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第11話 誰がために
しおりを挟むセリーナがベッドに入って、しばらく―― ランプの明かりが、ゆらゆらと壁に影を描いていた。 外では虫の声と、かすかな夜風が草を揺らしている。
「ガット。明日は予定通り?」
「ああ。川のほうは堰き止めてある。縄を引っ張れば外れる仕組みだ。馬の上からでもわかるようにしてある。」
ガットが身振り手振りを交えながら、地図を指でなぞる。 彼の指先は、まるで長年の経験を刻んだように迷いがなかった。
「うん。わかった。追っ手は来るだろうからね。」
「ああ。だから川を氾濫させて行く手を阻む。」
「橋も近くにないから分断できる。そしてその先は……僕たちの庭だからね。」
コビーが淡く笑う。 火の粉がはらりと舞い、二人の顔を赤く照らした。 その笑みに、静かな自信と、どこか寂しげな響きが混じっていた。
「コーデの森は入り組んでるから、慣れてないと絶対に迷う。」
「だな。王都の兵士は森には入ったことがないはずだ。」
短く交わされる言葉の奥に、張り詰めた緊張が漂う。 波の音だけが、時間を刻むように遠くで響いていた。
「そうだね。最悪を考えて煙幕は入口で出すよ。匂い袋もあと一つあるから。」
「ああ。頼む。」
「小屋のほうは?」
「そっちも昨日見てきたが、静かなもんだ。」
「見張りは明日付くだろうね。」
「でも見張れる場所は決まってるから、すべてこっちの手の内なんだよね。」
「まぁな。だからあの小屋を選んだ。」
「ガットのほうは?」
「ああ……ちょっといいか?」
ガットが外を指差した。 夜風が冷たく、星の光が微かに地面を照らす。 コビーはセリーナのいるほうを一瞬だけ確認し、静かにうなずいた。
二人は外へ出る。 潮と草の匂いだけが漂っていた。
「何かあった?」
「ああ……少し予定を変更したくてな。」
「変更?だって明日だよ?何か……段取りうまくいかなかったの?」
「いや……段取りは予定通りだ。王都まで送っていく。……セリーナを。」
「え?だって……そんなことしたらガットは……」
風が一瞬止まり、静寂が落ちた。 コビーの喉が小さく鳴る。
「大丈夫だ。心配するな。」
「プリシア……だよね?」
「……ああ。」
「僕も……感じてるんだ。王女さんとプリシアが重なるときがあった。」
「……俺は……気付いてやれなかった……似てるんだ……あの時と……」
――ザァァ……ザァァ……
ガットが拳を握る。 波の音だけが夜の沈黙を破っていた。
「ガットが悪いわけじゃないよ。」
コビーが小さく首を振る。 その瞳には、理解と哀しみの光が同居していた。
「だから同じ思いを、セリーナにはして欲しくねぇんだ。」
「ガットが決めたのなら僕は何も言わないよ。 でもこれだけは約束して!」
「必ず、戻るって。」
「ああ。……約束する。」
(悪いな……どうしても、やらなきゃなんねぇんだ……)
(村のことは、頼む……)
――同時刻・王都/王宮執務室。
厚いカーテンの隙間から、夜明け前の光が細く差し込んでいた。 空気は冷たく張りつめ、誰一人として無駄な言葉を発しない。
丞相「追跡兵からの報告です。」
ナビル王「読め。」
【追跡報告:第三号 付記(夜明け前)】 ■地形(旧保線小屋 周辺半里) ・小屋は緩やかな河岸段丘上。北は岩稜、南は浅い谷。 ・東に支流、上流側に低土堰(縄索で下流から解放可)。 ・見通し:西~北西は開ける/南東は雑木で視界不良。
■周囲索敵(半径三百歩) ・新しい馬蹄痕(二騎相当)と軽装歩行痕を確認。 ・焚火痕・野営痕・残置物いずれも無し。 ・監視は二名一組×三交代で継続。小屋への出入りは認めず。
■隠匿可能地点(三箇所) (壱)北西の岩棚(小屋から百歩弱)…上面は風下、伏せての射撃に適。 (弐)南東の倒木帯(百八十歩ほど)…地表の起伏多く、追跡回避向き。 (参)支流右岸の河畔窪地(百二十歩ほど)…水音で足音を隠蔽可。ただし増水時は不適。
■近隣聞き込み(二村) ・北側の小村(穀倉併設):夜半に一騎通過の証言。進路は北。 ・東街道沿いの集落:川上からの作業音を夕刻に数度。人影は見ず。
■要請 ・浅瀬(北/東)に各一小隊を先回り配置。 ・(壱)岩棚に弓兵待機、(弐)倒木帯に騎兵の迂回路確保。 以上。
ナビル王は報告を聞き終えると、静かに息を吐いた。 その指先が、玉座の肘掛けをわずかに握りしめる。
「追跡のみに専念せよ。 泳がせ、居所を突き止めよ。 ――王女が戻りしだい、捕らえよ。」
低く響いた声は、玉座の間の空気を凍らせた。 臣下たちは誰一人として息を呑むこともできず、ただ深く頭を垂れた。
ナビル王はしばし沈黙し、やがて低く呟いた。
「……セリーナ……」
その名を呼ぶ声は、誰にも届かぬほど小さかった。
――翌朝。
夜が明け、霧が白く流れていく。 鳥のさえずりが遠くで響く中、三人は無言のまま荷を整えていた。
「じゃ……行くね。」
セリーナの声が震える。 その手は、まだ夜の冷たさを残したまま。
「ああ。手はず通りに頼む。」
ガットは短く答えたが、目を合わせることはなかった。
コビーはうなづいた。 その瞳の奥に、決意と迷いが同時に宿っていた。
「王女さん。三日間……楽しかったよ。元気でね。」
「コビーさん……」
セリーナが思わずコビーに抱きつく。 小さな肩が震え、声にならない想いがその背中に伝わった。
「僕たちが誘拐犯なの……忘れちゃダメだよ。」
コビーはそっと手を載せ、ひと撫でして離した。 風が通り抜け、草を揺らした。
――ザァァ……ザァァ……
「さよなら、王女さん。」
朝靄の中、コビーが馬に跨がる。 その背に陽が差し、影だけが長く伸びていった。 やがて蹄の音が遠ざかり、静寂が小屋を包み込む。
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