猿の内政官の孫 ~雷次郎伝説~

橋本洋一

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日向の道へ

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「ここに居れば一先ず安心だろう。浜松まで目の鼻の先だ。ゆっくり休める」
「…………」

 光と凜は山小屋に潜んでいた。
 火も点けずに暗闇の中で寄り添うように休む――いや、休んでいない。
 凜は辺りを警戒して立ち膝でいた。
 光は三角座りをして怯えていた。

「心配するな。周りを風魔衆に警戒させている。夜が明けたら浜松城へ向かい、若様と合流すれば――」
「雪秀は、無事なの!?」

 落ち着かせるために言ったが、余計に不安を煽ってしまったようだ。
 凜は「若様なら大丈夫だ」と光の背中を擦る。

「あのお方は強い。不愉快な雷次郎よりもな」
「雷次郎も、無事かしら……」
「…………」

 雷次郎の消息は不明だったため、凜は口を閉ざした。
 ただ背中を擦るのはやめない。
 光は母を思い出してほんの少しだけ安堵した。

「私の、せいよね……」

 顔を俯かせてますます縮こまる光。
 自責の念が強くなっていた。
 凜は「責任を感じることはない」と彼女にしては最大限の気遣いを見せた。

「私は任務で行なっている。若様も雷次郎も主命だ。命じた者が責任を持つことだ」
「……凜。私の事情のこと、詳しく知らないわよね?」

 光のか細い小声。
 凜は「ああ、そうだ」と頷いた。
 暗闇の中、外はびゅうびゅうと風だけが鳴っている。

「私の父は――奥州の大名、伊達政宗なの」
「…………」

 心を開いた――わけではないと凜は悟った。
 抱えるのが耐えきれなかったのだ。

「母は口に出せないほどの高貴な出の人。父が強引に奪って妻にした」
「……そうか」
「大きな屋敷の中で、ずっと閉じこもって暮らしていたの。外なんか出歩けなかった」

 ぽつりと語り出す光を、凜は遮らなかった。
 話したいのなら、話せばいいと思っていた。
 だから相槌だけ打つことにした。

「ある日、伊達家の家老――小十郎と名乗っていたわ――が屋敷にやってきて。雨竜家の当主に『百万石の陰謀』を話すように言ってきたの」
「百万石の陰謀?」
「うん。実は――」

 光は百万石の陰謀を語り出す。
 それらは般若の男が雷次郎に語った内容と変わりなかった。
 徐々に明らかになる企みを聞いて凜は顔を歪ませる。

「家老の人は伊達家が滅びるのを止めたいって言っていた。だから屋敷の者を連れて、雨竜家の当主、雨竜秀晴様に会いに行って、全て話してほしいと。そうすればなんとかなるって言っていたの」
「その小十郎なる男は、自身では動けなかったのか?」
「疑われているらしくて。それにいくら何でも、娘の私を殺したりしないって。だけどね、黒脛巾組……伊達家が抱える忍び集団は、私を殺そうとした」

 静かに、物静かに。
 光は涙を流し始めた。

 凜は忍びの頭領だ。
 その涙が演技か本物か分かる。
 だからこそ、凜は光に同情を覚えた。

「酷いよね……私の人生……実の父親に殺されそうになって。一緒にいてくれた屋敷の使用人たちは、私を守るために、殺されて……それで今、私を守ってくれた、雷次郎や雪秀は、生きているのか、どうか……分からない……」

 ぽろぽろ、ぽろぽろと、着物を濡らすほどの涙を流す光。
 凜は頬の雫を指で拭ってやる。

「そう、だな。普通よりだいぶ、悲惨だな」
「う、うう……」
「自分のために、誰かが死ぬ。それに耐えられる人間など、そうはいない」

 凜は不器用ながら光を慰めようとする。

「自分の人生が悲惨だと思う……それは淋しいことだ。あるいは悲しいことだ。そして未来もそうであると思い込むと、生きることすら、できなくなる。何もかも、嫌になる」

 光は泣きながら凜を見た。
 自分のために、言葉を選んでいる。
 忍びの頭領で、雪秀以外に関心を持たないと思われていた、あの凜が――

「だけど、影があるように、きっと日の当たる道はあるはずなんだ。眩いくらいの日向があるはずなんだ。忍びの私が言うのもおかしな話だけど……きっと、光なら歩めるさ。その道を」
「どうして……? だって、今まで……」
「不愉快だけど、雷次郎がいるからだ」

