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第1話 視線だけが残った
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その夜、私は理由もなく、一人になりたかった。
仕事が特別に大変だったわけでもない。誰かと揉めたわけでもない。ただ、胸の奥に溜まった言葉にならない感情が、静かな場所を欲していた。家に帰るには早すぎて、誰かに会うほどの元気もない。そんな中途半端な気持ちのまま、夜の街を歩いていた。
ネオンが連なる通りを外れ、少し暗い路地へ入ったとき、小さな灯りが目に留まった。
(……カフェ?)
控えめな看板。木製の扉。
派手さはないのに、不思議と足が止まる。
ガラス越しに見える店内は、柔らかなオレンジ色の光に包まれていた。テーブルはほぼ埋まっていて、楽しげな声と静かな笑い声が混ざり合っている。
(悪くない……)
気づけば、扉を押していた。
カラン、と小さなベルの音。
コーヒーの香りが、ふわりと広がる。
「いらっしゃいませ」
「一人です」
そう告げると、店員は少し困ったように店内を見回した。
「申し訳ありません、店内は満席でして……」
やっぱり、と思いながら頷く。
(今日は、ついてないかな)
「テラス席でしたら、空いていますが……夜なので少し冷えます」
テラス席。
一瞬迷った。
夜風は冷たいし、外で一人というのは少し勇気がいる。
でも——。
(今は、むしろ静かな方がいい)
「……大丈夫です。お願いします」
案内され、扉の外へ出る。
思っていたよりも、テラスは落ち着いた空間だった。
控えめな街灯。木製のテーブルと椅子。遠くを走る車の音が、かすかに聞こえるだけ。
席に案内され、椅子を引いた瞬間——気づいてしまった。
テラス席の一番端。
そこに、一人の男性が座っていた。
(……あ)
思わず、心臓が小さく跳ねる。
彼は本を開き、静かにページをめくっている。
ラフな服装なのに、どこか整って見える。背筋が自然に伸びていて、動作が静かだ。
(読書、似合う人っているんだ)
自分でも驚くほど、視線が引き寄せられる。
(見ちゃだめ……)
そう思うのに、意識しない方が難しかった。
席に座り、メニューを開く。
けれど、文字が頭に入ってこない。
(意識しすぎ)
自分に言い聞かせながら、カフェラテを注文する。
彼は、こちらを見ない。
……見ないけれど、存在感だけが確かにそこにある。
(同じ空間にいるだけなのに)
静かに流れる時間。
ページをめくる音。
夜風が、頬をなぞる。
カフェラテが運ばれてくる。
「お待たせしました」
その瞬間、彼が顔を上げた。
——目が合う。
一瞬。
ほんの一瞬なのに、胸がざわつく。
(あ……)
彼は驚いたように瞬きをしてから、ふっと微笑った。
「寒くないですか?」
低くて、落ち着いた声。
(声……思ってたより優しい)
「あ、大丈夫です」
短く、そう答える。
それ以上、言葉は続かない。
彼は軽く頷き、また本へ視線を戻した。
(それだけ……?)
会話は、たったそれだけ。
名前も知らない。
何も、始まっていない。
なのに。
(なんで、こんなに気になるんだろう)
カフェラテを一口飲む。
温かさが、指先から広がる。
夜の空気と、コーヒーの香り。
そして、数メートル先にいる男性の存在。
(不思議)
何も起きていないのに、心が落ち着かない。
彼は静かに本を読み続けている。
私は視線を落としながらも、無意識に彼の気配を感じていた。
(この時間、嫌じゃない)
むしろ、少し名残惜しい。
しばらくして、彼が本を閉じた。
(帰るんだ)
なぜか、胸の奥がきゅっとする。
彼は立ち上がり、会計を済ませる。
こちらを見ない。
声もかけない。
ただ、そのまま夜の街へと消えていった。
テラス席には、夜風だけが残る。
(……行っちゃった)
カフェラテは、少し冷めていた。
でも、心の奥には、確かに何かが残っている。
(言葉を交わさなくても)
(こんな夜が、あるんだ)
名前も知らない。
もう二度と会わないかもしれない。
それでも。
(今日、このカフェに来てよかった)
理由は分からないまま、私は静かに席を立った。
夜のカフェテラスは、何事もなかったように、また静寂に包まれていた。
仕事が特別に大変だったわけでもない。誰かと揉めたわけでもない。ただ、胸の奥に溜まった言葉にならない感情が、静かな場所を欲していた。家に帰るには早すぎて、誰かに会うほどの元気もない。そんな中途半端な気持ちのまま、夜の街を歩いていた。
ネオンが連なる通りを外れ、少し暗い路地へ入ったとき、小さな灯りが目に留まった。
(……カフェ?)
