侯爵令嬢ソフィアの結婚

今野綾

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もう一人の男

もう一人の男4

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 突然の命令に驚いたが、ヴィンセントがソフィアの口元にクッキーを移動させたので、ソフィアは従った。口に入れられたクッキーは甘く、よく出来ていた。半分かじって噛み砕いていたら、残りのクッキーをヴィンセントも自分の口に入れて噛み砕く。不思議な緊張感が漂い始めていた。

「ソフィアの作ったクッキーは君のものだが、私のものでもある」

 口の中のクッキーがなくなるとヴィンセントはそんな事を言い、横を向いてソフィアの瞳をグリーンアイで真っ直ぐに射る。

「婚姻状態にあるのだから、ソフィアは私のものだ」

 どうしてそのような事を言うのかと思っていた。でも、ソフィアはすぐに何も考えられなくなった。ヴィンセントがソフィアの唇に自分のを重ね、それだけではなく「口を開けてくれ」と囁いた。どうしていいのかわからないソフィアは言われた通り小さく口を開いた。すると、待っていたようにヴィンセントの舌がソフィアの口の中を味わうように動いていく。

「んん……」

 ソフィアは頭の中が高温になったように熱を持ち、涙がうっすら滲み出ているのを感じた。

 ヴィンセントがソフィアの顎を支え、触れそうで触れない距離まで唇を離した。

「兄に触れさせないでくれ……ソフィア」

 そこにどんな意味があるのか、頭がぼうっとしているソフィアにはわからなかった。ただ、ヴィンセントのグリーンアイを見つめていたら、ヴィンセントが困ったように表情を崩した。

「甘いのは口の中だけではないのか確かめたくなる。ソフィアの瞳は溶け出したキャンディみたいだ」

 ヴィンセントの声がかすれていた。ソフィアの顎を支えていた手が耳へと移動し、耳たぶを軽く摘まんでから人差し指だけで首筋を撫でていった。

(このまま二人きりでいたら我慢できなくなる)

 ヴィンセントは離れがたいと抵抗する体をずらして、馬車の椅子に身を預けた。昼間に受けたクリスティンから誘いはきっぱり断れたのに、今や理性は風前の灯火だった。馬車でそのようなことをするのは憚られるし、何よりソフィアを欲求だけで抱くのは間違っている。

(自分が敢えて書かせた契約書に首を締められている気分だな)

 婚姻時に書いた契約書のこの結婚は性的関係を持たないという一文を今すぐ消してしまいたかった。

 片やソフィアも呆然としたまま体を椅子に預けた。クラクラする。体に力が入らなくなった。

(なぜ、ヴィンセント様はこのような……)

 それが嫌だったかと言われたら嫌ではなく、むしろやめないで欲しいとすら感じていた。気の迷いでもいいから、ソフィアに触れていて欲しかった。

(一瞬でもヴィンセント様は私を見ていてくれたもの)

 自分の想いにソフィアはドレスを握りしめていた。

 抗うことも否定することもできないほど、ヴィンセントに恋をしているのだと悟ってしまった。元々優しい人たちには弱いと自覚があった。ヴィンセントが誰から見ても魅力的な男性であるのもわかっていた。そのヴィンセントが冷たい態度から一転、優しくなったらソフィアなど即恋に落ちるに決まっている。

(私がヴィンセント様に恋をしたら、自分が困るのだとわかっていたのに)

 ヴィンセントには身分違いゆえに結ばれない恋人がいるのだ。その人と一緒になるための結婚だというのはもはや隠しようのない事実だった。ヴィンセントはソフィアの爵位が欲しいだけでソフィアが欲しいわけではない。

(始まった瞬間から終わっている恋愛なんて不毛すぎるのに)

 ソフィアは窓の外を見て、泣いてしまいそうな気持ちを紛らわせていた。

(一緒に居たいのに、今すぐ逃げ出したいなんて……どうしたらいいの)

 ヴィンセントのことは嫌われていた当初から、ソフィアにとって特別な存在だった。結婚相手であるという意識がそうしたのだと思う。ただ、態度が軟化すればするほど、ヴィンセントの魅力に引き込まれていった。

 だから、これ以上気持ちを持っていかれる前に、ヴィンセントのもとから離れたかった。

(ヴィンセント様の笑顔一つで私は何も考えられなくなるくらい幸せを感じてしまう。その一つ一つが真綿で首を絞めるような行為なのに)

 二人の家が近づいてきた頃、ソフィアはおおよその覚悟を決めていた。次にヴィンセントの兄レスリーに会ったら、キャサリン夫婦を託そうと決意し、その後は理由をつけてなるべくヴィンセントに会わないように心がけることにした。

 シャーロット夫婦やキャサリン夫婦と接していると、愛し愛されることがいかに幸福か理解できた。ソフィアはこの先、ヴィンセントとの夫婦関係に苦しめられることになると思うと辛くて仕方がなかった。愛されることのないソフィアにはヴィンセントの優しさがどう考えても毒にしか思えない。きっと不幸になるだろう。冷たくされていた時よりそうなると思っていた。
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