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第4話 涙の理由
しおりを挟む「ふぅー……」
ガットが深く息を吐いた。灯火がゆらりと揺れ、木の壁に三つの影が揺らめく。
「俺たちは……あんたを誘拐した。身代金目当てだ。」
「ことが済めばすぐに帰す。三日間……我慢してくれ。」
その声は荒くもなく、ただ淡々としていた。セリーナは膝の上で両手を固く握りしめた。木の軋む音と、心臓の鼓動だけが静けさを乱していた。
コビーが湯を注ぐ音がした。かすかな香りが、閉め切った空気にゆっくりと広がる。
「ごめんね。僕たちにはどうしてもお金が必要なんだ。」
「どうしても……」
小卓がセリーナの前に据えられ、その上に湯気の立つカップが置かれた。
「どうぞ、王女さん。」
(……紅茶?)
見上げると、コビーの瞳がそこにあった。柔らかくも、どこか影を宿した光。
「大丈夫。怪しいのは入ってないから。落ち着くよ?」
セリーナは震える手でカップを持ち上げ、
「ふぅ」
湯気が唇の前でほどける。セリーナは一口、そっと口に運んだ。
(……あたたかい。)
「これはね、ラスの村ってところで採れたハーブを使ってるんだ。あまり出回ってないから、王女さんも飲んだことないよね?」
セリーナは静かにうなずいた。
「いい香りでしょ?」
また、うなずく。
「ガットも……はい。」
「ああ。」
ふたりのやりとりは、どこか穏やかだった。けれど、その穏やかさが逆に、胸を締めつけた。
(私を誘拐しても……)
(お父様は……本当に私を取り戻すだろうか……)
(身代金……それだけの価値が……私に?)
(もし……見捨てられたら……)
セリーナの肩が小さく震えた。それは寒さではなく、心の奥に忍び寄る恐怖。ここにいることが怖いのではない。――これから先、どうなるかが、怖かった。
「大丈夫だよ、王女さん。ほんとに何もしないから。」
コビーの声が、ゆっくりと近づく。セリーナはかすかに首を横に振った。「違うの」と、声にならない唇が動く。
ひと筋の涙が、頬をすべり落ちた。
コビーはそっと膝をつき、同じ目の高さに視線を合わせた。
「ね、王女さん。僕とお話……できる?」
その顔は穏やかで、無理に笑おうとした優しさがにじんでいた。セリーナの胸の奥で、何かが静かに崩れる。
(こんな顔……初めて……)
(お父様の顔は、いつも“王”の顔だった……)
(優しさを、向けられたことなんて……)
また涙が零れた。コビーは驚かず、ただ見つめていた。
「ねぇ……ガット。」
「ん?」
「いいかな? 自己紹介しても。」
「……誘拐犯のすることじゃねぇな。」
コビーは少しだけ笑った。その笑みに、セリーナの震えた呼吸が止まる。
(その顔……)
(どこかで見たことがある……)
(――いや、違う。)
(“似てる”。誰かに……)
「でももう王女さんの前でガットって呼んじゃった。」
ハハッと笑う。
「今も呼んでんじゃねぇか……」
一瞬、セリーナの顔がほころんだ。
「はぁ……勝手にしてくれ。」
あきれ顔のガット。
「うん。ありがとう。」
(あのときの、あの子の……)
(寂しげな顔と、重なった。)
(プリシア……)
(呼んでほしかったんだ……自分の名前を。)
「王女さん。僕はコビー。あっちにいるのはガット。」
「コビー……さんに……ガットさん?」
「うん。そう。まあ名乗るのはおかしいかもしれないけど、」
「まあ……おかしいな。」
「ガット。」
コビーは一度だけ目を伏せ、そしてセリーナへ穏やかに視線を戻す。
「僕たちを、知ってほしくて名乗った。」
(“知られる”ってことが、あの子が一番欲しかったものだったから。)
セリーナは小さく息をのむ。言葉にできない何かが、胸に残る。
「……どうして……ですか?」
「どうして……うーん……どうしてだろ。わかんない。」
コビーは少し天井を仰いで、ふっと笑った。
「でもね、王女さんを見てたら、そうするべきだって思ったんだ。」
「もう一度言うね。僕たちは王女さんを絶対に傷つけない。すべてが終わったら、ちゃんと帰す。約束する。」
「……はい……」
「うん。信じてくれて、ありがとう。」
灯火の影がゆらゆらと伸び、三人の影を、まるでひとつに結ぶように重ねた。
(紅茶の香りが、涙にまじっている……)
(どうしてこんなに……あたたかいの……)
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