 凜はそこで実に嫌そうな顔をした。
 あの男に頼るのは心底嫌だと言わんばかりだった。

「あの雷次郎は、若様を救ってくれた。触れれば傷つけるような、狂犬のような若様を、まともにしてくれた。それだけは感謝している。不愉快なことには変わりないけど」
「凜さん……」
「私はきっと、光を救うことはできない。私も影の道を歩いてきたから。でも、あの雷次郎なら……おそらく道を示してくれるだろう。もしくは明るい道まで案内してくれるかもしれない」

 凜は光の手を取った。

「私が雷次郎までの道を先導してやる。もちろん、そのまま立ち止まってもいい。だけど、光の望むなら――同じ歩幅で歩んであげる」

 光は思いがけない凜の優しい言葉に心を打たれた。
 優しくて力強い言葉に感謝した。
 だから泣きながら、光は言う。

「うん。ありがとう――凜さん」


◆◇◆◇


 夜が明けてすぐに、雷次郎たちは宿屋を出た。
 一刻も早く浜松へ向かうためだ。

「ふわああ。せやけど、こないに早う出る必要あるか?」
「勘だな。早いほうがいいって言う」
「雷次郎くんの勘はよく当たるからなあ」

 先ほどから欠伸を連発する霧政。
 勝康は油断してていいのかなと思った。

 それと勝康は不思議に思っていることがあった。
 二人は猿の内政官――雨竜雲之介秀昭のことを話さないのだ。
 偉大な祖父のことぐらい、話してもいいはずなのに。

 唯一出たのは霧政の母、かすみの話題だった。
 最近、ますます口うるさくなったと霧政が辟易していた。
 雷次郎の母、なつさんが羨ましいと霧政は言っていた。雷次郎は母のことを『俺が何をしでかしても文句を言わないが、褒めることを滅多に言わない』と愚痴っていた。すかさず、霧政が褒めることをしとらんやないかと言う。

 勝康はなんとなく、雲之介について二人に聞いてはいけないと感じていた。
 雷次郎のほうはなんとなく許してくれそうだけど、霧政は嫌がるだろう。
 徳川家の次期当主として身に着けた、あるいは徳川家代々の嗅覚で感じ取れていたのだ。

「なあ、勝康。浜松まで着いたら、お前さんはどうする?」
「どうする……とはどういうことですか?」

 街道を歩いている途中だった。
 往来する旅人はちらほらいる。
 雷次郎は真後ろを振り返って訊ねた。
 急に話を振られたので戸惑った勝康。
 雷次郎は「決まっているだろ」と続けた。

「俺が面倒を見るのはそこまでだ。お前さんの旅はそこでおしまい。だからどうすると聞いている」

 勝康は「まだ、父上が望んだようにはなっていません」と自分の未熟さを答えた。
 雷次郎は「自分が分かっているじゃないか」と誉めているのか分からないことを言う。

「だがこれ以上、一緒にいても危険なことばかりだ」
「足手まとい、ですよね」
「この旅が終わったら、お前さんのところを――」

 そのとき、一番早く反応したのは霧政だった。
 素早く「雷次郎くん!」と呼びかけた。
 次に反応したのは雷次郎だった。
 しかし雷次郎は避けられなかった。
 何故なら、避けたら後ろにいる勝康に当たるからだ。

 すぶりと音がした。
 よろよろとたたらを踏む――

「ら、雷次郎、殿……?」

 衝撃を受ける勝康。
 雷次郎はどたんと仰向けに倒れた。
 わき腹に矢が刺さっている。

「……ちくしょう!」

 周りの旅人が逃げ惑う中、霧政は二槍を取って矢が射られたと思われる場所へ走る。
 一人残された勝康――はっとして雷次郎の傍に寄る。
 雷次郎は口から血を流していた。
 顔も真っ青になっている。

「う、嘘ですよね――雷次郎殿ぉ!」

 必死の呼びかけにも関わらず。
 雷次郎は返事をしなかった――
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