生残の秀吉

Dr. CUTE

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退陣

十六.下山の二人

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筑前殿ちくぜんどのはこうおっしゃられました。『わしは宗治殿むねはるどのが腹を召したら、陣を引き払う。そしたら毛利もうりが追ってこんようはかってくれ』と・・・。」

隆景たかかげはさらに眉をひそめる。

「うぅむっ。確かに『奇妙な頼み事』じゃ。約定やくじょうを結んでからそんなことを云うとはのぉ。」

恵瓊えけいは続ける。

筑前殿ちくぜんどのになぜ退陣されるのかを訊ねましたが、『そのうち分かる』とはぐらかされました。その上、さらに奇妙なことをおっしゃるのです。」

もはや隆景たかかげの興味は尽きない。恵瓊えけいの混乱ぶりがその声を裏返す。

筑前殿ちくぜんどのは『もし云うことを訊いてくだされたら、近いうちに毛利もうりの姫と秀勝殿ひでかつどのを結ばせたいので、世話をしてくれ』とおっしゃるのです。」

さすがに隆景たかかげは立ち止まる。

「なんと、筑前ちくぜんがそんなことを申したのか。」

隆景たかかげは驚くが、少し楽しくなってくる。

毛利もうり織田おだの間に和議が結ばれれば、わしらとしては喜ばしいことじゃが・・・。わしはてっきり右大将殿うだいしょうどの毛利もうりを滅ぼさんとしておると思っておった。かつて毛利もうり織田おだは同盟の間柄あいだがらじゃったが、公方様くぼうさまはかりごととはいえ、決裂してしまったからのぉ。右大将殿うだいしょうどのからすれば、わしらは『裏切り者』じゃ。右大将殿うだいしょうどのは『裏切り者』は決して許さんお方だと訊いておったが、そうではないということか。」

隆景たかかげ若干じゃっかんのはしゃぎぶりに恵瓊えけいは困ったように続ける。

「それが、この話はまだ右大将殿うだいしょうどのの知るところではございませぬ。ですが筑前殿ちくぜんどのは『わしが何とかする』と申しておりまして・・・。」

「何だ、筑前ちくぜんの一存か・・・。それにしても大それた申し出じゃのぉ。」

「はい。筑前殿ちくぜんどの御館様おやかたさまとこれ以上いくさを続けたくないと申しておりましたが、それにしても事が事だけに・・・。」

「して、其方そなたは何と応えたのじゃ。」

「何も応えられませんよ・・・。ついには筑前殿ちくぜんどのはわたくしが困っているのをみかねて、『忘れてくれ』と締められました。もう一体何がどうなっているのやら、お陰でここのところ夜も眠れぬ有様ありようです。」

隆景たかかげ恵瓊えけいは再び歩き出す。隆景たかかげは何となくにやつく。しばらくして隆景たかかげが口を開く。

恵瓊殿えけいどの。先ほどの其方そなたおっしゃったくだりには興味深い点が二つ隠れておる。」

恵瓊えけいは顔を上げる。

「一つは筑前ちくぜんが退陣する理由を『そのうち分かる』と云った点、もう一つは縁談えんだんの話を『何とかする』と云った点じゃ。」

恵瓊えけいはさっぱり分からない。

「この二点はどちらも今の話じゃのうて、先の話じゃ。先の話というのは『絵に描いたもち』となるのはようあることじゃが、嘘というわけではない。おそらく筑前ちくぜんは嘘は云うとらん。全てを明らかにしてないだけじゃ。」

恵瓊えけいが反論する。

「恐れながら、筑前殿ちくぜんどの宗治殿むねはるどのが腹を召したら陣を引き払うとおっしゃいました。ところがそれがしは今朝から羽柴はしばの陣をずっと見張っていましたが、一向にそのような様子がうかがえませんでした。」

隆景たかかげは返す。

「そのような嘘をついて何とする。『陣を引き払う』と云ったのだから、そうなのであろう。何も『旗を下ろす』とは云ってまい。」

恵瓊えけいははっとする。

「では筑前殿ちくぜんどのはすでにこの地にはいないと・・・。」

隆景たかかげは続ける。

「東ではよくあるいくさすべなのかもしれん。じゃが筑前ちくぜんの申したことが嘘か誠かにこだわっていては、むし筑前ちくぜんの思う壺ぞ。筑前ちくぜんの思惑の一つは恵瓊殿えけいどのをはじめ、わしらをまどわすことにあるからのぉ。」

恵瓊えけいは返せない。

「重要なのは退陣の理由じゃ。それを見逃してはならん。退陣の理由をわしらが知れば、わしらは筑前ちくぜんを追うということじゃな。」

恵瓊えけいは申し訳なさそうに云う。

「はい。しかし約定やくじょうを破ってまでわれらが筑前殿ちくぜんどのを追う理由が思い当たりません。そんなことをすれば右大将殿うだいしょうどの毛利もうり壊滅の口実を与えてしまいます。筑前殿ちくぜんどのともあろう方がそんな幼稚ようちな罠を仕掛けるとは思いませんが・・・。」

隆景たかかげはあっさり返す。

筑前ちくぜんの人となりに振り回されるな。ここは、筑前ちくぜんが発した一言一句いちごんいっくだけを素直に解した方がえぇ。わしらが『約定やくじょうを守らんでえぇ』と考える状況は何か。」

恵瓊えけいは口に出すのをはばかっていたが、思い切って昨日来ずっと思案していた仮説を訊いてもらうことを決する。

「たとえばの話でございます。右大将殿うだいしょうどのやまいか何かで御隠おかくれになったのではないか、と考えてみました。しかし右大将殿うだいしょうどのはすでに家督を左中将殿さちゅうじょうどのにお譲りされております。右大将殿うだいしょうどの御隠おかくれれになられたとしても、事態は変わらぬと思いますが・・・。」

恵瓊えけいの重苦しい言葉に、隆景たかかげは再びあっさり返す。

「では、左中将殿さちゅうじょうどの御隠おかくれになられたのではないか。」
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