生残の秀吉

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齟齬

百九十五.暗躍の禅僧

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秀吉ひでよし信雄のぶかつとの歓談から二月ふたつきとうとしている。岸和田きしわだでの根来ねごろ雑賀さいかとの小競こぜいは日に日にその頻度ひんどと激しさを強めていくが、おおむね世の中の民にとっては対岸の火事に過ぎなかった。しかしその水面下では官兵衛かんべえ正信まだのぶが抱える間者かんじゃたちが東に西にと徘徊はいかいし、さぐいのうずが目まぐるしい。それでも官兵衛かんべえ正信まさのぶも大事はまだまだずっと先とんでいる。とりわけ官兵衛かんべえ信雄のぶかつ家康いえやすの密談の内容を大坂おおさかで耳に入れたものの、事態を全く軽んじている。

師走しわす岡田殿おかだどの津川殿つがわどの信雄様のぶかつさまのご様子を聞き取りはしたが、起請文きしょうもんなぞ書かせておらんぞ。幾分あきれたうわさふくれあがっとるようじゃのぉ。まぁっ、然様さようなものを探し出そうとも、無いものは見つからん。ここはしばらくっておこう。じゃが、信雄様のぶかつさまがまた筑前殿ちくぜんどのを疑い始めておることは、筑前殿ちくぜんどのの耳に入れておいた方がえぇじゃろぅ。)

確かに『無いものは無い』はずなのだが、この世はてして『無いはずなのに有る』という摩訶不思議まかふしぎなことが起こることがある。しかもそれは誰も予想しなかった意外なところからるものである。


天正十二年二月二十三日 未の刻

信雄のぶかつに対面を申し出た雄利かつとしが神妙な面持おももちで清洲きよす御殿ごてんで待つ。雄利かつとしの帰国は明日だと思っていた信雄のぶかつは、不安を抱きながら雄利かつとしの前に現れる。

如何いかがしたっ、雄利かつとしぃっ・・・。」

只今ただいま、急ぎ松ヶ島まつがしまの城から戻りました。一刻も早く信雄様のぶかつさまのお耳に入れなければと思い、急遽きゅうきょ御目通おめどおり願い出たこと、お許しくださいませっ。」

「堅苦しいことはえぇっ。何があったぁ・・・。」

雄利かつとしは周りの家臣たちに目配りで人払ひちばらいを命ずる。誰も居なくなったことを確かめ、雄利かつとしが口を開く。

「わたくしめが松ヶ島まつがしまの城に到着すると、玄蕃允殿げんばのじょうどのが大層慌てておられました。何やら盗みに入られたとか・・・。盗まれたのは大殿おおとの信雄様のぶかつさまから頂戴ちょうだいした宝物ほうぶつなどだったそうですが、『わたくしめも盗人ぬすっとの取り押さえに尽力いたしまするっ』と申し出たところ、玄蕃允殿げんばのじょうどのに強く断られました。不思議に思い、ひそかに玄蕃允殿げんばのじょうどのの家臣に聞き取りをいたしますと、盗まれた物の中に玄蕃允殿げんばのじょうどの文箱ふばこが含まれていたとか・・・。」

文箱ふばこっ・・・。盗人ぬすっとの目的は売券うりけんか何らかの証文しょうもんかぁ・・・。」

「わたくしも初めはそう考えました。しかしそれにしては玄蕃允殿げんばのじょうどのあわよう大袈裟おおげさでぇ・・・。そのときわたくしめの頭には例の『起請文きしょうもん』が思い浮かびました。」

