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第7話 優しさと涙
しおりを挟むガチャ――
「おかえり。あれ? 王女さんは?」
ガットは椅子にドカッと腰を下ろし、背中で昼の光を弾いた。 外から吹き込む潮風が、かすかに薪の匂いを混ぜて揺らぐ。
「置いてきた。」
「置いてきたって……どうしてさ!」
ガットは黙ったまま、ランプの炎を見つめた。 炎が揺れるたび、影が壁を這い、答えの代わりに沈黙が落ちる。
「……」
「ちょっと行ってくる!」
コビーは慌てて外へ飛び出した。 扉が閉まる音が、湿った海風の中に吸い込まれる。
(ガット……ダメだよ。あの子は繊細なんだから……)
砂を蹴り、コビーは走る。 潮の香りが強くなり、波の音が近づいてくる。
やがて、陽光に照らされた海辺に小さな人影が見えた。
(いた……よかった……)
ザァァ……ザァァ……
波が寄せては返す音。 セリーナは、海と空の境をじっと見つめていた。 風に髪がなびいても、動かない。まるで時間が止まったようだった。
「王女さーん!」
遠くからコビーの声が届く。
セリーナは驚いたように肩を震わせ、慌てて涙をぬぐった。 目元に残る光の粒を、日差しがやさしく照らす。
「はぁ……はぁ……よかった……」
「ごめんなさい……もう少し……海を見たかったから……」
コビーは息を整えながら、彼女の横顔を見た。 赤くなったまぶた、わずかに震える唇――見てはいけない痛みに触れた気がした。
「帰ろう。」
「……はい……」
ふたりは砂浜を歩き出す。 波が足元をかすめ、靴が湿る。 昼の海は穏やかで、ふたりの影だけが並んで揺れていた。
「ガットに……何か言われたの?」
セリーナは小さく首を振る。
「……何も言われていません。」
「そう……なら……いいんだけど……」
短いやり取り。 けれどその間に、波鳴りのような沈黙が流れていた。
小屋に戻ると、昼の光が目張りの隙間から差し込んでいた。 ガットは鞄に荷を詰め、外套を羽織っているところだった。
「明日の準備をしてくる。言われたものは買ってくる。」
「え……あ、うん……」
ガットは、セリーナの方を見ないまま扉を開ける。 外の風が一瞬だけ彼女の頬を撫で、また静寂が戻った。
「コビーさん。私……少し休んでいいですか?」
「うん。」
「ごめんなさい……」
セリーナはベッドに腰を下ろし、靴を脱ぐ音が小さく響いた。 薄い毛布に包まれ、背を丸める。 外では木の葉が擦れ合い、遠くで波が鳴っていた。
(波のリズムが、まぶたの裏に淡く広がった。)
子どもの頃の記憶――
(お父様! 私が作ったんです。見てください!)
(今は忙しいからあとで見る。)
(結局見てくれなかった……)
(受け取ってさえもくれない……)
(せっかく……お父様のために作った花冠……枯れちゃった……)
夢の中、少女の手には色褪せた花弁が握られていた。 頬に落ちたその影が、今のセリーナと重なる。
(今日はお父様と久しぶりの夕食……)
(急用ができた。一人で食べてなさい。)
(また……一人……)
(私は……私に価値なんてあるのかな……)
冷えた食卓。 銀の皿に映る自分の顔だけが、静かに震えていた。
(私に恥をかかせないでくれ、セリーナ……)
(ちゃんとやってるのに……)
(セリーナ!)
(またか、セリーナ!)
その瞬間、記憶の中に響く怒号。 重い扉がバンッと閉まり、壁に飾られた絵皿がカタリと鳴った。 父の影が揺らめき、少女の小さな肩がびくりと震える。
(もう……やめて……言わないで……私は……)
(壊れそう……)
「う……うぅ……お母様……」
闇の中、ふわりと光が差した。 やわらかな声が、遠くから届く。
(セリーナ……あなたはとても優しい子。 困っている人がいたら寄り添ってあげて…そして、 一緒に泣いて……一緒に笑ってあげなさい……)
(人の痛みを知ることが、あなたの強さになるから……)
(私は……あなたの母でいられたことが、何よりの幸せ……)
「お母様……」
(ごめんね、セリーナ……あなたを一人にしたくない……でも……)
(セリーナ…愛してるからね…)
「う……うぅ……」
「私には……できないよ……」
涙が頬をつたう。 枕に吸い込まれた雫が、静かに昼の光を反射した。
窓の隙間から差し込む陽射しが、 ベッドの上で揺れながら彼女の髪を照らす。
波の音が、遠くから穏やかに届く。 それはまるで、母の声が、いまもここまで届いているかのようだった。
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