夜のカフェテラス

KAORUwithAI

文字の大きさ
1 / 10

第1話 視線だけが残った

しおりを挟む
 その夜、私は理由もなく、一人になりたかった。

 仕事が特別に大変だったわけでもない。誰かと揉めたわけでもない。ただ、胸の奥に溜まった言葉にならない感情が、静かな場所を欲していた。家に帰るには早すぎて、誰かに会うほどの元気もない。そんな中途半端な気持ちのまま、夜の街を歩いていた。

 ネオンが連なる通りを外れ、少し暗い路地へ入ったとき、小さな灯りが目に留まった。

(……カフェ?)

 控えめな看板。木製の扉。
 派手さはないのに、不思議と足が止まる。

 ガラス越しに見える店内は、柔らかなオレンジ色の光に包まれていた。テーブルはほぼ埋まっていて、楽しげな声と静かな笑い声が混ざり合っている。

(悪くない……)

 気づけば、扉を押していた。

 カラン、と小さなベルの音。
 コーヒーの香りが、ふわりと広がる。

「いらっしゃいませ」

「一人です」

 そう告げると、店員は少し困ったように店内を見回した。

「申し訳ありません、店内は満席でして……」

 やっぱり、と思いながら頷く。

(今日は、ついてないかな)

「テラス席でしたら、空いていますが……夜なので少し冷えます」

 テラス席。

 一瞬迷った。
 夜風は冷たいし、外で一人というのは少し勇気がいる。

 でも——。

(今は、むしろ静かな方がいい)

「……大丈夫です。お願いします」

 案内され、扉の外へ出る。

 思っていたよりも、テラスは落ち着いた空間だった。
 控えめな街灯。木製のテーブルと椅子。遠くを走る車の音が、かすかに聞こえるだけ。

 席に案内され、椅子を引いた瞬間——気づいてしまった。

 テラス席の一番端。
 そこに、一人の男性が座っていた。

(……あ)

 思わず、心臓が小さく跳ねる。

 彼は本を開き、静かにページをめくっている。
 ラフな服装なのに、どこか整って見える。背筋が自然に伸びていて、動作が静かだ。

(読書、似合う人っているんだ)

 自分でも驚くほど、視線が引き寄せられる。

(見ちゃだめ……)

 そう思うのに、意識しない方が難しかった。

 席に座り、メニューを開く。
 けれど、文字が頭に入ってこない。

(意識しすぎ)

 自分に言い聞かせながら、カフェラテを注文する。

 彼は、こちらを見ない。
 ……見ないけれど、存在感だけが確かにそこにある。

(同じ空間にいるだけなのに)

 静かに流れる時間。
 ページをめくる音。
 夜風が、頬をなぞる。

 カフェラテが運ばれてくる。

「お待たせしました」

 その瞬間、彼が顔を上げた。

 ——目が合う。

 一瞬。
 ほんの一瞬なのに、胸がざわつく。

(あ……)

 彼は驚いたように瞬きをしてから、ふっと微笑った。

「寒くないですか?」

 低くて、落ち着いた声。

(声……思ってたより優しい)

「あ、大丈夫です」

 短く、そう答える。

 それ以上、言葉は続かない。

 彼は軽く頷き、また本へ視線を戻した。

(それだけ……?)

 会話は、たったそれだけ。
 名前も知らない。
 何も、始まっていない。

 なのに。

(なんで、こんなに気になるんだろう)

 カフェラテを一口飲む。
 温かさが、指先から広がる。

 夜の空気と、コーヒーの香り。
 そして、数メートル先にいる男性の存在。

(不思議)

 何も起きていないのに、心が落ち着かない。

 彼は静かに本を読み続けている。
 私は視線を落としながらも、無意識に彼の気配を感じていた。

(この時間、嫌じゃない)

 むしろ、少し名残惜しい。

 しばらくして、彼が本を閉じた。

(帰るんだ)

 なぜか、胸の奥がきゅっとする。

 彼は立ち上がり、会計を済ませる。
 こちらを見ない。
 声もかけない。

 ただ、そのまま夜の街へと消えていった。

 テラス席には、夜風だけが残る。

(……行っちゃった)

 カフェラテは、少し冷めていた。

 でも、心の奥には、確かに何かが残っている。

(言葉を交わさなくても)

(こんな夜が、あるんだ)

 名前も知らない。
 もう二度と会わないかもしれない。

 それでも。

(今日、このカフェに来てよかった)

 理由は分からないまま、私は静かに席を立った。

 夜のカフェテラスは、何事もなかったように、また静寂に包まれていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

お姫様は死に、魔女様は目覚めた

悠十
恋愛
 とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。  しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。  そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして…… 「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」  姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。 「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」  魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……

一夜の男

詩織
恋愛
ドラマとかの出来事かと思ってた。 まさか自分にもこんなことが起きるとは... そして相手の顔を見ることなく逃げたので、知ってる人かも全く知らない人かもわからない。

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

氷のメイドが辞職を伝えたらご主人様が何度も一緒にお出かけするようになりました

まさかの
恋愛
「結婚しようかと思います」 あまり表情に出ない氷のメイドとして噂されるサラサの一言が家族団欒としていた空気をぶち壊した。 ただそれは田舎に戻って結婚相手を探すというだけのことだった。 それに安心した伯爵の奥様が伯爵家の一人息子のオックスが成人するまでの一年間は残ってほしいという頼みを受け、いつものようにオックスのお世話をするサラサ。 するとどうしてかオックスは真面目に勉強を始め、社会勉強と評してサラサと一緒に何度もお出かけをするようになった。 好みの宝石を聞かれたり、ドレスを着せられたり、さらには何度も自分の好きな料理を食べさせてもらったりしながらも、あくまでも社会勉強と言い続けるオックス。 二人の甘酸っぱい日々と夫婦になるまでの物語。

処理中です...