猿の内政官の孫 ~雷次郎伝説~

橋本洋一

文字の大きさ
19 / 39

東海道の大名

しおりを挟む
 六尺近くある大柄な雷次郎が怒ると、女子供でなくとも怯むだろう。
 それは生意気な子供も例外ではなく、その場に尻餅を突いてしまった。
 涙目になって、どうしようもなく怯えている。

「お、おい、大須賀……何しているんだ……起きてよ……」

 震える声で言ったのは、他人を頼る声。
 雷次郎は「どうしようもねえな、こいつ」と呟いた。

「性根が腐ってやがる。かなり甘やかされたようだな」
「ひっ!? な、何をする気だ……」

 傲慢な子供は後ろに這って逃げようとして――気づく。

「お前たち! 私を助けろ!」
「あん? ……なんだよ応援か?」

 雷次郎が振り向くと武士が数人こちらに駆けてくる。その後ろには馬に乗っている者もいる。
 子供は余裕を取り戻したのか「はっははは、残念だったな!」と雷次郎を嘲笑う。

「ざまあみろ! お前はあの者たちに斬り殺される! この私に逆らった罰――」
「ごちゃごちゃうるせえぞ! クソガキが!」

 堪忍袋が切れたのか、雷次郎は勝ち誇っている子供の脳天にがつんと拳骨を食らわせた。
 無論、頭蓋骨が割れるほど強くは殴ってはいない。しかし十分な痛みだったらしく、頭のてっぺんを抑えて悶絶する子供。

「い、痛い……痛いよう……!」
「な、なんてことを! 早くお逃げになってください!」

 それまで呆然と見ていた、子供に足蹴された女が顔を真っ青にして叫ぶ。
 しかし雷次郎は「お前さん、怪我はないか?」と女を気遣う言葉をかけた。

「わ、私のことなど、いいです! それより逃げないと――」
「何を怖がっているのか分からねえが、もう遅いみたいだな」

 ぐるりと雷次郎の周りを囲む武士たち。
 彼らが相当鍛えられているのは、所作で分かる雷次郎。
 これは無傷じゃ倒せないなと刀の柄を握る――

「お前たち。少し待ちなさい」

 静止を呼びかけたのは、後からゆっくり駆けてきた馬上の武士。
 壮年で鋭い眼光。何度も修羅場を切り抜けたと思わせる武将。
 雷次郎は刀から手を放して「久しぶりだな」と笑った。

「お前さんが駿河国にいるとは思わなかったよ――井伊直政殿」
「奇遇ですね。私も同じことを思いました」

 馬から降りた直政は雷次郎に頭を下げた。
 周りの武士たちは動揺を隠せない。
 何故なら徳川家の家老が、どう見ても遊び人にしか見えない男に礼を尽くしたからだ。

「さて。おそらくお忍びで来られたと推察いたします。雷次郎様」
「ご配慮、感謝するぜ」

 雨竜家の名を出さずに雷次郎と呼んだ直政。
 本多のじいさんが『若いくせに律儀な奴』と言っていたのを彼は思い出した。

「な、直政! 何をしているんだ! 早くこの者を斬れ!」

 甲高い声で子供が喚く。
 武士が動揺しているのを見て、雷次郎は「もしかして、このガキは」と言う。

「徳川家の若君か?」
「ええ。昨年元服された、徳川家のご嫡男、徳川勝康様です」

 雷次郎は内心、納得を覚えた。
 去年、江戸城を訪れた当主の信康が、父の秀晴に話していたことを思い出した。
 ――少しわがままに育て過ぎたと。

「はあ。他人の家の事情には口出ししたくねえけどよ。躾が足らねえんじゃねえか?」
「失礼ながら、あなたにだけは言われたくないですね――日の本一の遊び人殿」
「あはは。そいつは言えてるな。傑作だ」

 二人が軽口を叩いているのを見て、子供――勝康は「何をしておる!」と怒鳴った。

「早く斬れと言っているではないか!」
「若様。私はこのお方を斬ることはできませぬ」
「な、なに!?」

 呆然とする勝康に対し、直政は頭を下げて説明した。

「斬れば井伊家だけではなく、徳川家がお取り潰しになりますゆえ」
「……何を言っているんだ?」

 勝康は直政が冗談を言ったのだと思った。
 雷次郎も「そりゃ言い過ぎだ」と頭を掻いた。

「精々、戦が起こる程度だろ」
「まあそうかもしれませんね。それより、雷次郎様。この状況では、私が何もしないという選択肢はありません」

 井伊直政は徳川家家臣の中で、数少ない雷次郎が認める男だった。
 だから素直に「まあそうだろうな」と頷いた。

「ありがとうございます。それでは駿府城へ参りましょう」
「歓待するって雰囲気にはなりそうにないな」
「我が主君はあなたを気に入っていますから、悪くはなさらないでしょう」


