まだまだこれからだ!

九重

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プロローグ

注意! 温泉は滑ります

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 緑の梢を、さわやかな風が吹きわたる。
 小川のせせらぎはサラサラと流れ、姿を見せぬ山鳥が、綺麗な声で鳴き交わす。
 清涼な空気の満ちる山奥の秘湯。
 ザザザと枝の揺れる音に耳を澄ませ、無類の温泉好きのOL――――三五さんご うららは、思わず感嘆の声をあげた。

「う~ん、最高。やっぱり来て良かったわ」

 都会の喧騒を離れ、交通の便が悪すぎるくらいに悪い上、道路の整備もよくされていないため、訪れる者もまれな名湯にのんびりつかる。
 小さな小さな旅館から更に山中を延々と歩いた先にポツンとある露天風呂は、今日が平日だということもあってか、暖以外は誰もいなかった。
 見知らぬ行きずりの相手と語り合いながら入る大衆風呂も趣があるが、大自然に囲まれた風光明媚な露天風呂を独り占めできるのもまた得難い幸運だと暖は思う。にんまりと笑いながら、両手をお椀の形にしてすくったお湯は、無色透明でほんのり甘い香りがした。
 掌からコプコプと音を立てて流れ落ちる湯に、しばし見惚れる。

「確か石膏泉だったわよね。」

 暖は、宿の一見不愛想でいて、実は話し好きだった女将から聞いた温泉の効能を思い出す。硫酸塩泉の一種でカルシウムイオンを含む石膏泉は、鎮静効果に優れ、筋肉痛やリューマチ、打撲、動脈硬化、便秘などにも良いと言われている。

「うちのお湯は、日本一よ!」

 自信満々に保証してくれた女将おかみは、ドンと自分の胸を叩いてそう言った。
 揺れる豊満な胸に圧倒されてしまった暖だ。

 本当に女将の言う通りだったなと、この露天風呂までの山道を歩いて酷使した足を、大きく延ばしながら、暖は思う。
 温泉の縁のなめらかな石に頭をのせ、寝転ぶように体を仰向けにした。
 視界いっぱいに青空が広がる。

「はぁ~ぁぁ、極楽!」

 ゆったりのんびり、温泉を満喫する暖。
 これだから温泉好きはやめられない。
 毎日の仕事で疲れた体が、じわっと蕩けていくような感覚を味わいながら、暖は心行くまでリラックスする。
 本当に心の底から、幸せで、うとうとと眠くなった。

(このまま眠ったら流石にまずいかしら)

 そう思いはじめた頃…………


 突如、暖は微かな異変を感じ慌てて体を起こす。

「え? 何、このお湯の動き?」

 見れば、なんと、お湯の中に川のような流れができていた。
 呆気にとられながら、露天風呂の真ん中に目をやった暖は、そこでお湯が渦を巻いているのを発見する。

「……へっ?」

 ものすごく間抜けな声が出た。
 見ている内にも、グルグルと渦は大きくなる。
 なんだか家のお風呂の栓を抜いた後みたいだなと、思った。

「――――っていうか、そっくりそのままなんじゃない? ひょっとして、あそこからお湯が抜けているの!?」

 暖はびっくりして目を見開いた。
 いや露天風呂とはいえ、そこが風呂であるからには、清掃のために底に栓があるのは当たり前なのかもしれないが、今問題なのは、何故それが急に抜けてお湯が落ちはじめているのかということだ。

……ここには、暖しかいないのに。

「私、知らない内に栓を抜いてしまったの?」

 そのわりには、そんな感覚は何もなかったし、そもそもまだ問題の真ん中付近には近づいてもいないはずだ。
 疑問に頭を捻っている間にも、渦はますます大きくなり、水流が強くなる。


「ちょ、ちょっと……ヤバイかも」


 体が持っていかれるような勢いを感じて、暖は慌てて立ち上がる。
 たかが露天風呂の栓が抜けた割には、この水の勢いはありえなかった。

 ザババ~ッと、お湯が暖の裸の体を滑り落ちる。



 ところで――――
 暖が素っ裸だということ以外は緊迫感溢れる状況ではあるが……ここで、皆さま温泉に入る際の一般的な注意事項を思い出していただきたい。
 全国津々浦々、温泉大国の日本に名湯秘湯は数あれど、次の注意事項の全く無い温泉はないのではないだろうか。


――――『注意!温泉は滑りますのでご注意ください』――――


 嘘だと思ったら探してみてください!(○所○司の某CM風)
 たいていの温泉には書いてあるはずである。
 ……つまり、温泉では、急に立ち上がったりしてはいけないのだ。
 そんな事をすれば滑って転ぶ可能性はたいへん高く――――


 暖も、多分に漏れず、見事にスッ転んだ!


 バシャーン!! と派手に水飛沫が上がる。




「ギャアァァァ~ッ!!」




 耳をつんざくような悲鳴が、大きく響き渡った。
 周囲の鬱蒼とした森から鳥が一斉に羽ばたき飛び立つ。

 しかし、残念なことに、大きな悲鳴は遠く離れた旅館の女将には聞こえなかった。
 孤立無援の暖。
 水流はますます強く大きな渦となっていく。
 今や、ゴゴゴォッ! と、音を立てて、お湯は地下へと吸い込まれていた。
 必死に抗う暖も、流れに巻き込まれる。

(温泉の排水口、大きすぎでしょう!?)

 そんな文句が頭に浮かんだが、もはや声に出せる状態ではなかった。
 暖の脳裏に、映画にまでなった某マンガの古代ローマ人の主人公が浮かぶ。
 似たような展開に、思わず笑いたくなったが……本気でそんな場合ではなかった。

(温泉で溺死なんて、恥ずかしすぎて死ねるわ!)

 ……どのみち死んでしまうのは、確定である。
 幸いにしてと言っては語弊があるが、暖は両親と早くに死に別れているので、先に逝く親不孝はしなくてすむが、そういう問題でもない。

 渦巻くお湯の中から暖の白い手がのぞく。
 必死に伸ばされる手。
 しかしその手は、何もつかむことは出来ず……やがて、渦に呑み込まれた。
 流れるお湯の激しい水音だけが山中に響く。

 ――――いつか、それも止まり……後には、空っぽになった露天風呂だけが残った。




 梢を吹きわたる爽やかな風。
 サラサラと流れる小川のせせらぎ。
 姿は見えぬが、綺麗な声で鳴き交わす小鳥の声。
 ザザザッと風が吹きわたる。


 ――――そこには、誰の姿もなかった。
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