『総理になった男』

KAORUwithAI

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第2部:壁 - 国会という名の怪物

第99話 断った理由

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夜が明ける少し前、議員会館の窓から見える空は群青色に染まっていた。
 東京の街はまだ眠っている。だが、坂本健人の目には眠気の影もなかった。
 机の上には山のように積まれた資料と、開きっぱなしのノート。
 ページの端には、かすれた字でこう書かれている。
 ――「誰のために政治をするかを見失うな。」

 与党・国民革新党から正式にスカウトを受けてから、一週間が過ぎていた。
 記者たちは「ついに決断か」と騒ぎ、廊下ですれ違う議員たちは皮肉まじりの笑みを向けた。
 “無所属の星”などと呼ばれたのも今は昔。
 今やその光に群がる影のような言葉が、絶えず耳元でささやいてくる。

 ――「入れよ、与党に。」
 ――「お前がいれば、もっと国会が動く。」
 ――「理想だけじゃ、国は変えられない。」

 健人は目を閉じ、深く息を吸った。
 今なら、その誘いを受け入れるだけで多くの扉が開くだろう。
 法案も通る。人脈も増える。記者会見でも好意的に扱われる。
 それでも――。
 心のどこかが「違う」と叫んでいた。

 朝日が差し込む窓際で、健人はジャケットを羽織り、ネクタイを締め直した。
 鏡に映る自分の顔は、どこか険しかった。
 背後から田島が声をかけた。
 「健人、本当に行くのか?」
 健人はうなずく。「行くよ。今日、返事をする」
 「……断るのか?」
 「そうだ。けど、断るってのは“逃げる”ことじゃない。立つってことだ」

 真田は黙ってメガネを押し上げ、書類を整えた。
 「覚悟はできてるんですね」
 「覚悟は、もうあの選挙の夜にできてたよ」
 健人は少しだけ笑った。
 その笑みの裏には、長い孤独と迷いが滲んでいた。


 午前十時。
 国民革新党・幹事長室。
 重厚な扉の前で立ち止まり、健人は深呼吸をした。
 ノックを二度。中から「入って」と低い声。

 扉を開けると、城戸幹事長がソファに座って紅茶を飲んでいた。
 年齢は五十代後半、政界屈指の実力者。
 その視線は柔らかいのに、どこか底知れない鋭さを帯びている。

 「よく来てくれたね、坂本くん。さて、考えてくれたかな?」
 城戸は微笑みながら紅茶をカップに戻した。
 健人は一礼し、正面の椅子に座る。

 少しの沈黙。
 空気が張りつめる。

 「……お話をいただき、感謝しております」
 健人はゆっくり言葉を選んだ。
 「しかし――今回のお誘いは、お断りいたします。」

 その瞬間、部屋の温度が数度下がったように感じた。
 城戸の表情がわずかに曇り、目の奥が光る。
 「理由を聞こうか。理想か?意地か? それとも……若さか?」

 健人はまっすぐにその目を見返した。
 「僕は、政治を始めた時から決めていました。
  誰の命令でもなく、市民の声で動く政治をする。
  党の都合や数の論理じゃなく、人の暮らしを軸にした政治をやるって。
  それを捨てたら、僕がここにいる意味がなくなります。」

 しばらくの沈黙のあと、城戸が低く笑った。
 「綺麗事だ。だが、嫌いじゃない。
  ただ、覚えておきなさい。理想は力がなければ届かない。
  孤独は、やがて力を削ぐ。
  君の覚悟がどこまで続くか、見せてもらおう。」

 「見せます。いつか、理想が現実を動かす日まで。」
 健人は深く頭を下げた。
 その声には、恐れよりも静かな決意があった。

 扉を閉めると、廊下の空気が一気に軽くなったように感じた。
 背後から城戸の声が響く。
 「理想はいつか折られる。それでも立っていられるなら、本物だ。」

 健人は立ち止まり、振り返らずに呟いた。
 「折れませんよ。誰のために立っているのか、忘れていませんから。」


 会館の外は秋晴れだった。
 澄んだ風が頬を撫で、健人はようやく息を吐いた。
 重かった胸の奥が、少しだけ軽くなっている。
 「……これでいい」
 自分に言い聞かせるように呟きながら、議員会館へ戻る。

 昼過ぎ、控室で真田と田島が待っていた。
 「どうでした?」真田が問う。
 健人は短く答えた。「断った」
 田島は一瞬固まった後、「マジか!」と
叫んだ。
 「与党入りしたら、法案も通しやすくなるのに!」
 「通すだけが政治じゃない」健人は静かに笑った。
 「通す“理由”が大事なんだよ。」

 真田は穏やかにうなずく。
 「それがあなたの答えですね」
 「そうだ。俺のやり方は遠回りかもしれない。でも、その遠回りを選ぶ人間がいなきゃ、政治は変わらない」


 午後、事務所の電話が鳴った。
 地元の後援者からだった。
 「ニュースで見ましたよ、先生。断ったんですね。すごい決断です」
 「ありがとうございます。正しいと思える方を選びました」
 その言葉を口にした瞬間、自分の中で何かが晴れていくのを感じた。

 電話を切ると、窓の外には淡い夕陽が差し込んでいた。
 赤く染まる空が、まるで「それでいい」と語りかけてくるようだった。

 だが、世間の反応は冷たくも熱くもあった。
 SNSでは賛否が入り混じる。
 「理想主義すぎる」「筋が通ってる」「チャンスを逃した」――
 どの言葉にも、健人は反応しなかった。
 ただノートを開き、静かにペンを走らせた。

 ページの隅に、父の言葉を思い出して書く。
 “正しいことを選ぶのは簡単じゃない。でも、間違ったことを選ばないのは、もっと難しい。”
 あの選挙前夜に聞いた父の声が、今になって深く染みてくる。


 夜、議員会館の屋上に出る。
 風が冷たい。
 国会議事堂のライトアップが遠くに輝いている。
 それは巨大で、どこか怪物のようでもあった。

 健人はその光を見つめながら呟く。
 「力を持たなくても、声を上げ続ける。それが俺のやり方だ」

 その背後で、田島が缶コーヒーを差し出した。
 「……健人、正直俺は怖いよ。こんな国会で、敵ばっか増やして」
 「怖いのは普通だ。でも、怖いからって立ち止まったら、それこそ終わりだ」
 健人は笑い、缶を受け取った。
 「一人でも進む。それが政治家の覚悟だろ」
 田島はしばらく黙り、ぽつりと言った。
 「……健人カッコいいな」
 「バカ言うな」健人は照れくさそうに笑った。


 深夜、誰もいない事務所。
 机の上にノートを広げ、健人は最後の一文を書き込む。

 ――「権力に背を向けた日、俺は本当の政治家になれた気がする。」

 ペンを置き、窓の外を見上げた。
 国会の灯が遠くで瞬いている。
 その光は手に届かないほど遠い。
 それでも、確かにそこにあった。

 健人は胸のバッジに手を当て、静かに目を閉じる。
 心の中に、確かな声が響いた。

 ――これでいい。



“力を得ることよりも、
信頼を失わないことの方が難しい。
だが、それを貫けたとき――
政治はようやく人の道になる。”
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