◆◇◆◇


 駿府城、謁見の間。
 江戸城より規模は劣るが、内装はさほど変わらないほど奢侈で豪華だった。
 雷次郎は胡坐をかいているが、雪秀たちは正座をしていた。

「……浪人たちに囲まれていた女の人を見つけたら、どうして殿様の御前にいるのか、まったく理解できないんだけど」

 頭痛がするのか、光が頭を抱える。
 雷次郎は欠伸をしつつ「こればかりは俺も同じ気持ちだよ、光」と応じた。

「まさか、あの子供が徳川家の嫡男とは思いませんでしたね」
「なんだ雪秀。一部始終見ていたのか」
「ええまあ。雷次郎様に読唇術習いましたから。事情は分かっております」

 得意そうな顔をしていた雪秀だったが、凜の「私の話を真面目に聞いてなかったんですね……」という地獄の底から響くような声で真顔になる。

「り、凜。待ってくれ! 誤解なんだ!」
「あれだけ言葉を尽くしたのに……!」
「おい。その話は後だ――来るぞ」

 雷次郎の言ったとおり、奥の間の襖が開き、上物の着物を着た、恰幅の良い太眉の殿様が現れた。
 四人は頭を下げる。上座についた男は「面を上げよ」と言う。

「久しぶりだね、雷次郎殿。一年ぐらいかな?」
「ええ。久しぶりですね、信康様」

 にこにこと表情を緩ませる、東海道の大名、徳川家当主の信康。
 相変わらず気のいいおじさんみたいだなと雷次郎は思った。

「そこにいるのは、真柄雪秀だね。良き若者に育ったと見える」
「御高名な徳川様にそうおっしゃられると、嬉しく思います」
「そこの二人は知らないね。どなた?」

 少々緊張しながら「光と申します」と頭を下げる光。
 続いて礼儀正しく「凜と申します」と凜は言った。

「ふむ……そなたが光殿か。話は雨竜殿から聞いているよ」
「え? 雨竜殿とは……雨竜秀晴様ですか?」

 思わず訊ね返してしまった光。
 けれどすぐに無礼だと分かり「失礼しました!」と口元を押さえた。

「良いよ。直答を許す。しかし君は大変だねえ」
「……私の事情を、知っていらっしゃるのですか?」
「うん。きっと豊臣家もご承知なはずだよ。だから早く大坂に行きなさい」

 光はきりりと顔を引き締めて「かしこまりました」と頭を下げた。
 すると雷次郎が「ならなんで俺たちをここに引き留めるんですか?」と訊ねた。

「急いでいるって分かっているんでしょう?」
「その割には三島宿で大暴れしたらしいけど。まあいいや。実を言うと、雷次郎殿に頼みたいことがあるんだ」

 もう三島宿のこと知っているのかと雷次郎は思ったが、表情に出さずに「どんなことでしょう?」と言う。

「勝康のことだよ。結構、わがままに育ってしまってねえ」
「ええ。あまり好ましい性根とは言えませんね」
「はっきり嫌いだと言いなよ。まあ徳川家は代々、子供への愛情が薄かったから、そうならないようにと育てた結果がああなったんだ」
「信康様もはっきりと子育てに失敗したとおっしゃってください」

 この場にはもちろん、徳川家の武士が護衛のためにいる。
 雷次郎の言葉で全員が殺気立った。
 雪秀は思わず「言葉に気を付けてください」と注意する。

「いや、良いんだ。事実、失敗したのは確かだから。でも失敗したのは私であって、勝康自身は失敗していない。そう信じているんだ」

 信康は柔和な顔で周りの家臣たちの怒りを収めた。
 雷次郎は「それは分かります」と同意した。

「それで信康様。あなたは俺に何をしろと?」
「雷次郎殿に勝康を鍛え直してほしいんだ」

 これには雪秀と光、凜は驚愕した。
 雷次郎に嫡男、つまり後継者を預けると言っているのだ。

「俺は旅の途中です。まさか連れていけとでも?」
「うん。あの子も日の本知ったほうがいいと思ってね」
「…………」

 毒気のない、のん気な言葉に、流石の雷次郎も言葉を無くした。
 信康は「そういえば、君もわがままだったね」と矛先を変えた。

「そんな君を変えたのは誰だったっけ?」
「まあ、有楽斎様ですね。あの方がいなければ今の俺はありえない」
「同じことをしてほしい。君ならできるだろう?」
「……分かりました。いいでしょう」

 雪秀が言葉を挟む前に、雷次郎は了承した。
 信康は「ありがとう」と大名にしては軽すぎる礼を述べた。

「まあそんなに難しく考える必要はないよ。勝康に雷次郎殿の生きざまを見せてくれればいい」
「…………」
「君のおじいさんと同じようにね」

 その言葉に光はようやく疑問を覚えた。
 雷次郎のおじいさんって何者なの?
 それから一つに仮説に思い至る。
 もしかして、おじいさんがきっかけで、雷次郎は有名なのかしら?

 その仮説はある意味間違っていなかったが、正解ではなかった。
 あくまでも、信康は雷次郎という男を見込んで頼んだのだった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

大日本帝国、アラスカを購入して無双する

雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。 大日本帝国VS全世界、ここに開幕! ※架空の日本史・世界史です。 ※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。 ※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。

四代目 豊臣秀勝

克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。 読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。 史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。 秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。 小牧長久手で秀吉は勝てるのか? 朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか? 朝鮮征伐は行われるのか? 秀頼は生まれるのか。 秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜

岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!??? そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...