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第2部:壁 - 国会という名の怪物
第60話 初めての質問主意書
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朝の執務室はまだ冷えていた。カーテンの隙間から射し込む冬の朝の光が机の上の資料を鈍く照らし、積み重なった国会資料の紙の匂いが鼻をかすめる。
健人はコーヒーをすすりながら、新聞の政治面をめくった。見出しは連日、与党と野党の攻防や派閥争いで埋め尽くされ、市民生活に直結する話題は紙面の隅に小さく載っているだけだった。
(委員会で何度も手を挙げても、指されることは少ない。答弁があっても、結局は形だけで終わる。声を届けるには別の手段がいる……)
そんな思いを抱きながら新聞をたたむと、机の上には昨日真田が置いた分厚い国会法の解説書があった。開いてはみたものの、専門用語だらけで数ページも読めずに閉じてしまった本だ。健人はため息をつきながら、その背表紙に指をなぞった。
その時、ドアが開き、真田が分厚いファイルを抱えて入ってきた。
「おはようございます。坂本さん」
「おはよう。なんだ、そのファイルは」
真田は机の上にファイルを置き、笑みを浮かべた。
「昨日の本会議、よく踏ん張られました。でも――次は紙で勝負しましょう」
「紙で?」
健人は眉をひそめた。
「“質問主意書”です」
真田は淡々と告げた。
「国会法に基づく正式な手段です。口頭で発言する質疑と違い、書面で政府に答弁を求めます。提出されたら内閣は答えなければなりません。質疑の順番を待つ必要もありませんし、発言を無視されることもない」
「質問主意書……」
初めて聞く言葉に、健人は息を呑んだ。
「ただし、書式や提出のタイミングが重要です。閣議決定前に出さないと答弁が会期中に間に合わないこともあります」
真田はカレンダーを指差した。次の閣議決定まで一週間しかない。
コーヒーを持っていた田島が「便利な手があるならもっと早く教えてくれよ」と軽口を叩いたが、真田は肩をすくめた。
「制度自体は誰でも知っています。でも新人が使いこなすのは難しいんです。ベテランですら乱雑な書き方をして受理されないことがありますから」
(書面なら、声を遮られずに問いを届けられる……これなら――)
健人は少し前のめりになった。だが、次の瞬間、頭を抱える。
「何を聞くかが問題だな。委員会で取り上げた地域医療の件もあるし、光熱費の負担増もある。でも全部は盛り込めない」
田島がスマホを手にして近づいた。
「坂本、お前のSNSに届いてる声を見てみろよ。たとえば――」
スマホの画面をスクロールすると、いくつもの切実な声が並んでいた。
――“うちの町は医療費が高くて、子どもを病院に連れて行くのもためらいます”
――“物価が上がって、冬の暖房代が家計を圧迫しています”
文字を追ううちに、健人は投稿の向こうにいる人々の顔が浮かんでくる気がした。
(これだ……政治用語じゃなく、市民の言葉そのものを政府に問いかければいい)
その日の午後、真田が図書室から過去の質問主意書の束を抱えてきた。
何十枚もの用紙にはびっしりと法律用語と条文引用が並び、まるで法廷文書のようだった。
「これが普通の質問主意書です。厳密に“政府の見解を問う”という形にしなければなりません」
「……これじゃあ市民の声が霞んでしまう」
健人は思わずつぶやいた。
「だからこそ、坂本さんの視点が必要です。法的な形式は守りつつも、市民の実感をにじませる。それが無所属議員の強みです」
健人は夜遅くまで机に向かった。
ペンを持つ手が何度も止まり、ため息が漏れる。
何を書けばよいのか悩み、書いては消し、消してはまた書く。
深夜、執務室の蛍光灯が疲れたようにうなだれて見える頃、ようやく一つの質問の形が出来上がった。
――前文:生活困窮世帯の冬期光熱費負担の軽減策について
――質問事項:政府は現行制度における冬季の家庭光熱費負担増についてどのような認識を持ち、具体的な支援策を講じる予定があるか。
紙の上に書かれた二枚の文章を見つめ、健人は静かに息を吐いた。
「これが、国にぶつける最初の声だ……」
翌朝、真田が赤ペンを片手に原稿をチェックし始めた。
「ここは“何割”ではなく、統計の数字を明記した方が答弁が具体的になりますね」
「ここは“方針”より“施策”がいいでしょう」
健人は、自分の素朴な言葉が少しずつ制度の枠に適合していく過程を眺めながら、紙の上で政治を動かす難しさを噛みしめた。
昼過ぎ、二人で書記官室を訪れた。
廊下には同じように質問主意書を持った秘書たちが行き交い、コピー用紙の擦れる音が絶えなかった。
窓口の前に立ち、健人は書類を差し出す手がわずかに震えた。
書記官は事務的に受け取り、「受理しました」と淡々と告げる。
それだけのことだった。
けれど、健人は自分の胸の奥にじんわりと温かいものが広がるのを感じた。
紙一枚を通じて、自分は初めて“国を問いただす一歩”を踏み出したのだ。
執務室に戻ると、田島がニヤリと笑って肩を叩いた。
「お疲れさん。たかが紙一枚、されど紙一枚だな。これで国を動かせたら痛快だぜ」
窓の外には、冬の曇天を背景に国会議事堂の白い塔がそびえていた。
健人は胸元のバッジを指先で押さえ、心の中で静かに呟いた。
(声は叫ぶだけじゃ届かない。記録に残し、紙に刻んでこそ、国を動かす力になる)
その夜、机の端に置いたノートに健人は太い字で書き込んだ。
――「紙に市民の声を刻み続ける」
ペンを置いた時、ひとつの覚悟が胸の底にしっかりと根を下ろしていた。