控えめな看板。木製の扉。
派手さはないのに、不思議と足が止まる。
ガラス越しに見える店内は、柔らかなオレンジ色の光に包まれていた。テーブルはほぼ埋まっていて、楽しげな声と静かな笑い声が混ざり合っている。
(悪くない……)
気づけば、扉を押していた。
カラン、と小さなベルの音。
コーヒーの香りが、ふわりと広がる。
「いらっしゃいませ」
「一人です」
そう告げると、店員は少し困ったように店内を見回した。
「申し訳ありません、店内は満席でして……」
やっぱり、と思いながら頷く。
(今日は、ついてないかな)
「テラス席でしたら、空いていますが……夜なので少し冷えます」
テラス席。
一瞬迷った。
夜風は冷たいし、外で一人というのは少し勇気がいる。
でも——。
(今は、むしろ静かな方がいい)
「……大丈夫です。お願いします」
案内され、扉の外へ出る。
思っていたよりも、テラスは落ち着いた空間だった。
控えめな街灯。木製のテーブルと椅子。遠くを走る車の音が、かすかに聞こえるだけ。
席に案内され、椅子を引いた瞬間——気づいてしまった。
テラス席の一番端。
そこに、一人の男性が座っていた。
(……あ)
思わず、心臓が小さく跳ねる。
彼は本を開き、静かにページをめくっている。
ラフな服装なのに、どこか整って見える。背筋が自然に伸びていて、動作が静かだ。
(読書、似合う人っているんだ)
自分でも驚くほど、視線が引き寄せられる。
(見ちゃだめ……)
そう思うのに、意識しない方が難しかった。
席に座り、メニューを開く。
けれど、文字が頭に入ってこない。
(意識しすぎ)
自分に言い聞かせながら、カフェラテを注文する。
彼は、こちらを見ない。
……見ないけれど、存在感だけが確かにそこにある。
(同じ空間にいるだけなのに)
静かに流れる時間。
ページをめくる音。
夜風が、頬をなぞる。
カフェラテが運ばれてくる。
「お待たせしました」
その瞬間、彼が顔を上げた。
——目が合う。
一瞬。
ほんの一瞬なのに、胸がざわつく。
(あ……)
彼は驚いたように瞬きをしてから、ふっと微笑った。
「寒くないですか?」
低くて、落ち着いた声。
(声……思ってたより優しい)
「あ、大丈夫です」
短く、そう答える。
それ以上、言葉は続かない。
彼は軽く頷き、また本へ視線を戻した。
(それだけ……?)
会話は、たったそれだけ。
名前も知らない。
何も、始まっていない。
なのに。
(なんで、こんなに気になるんだろう)
カフェラテを一口飲む。
温かさが、指先から広がる。
夜の空気と、コーヒーの香り。
そして、数メートル先にいる男性の存在。
(不思議)
何も起きていないのに、心が落ち着かない。
彼は静かに本を読み続けている。
私は視線を落としながらも、無意識に彼の気配を感じていた。
(この時間、嫌じゃない)
むしろ、少し名残惜しい。
しばらくして、彼が本を閉じた。
(帰るんだ)
なぜか、胸の奥がきゅっとする。
彼は立ち上がり、会計を済ませる。
こちらを見ない。
声もかけない。
ただ、そのまま夜の街へと消えていった。
テラス席には、夜風だけが残る。
(……行っちゃった)
カフェラテは、少し冷めていた。
でも、心の奥には、確かに何かが残っている。
(言葉を交わさなくても)
(こんな夜が、あるんだ)
名前も知らない。
もう二度と会わないかもしれない。
それでも。
(今日、このカフェに来てよかった)
理由は分からないまま、私は静かに席を立った。
夜のカフェテラスは、何事もなかったように、また静寂に包まれていた。
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