信雄のぶかつ眉間みけんしわが寄せられる。

「くっ・・・。確かにそれがあるのなら、玄蕃允げんばのじょうは誰にも見せたがらんのぉ・・・。」

「そこでわたくしは玄蕃允殿げんばのじょうどのして、わたくしめの家臣共に城下を探索させ、盗人ぬすっとを取り押さえるよう命じました。そしてぇ・・・。」

「取り押さえたのかぁ・・・。」

「ある商人あきんどからの報せを訊きつけ、城下の片隅の棲家すみかに押し入りましたぁ。しかし残念ながら激しく抵抗され、盗人ぬすっとを斬ってしまいました。」

文箱ふばこはっ・・・、文箱ふばこはあったのかぁ・・・。」

文箱ふばこはありましたが、中身は何の変哲へんてつもない書状ばかりでございましたぁ。」

「そうかぁっ、見つからなんだかぁ・・・。」

「ですがっ、その盗人ぬすっと只者ただものではございませんでした。彼者かのものまぎれもなく、黒田くろだ乱破らっぱでございまするぅ・・・。」

信雄のぶかつの興奮が絶頂に達する。

「まっ、まことかぁっ・・・。」

冷静さを保つのに必死の雄利かつとしは、ふところから縦に幾重いくえにもたたまれたふみを取り出し、目の前でひろげる。ふみには短い文言もんごんが書かれているようであるが、奇妙なことに一寸ほどの厚めの紙きれらしきものがはさまれてあった。

盗人ぬすっとふところにあったものでございまする。こちらのふみには『牛は既にした』と書かれておりまする。」

「うっ、『牛』とは・・・、牛王宝印ごおうほういん・・・、もしかしてぇっ、起請文きしょうもんかぁ・・・。しかし『既にした』となるとぉ・・・。」

「わたくしも刻既ときすでに遅しかと一度は失意の念をいだきました。ですが、このふみの間にはさまれていた紙切れ・・・。」

雄利かつとしはその紙切れを右手でつまみ、左のてのひらの上に乗せる。そして自分の鼻息を殺しながら左手を伸ばすと、信雄のぶかつはそれをのぞむ。雄利かつとしが説明する。

「明らかに朱書しゅがきの一部が・・・。形からして牛王宝印ごおうほういんの一端であることは間違いないかと思われまする。」

「すっ、すなわち、筑前ちくぜん玄蕃允げんばのじょう起請文きしょうもんを書かせたのは明らかじゃとぉ・・・。」

「もはや間違いなく・・・。しかも中身はわれらに見せれぬような内容であり、われらが御家老ごかろうたちを疑っておるを知った黒田殿くろだどの、いやっ、筑前様ちくぜんさま起請文きしょうもんを処分させるよう乱破らっぱに命じたと思われまする。大半は既に焼き捨てたのでしょうが、処分のあかし起請文きしょうもんの一部だけを取って筑前様ちくぜんさまの元へ送ろうとしていたのではっ・・・。」

玄蕃允げんばのじょうらなら天罰を恐れて、みずから焼くわけにはいかんからのぉ。」

御家老ごかろうたちの起請文きしょうもんが失われても、筑前様ちくぜんさまの手元にはつい約定やくじょうがおありでしょうから、誓紙せいしは効いていると御家老ごかろうたちを説くのでございましょう。」

「でかしたぞぉっ、雄利かつとしぃっ。これは、これこそ動かぬあかしぃっ・・・。長島ながしま岡田おかだ津川つがわ浅井あざいの三人を集めよっ・・・。三人とも成敗せいばいしてくれるわぃ・・・。」

「しっ、しかしぃっ、起請文きしょうもんが書かれたのは間違いありませんが、その中身は相変わらず分からずでぇ・・・。ここはまず三河様みかわさまにお伝えした方がぁ・・・。」

三河殿みかわどの御手おてわずらわせることはないっ・・・。わが家臣の不始末ふしまつ主人あるじみずから処さねばならぬぅっ・・・。三河殿みかわどのしらせるはその後でよいっ。筑前ちくぜんに眼に物言わせてやるわぃっ。」

怒り心頭の信雄のぶかつを、雄利かつとしはもはや止められない。雄利かつとしは一礼した後、詰所つめしょに一人こもり、三人の家老の誅殺ちゅうさつの段取りをはじめる。


その頃、松ヶ島城まつがしまじょう近くの南伊勢みなみいせの港からさかいへ向けて一隻いっせきの船が出港する。その甲板かんぱんの上で山上宗二やまのうえそうじくもぞらあおいている。
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