“声は、ただ叫ぶだけでは届かない。
紙に刻み、記録として残し、未来にまで届けてこそ――
その声は国を動かす力になる。”
健人はコーヒーをすすりながら、新聞の政治面をめくった。見出しは連日、与党と野党の攻防や派閥争いで埋め尽くされ、市民生活に直結する話題は紙面の隅に小さく載っているだけだった。
(委員会で何度も手を挙げても、指されることは少ない。答弁があっても、結局は形だけで終わる。声を届けるには別の手段がいる……)
そんな思いを抱きながら新聞をたたむと、机の上には昨日真田が置いた分厚い国会法の解説書があった。開いてはみたものの、専門用語だらけで数ページも読めずに閉じてしまった本だ。健人はため息をつきながら、その背表紙に指をなぞった。
その時、ドアが開き、真田が分厚いファイルを抱えて入ってきた。
「おはようございます。坂本さん」
「おはよう。なんだ、そのファイルは」
真田は机の上にファイルを置き、笑みを浮かべた。
「昨日の本会議、よく踏ん張られました。でも――次は紙で勝負しましょう」
「紙で?」
健人は眉をひそめた。
「“質問主意書”です」
真田は淡々と告げた。
「国会法に基づく正式な手段です。口頭で発言する質疑と違い、書面で政府に答弁を求めます。提出されたら内閣は答えなければなりません。質疑の順番を待つ必要もありませんし、発言を無視されることもない」
「質問主意書……」
初めて聞く言葉に、健人は息を呑んだ。
「ただし、書式や提出のタイミングが重要です。閣議決定前に出さないと答弁が会期中に間に合わないこともあります」
真田はカレンダーを指差した。次の閣議決定まで一週間しかない。
コーヒーを持っていた田島が「便利な手があるならもっと早く教えてくれよ」と軽口を叩いたが、真田は肩をすくめた。
「制度自体は誰でも知っています。でも新人が使いこなすのは難しいんです。ベテランですら乱雑な書き方をして受理されないことがありますから」
(書面なら、声を遮られずに問いを届けられる……これなら――)
健人は少し前のめりになった。だが、次の瞬間、頭を抱える。
「何を聞くかが問題だな。委員会で取り上げた地域医療の件もあるし、光熱費の負担増もある。でも全部は盛り込めない」
田島がスマホを手にして近づいた。
「坂本、お前のSNSに届いてる声を見てみろよ。たとえば――」
スマホの画面をスクロールすると、いくつもの切実な声が並んでいた。
――“うちの町は医療費が高くて、子どもを病院に連れて行くのもためらいます”
――“物価が上がって、冬の暖房代が家計を圧迫しています”
文字を追ううちに、健人は投稿の向こうにいる人々の顔が浮かんでくる気がした。
(これだ……政治用語じゃなく、市民の言葉そのものを政府に問いかければいい)
その日の午後、真田が図書室から過去の質問主意書の束を抱えてきた。
何十枚もの用紙にはびっしりと法律用語と条文引用が並び、まるで法廷文書のようだった。
「これが普通の質問主意書です。厳密に“政府の見解を問う”という形にしなければなりません」
「……これじゃあ市民の声が霞んでしまう」
健人は思わずつぶやいた。
「だからこそ、坂本さんの視点が必要です。法的な形式は守りつつも、市民の実感をにじませる。それが無所属議員の強みです」
健人は夜遅くまで机に向かった。
ペンを持つ手が何度も止まり、ため息が漏れる。
何を書けばよいのか悩み、書いては消し、消してはまた書く。
深夜、執務室の蛍光灯が疲れたようにうなだれて見える頃、ようやく一つの質問の形が出来上がった。
――前文:生活困窮世帯の冬期光熱費負担の軽減策について
――質問事項:政府は現行制度における冬季の家庭光熱費負担増についてどのような認識を持ち、具体的な支援策を講じる予定があるか。
紙の上に書かれた二枚の文章を見つめ、健人は静かに息を吐いた。
「これが、国にぶつける最初の声だ……」
翌朝、真田が赤ペンを片手に原稿をチェックし始めた。
「ここは“何割”ではなく、統計の数字を明記した方が答弁が具体的になりますね」
「ここは“方針”より“施策”がいいでしょう」
健人は、自分の素朴な言葉が少しずつ制度の枠に適合していく過程を眺めながら、紙の上で政治を動かす難しさを噛みしめた。
昼過ぎ、二人で書記官室を訪れた。
廊下には同じように質問主意書を持った秘書たちが行き交い、コピー用紙の擦れる音が絶えなかった。
窓口の前に立ち、健人は書類を差し出す手がわずかに震えた。
書記官は事務的に受け取り、「受理しました」と淡々と告げる。
それだけのことだった。
けれど、健人は自分の胸の奥にじんわりと温かいものが広がるのを感じた。
紙一枚を通じて、自分は初めて“国を問いただす一歩”を踏み出したのだ。
執務室に戻ると、田島がニヤリと笑って肩を叩いた。
「お疲れさん。たかが紙一枚、されど紙一枚だな。これで国を動かせたら痛快だぜ」
窓の外には、冬の曇天を背景に国会議事堂の白い塔がそびえていた。
健人は胸元のバッジを指先で押さえ、心の中で静かに呟いた。
(声は叫ぶだけじゃ届かない。記録に残し、紙に刻んでこそ、国を動かす力になる)
その夜、机の端に置いたノートに健人は太い字で書き込んだ。
――「紙に市民の声を刻み続ける」
ペンを置いた時、ひとつの覚悟が胸の底にしっかりと根を下ろしていた。
“声は、ただ叫ぶだけでは届かない。
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その声は国を動かす力になる。”
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