めて翼の背中を撫でると、絵の具の匂いがふわりと香る。
 その瞬間、胸がチリチリと痛んで、思わず翼から身体を離してしまった。
 それをごまかすように、僕は笑顔を貼り付けた。

「あ……、汗臭いから、シャワー浴びてくるね」
「ごめんごめん。早くさっぱりしたいよね。お風呂沸かしてあるよ。入ってきて」

 僕はそそくさと風呂場へと逃げ出してしまった。

 脱衣所にある洗面台の鏡に映る僕は、翼とそっくりな姿だった。
 でも、浮かない表情は、翼とは似ても似つかない。
 先ほどの翼の笑顔を思い出し、懸命に口角を上げる。
 人を明るくする笑顔になるように、両頬を自分の両手で引き上げる。手を離しても引き上げた頬をキープできるように顔に力を入れる。
 すると眉間にしわが寄ってしまい、慌てて顔の力を抜く。
「駄目だ。もう一回……」
 何度もやり直してやっと翼そっくりの笑顔ができた。僕はホッと息をつく。

 それから、翼から借りた服を脱いで洗濯機に入れ、翼の洗濯物と一緒に回す。
 シャワーを浴びて、身体を洗った。
 浴室の鏡に映る、前髪を下ろした自分は、いつもの引っ込み思案な僕に戻ってた。
 翼のふりをしていない僕は、自信なさげに背中を丸めている。

 どんなに真似をしても、本物の翼にはなれないのかな。
 大和の笑顔が頭をよぎるけど、この笑顔は翼のもの。
 翼には言えない――本当の僕を隠してるなんて。
 もちろん、大和にも……。
 この嘘をつき続けても、大和の笑顔が見られるなら、それでいいのかもしれない。
 でも、胸の罪悪感は、シャワーでは洗い流せなかった。
 洗濯機の音が、胸のざわめきをかき消すように響いた。


 翌日、大学のキャンパスを歩いていると、友人に囲まれた大和が遠くに見えた。
 木漏れ日が芝生に揺れる中、大和と目が合う。

「おはよう! 今日もいい天気だな」

 大和の笑顔に、胸がドキンと高鳴る。
 僕は思わず、自分の服をきゅっとつかんだ。
 それは、ただの地味な黒いTシャツで、絵の具の匂いはしなかった。
 癖のある前髪が目にかかる。
 この髪が、僕の顔を隠してくれる。
 だから、昨日のバイト先での僕と今の僕は、同じ水瀬でも、簡単には結びつかないはずだ。
 陽光にきらりと反射するイヤーカフが、やけに眩しい。


「……お、おはよう」

「うん。今日もよろしくな」

 大和の柔らかな笑顔が、昨日のバイトを思い出させる。
 それだけで、頭がいっぱいになってた。
 
「よろしくね。じゃ、講義があるから……!」

 何とか返事をして、その場を去るのが精一杯だった。
 ちらりと振り返ると、大和はまだこっちを見つめていた。
 もしかして、何か気づいたのかな。
 そんなわけない。
 だって、翼と僕じゃ全然違う。
 大和の視線を振り切るように、僕は走り出した。
 
「大和、午前の講義休講だってさ。映画観に行こうぜ!」
「えー、ずるーい。私たちも行きたい!」
「皆行くのかよ。なら、俺もついてくからな」
「この前誘ったときは、興味ないって言ってたくせにぃ!」

 大和を囲む友人たちのはしゃぐ声が、遠くから聞こえてくる。

 大和、映画観に行くのかな。
 どんな映画が好きなんだろう。
 いつも、何して過ごしてるんだろう。

 一緒に資料を作ったとき、大和は僕のことを聞いてくれたのに。
 いつも逃げてばかりの僕は、答えるだけで精一杯で、大和に何も尋ねられなかったことに気づいて、手が震えた。



 落ち込んだまま講義を終え、すぐに家に戻ってバイトの準備を始めた。
 
「勝手に、どんどん持ってってね」

 翼の言葉に甘え、クローゼットを開ける。
 途端にふわりと絵の具の匂いと、ウッディな香りがしてきた。
 あ、翼が勧めてくれた香水だ。

「これ、好きな人とおそろいなんだよ! めちゃくちゃいい匂いだろ? 大人な感じがしてさ。つけてると勇気がもらえるから、いざって時に使ってるんだ。
 だからさ、碧依も使ってよ!」

 この香水、翼の特別な人とおそろいなのに、僕が使っていいのかな…。

 少し迷ったけど、翼の嬉しそうな顔を思い出して、ほんの少しだけつけてみる。
 深い青のシャツと翼に教わったコーディネートを合わせてみた。

 香水の香りが、もっと翼に近付けた気がして、暗い気持ちがどこかへ飛んでいった。
 僕は軽い足取りで、バイトに向かったんだ。
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