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第二章 空き部屋は放したくない⑥
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そのとき、不意に由梨が口を開いた。
「……ここ、昔、うちだった」
部屋の真ん中で段ボールを押さえつけたまま、ぽつりと言う。
「え?」
凛は思わず振り返った。
「四〇二。うちが住んでた部屋。お父さんとお母さんと、弟と、わたし」
凛は息を呑んだ。
たしかに、そう言われてみれば、記憶の中の風景と重なる気がする。放課後、たまたま迎えに来てもらった階段の踊り場。ここが由梨の家だと聞いたときの、あの微妙な距離感。自分は招かれなかったという、小さな疎外感。
「……あたしたち、こっそり引っ越したから」
由梨は、視線を床に落とした。
「ご近所さんにあいさつもろくにできないまま。急にいなくなったの、きっとこの部屋、怒ってるんだと思う」
その言葉に呼応するように、部屋の空気がざわっと揺れた。
カーテンがないのに、窓辺のあたりで風のようなものがさざなみを立てる。それは確かに、感情の波動だった。
凛は思考より先に、口が動いていた。
「……由梨さん」
「『さん』付け、やめて。きもちわるい」
「じゃ、じゃあ由梨」
名前を呼ぶのが、妙にぎこちない。
「管理人見習いとして言うけど……この部屋と、ちゃんと話したほうがいいと思う」
「話すって、どうやって……」
「子どもの頃みたいに、文句とか全部言えばいいじゃん!」
なぜか、半分ヤケになっていた。
「勝手に出ていってごめんとか! 覚えててくれてありがとうとか! ……そういうの、ちゃんと言わないと、たぶん、ずっとすねてるよ、この部屋」
自分でも何を言っているのかわからない。でも、言葉は止まらなかった。
(だって、私だって。ちゃんと謝ってほしかったから)
仲間外れにされたことも、細かい意地悪をされたことも。それ以来、人と深く交わるのが怖くなったことも。「ごめん」の一言で帳消しになるとは思ってない。でも、それでも——。
言葉が欲しかった。
謝罪が欲しかった。
由梨は、しばらく黙っていた。
段ボールから手を放し、深呼吸を一つしてから、立ち上がる。そして、天井を見上げて口を開いた。
「……勝手に出ていって、ごめん。ほんとは、もっといたかった。ここ、好きだった。ベランダから見える景色も、中庭の鉄棒も。お父さんが買ってきたソファも。……でも、無理だった」
言葉を探しながら、ぽつぽつと続ける。
「あのときは、誰にも何も言えなかった。お父さんも、お母さんもいっぱいいっぱいで。あたしが泣いたら、もっと大変になると思って……だから、黙って出ていくしかなかった」
由梨の拳が、ぎゅっと握りしめられる。
「でも、今のあたしは、もう子どもじゃないから。ちゃんと言う。——ここにいてくれて、ありがとう。覚えててくれて、ありがとう。もう、昔を守らなくてもいいよ。あたしも、前に進むから」
最後の言葉が、部屋の空気に溶けていく。
しん、と静かになった。
誰も息をしていないような、そんな静寂。時間が止まったような感覚が、部屋全体を包み込んだ。
次の瞬間——。
天井から、ポトン、と何かが落ちてきた。
古い画鋲だった。赤く錆びて、先端が少し曲がっている。壁の一角には、うすく日焼けした四角い跡が残っている。かつて、そこに写真か何かが貼ってあったのだろう。家族の笑顔が、そこにあったのだろう。
「……見て、ってこと?」
凛は、壁のその場所にそっと手を触れた。
じわりと熱が伝わるような気がする。それは温もりだった。人の温もり。生活の温もり。
視界の端で、何かが一瞬きらめいた。
笑い声。テレビの音。食卓を囲む家族の影。子どもの「ただいまー」の声。母親の「おかえり」という返事。夕飯を作る音。団地特有の、あの濃密な生活の匂い。
その感覚はすぐに消えてしまったが、それだけで十分だった。
部屋は、ずっと覚えていた。あの家族がここにいたことを。そして今も、覚え続けている。
「ねぇ、部屋」
凛は、壁に対して囁いた。
「由梨が戻ってきたよ。前みたいに、ここで暮らしたいって。……いいでしょ?」
さっきまで暴れていた段ボールが、ぴたりと動かなくなる。ドアの蝶番が、きい、と小さく鳴いた。
それは、許可の合図だ、と思えた。
階数表示盤の狐が、廊下から顔だけひょいとのぞかせた。
「仲直り、成立かな」
「エレベーターのくせに解説者みたいなこと言わないでください」
凛が反射的にツッコむ。
由梨が肩を震わせて笑い出した。
その笑い声は、子どもの頃、中庭で聞いたものと少しだけ似ていて、でもあの頃より、ずっと複雑で、ずっと大人らしかった。
「……ここ、昔、うちだった」
部屋の真ん中で段ボールを押さえつけたまま、ぽつりと言う。
「え?」
凛は思わず振り返った。
「四〇二。うちが住んでた部屋。お父さんとお母さんと、弟と、わたし」
凛は息を呑んだ。
たしかに、そう言われてみれば、記憶の中の風景と重なる気がする。放課後、たまたま迎えに来てもらった階段の踊り場。ここが由梨の家だと聞いたときの、あの微妙な距離感。自分は招かれなかったという、小さな疎外感。
「……あたしたち、こっそり引っ越したから」
由梨は、視線を床に落とした。
「ご近所さんにあいさつもろくにできないまま。急にいなくなったの、きっとこの部屋、怒ってるんだと思う」
その言葉に呼応するように、部屋の空気がざわっと揺れた。
カーテンがないのに、窓辺のあたりで風のようなものがさざなみを立てる。それは確かに、感情の波動だった。
凛は思考より先に、口が動いていた。
「……由梨さん」
「『さん』付け、やめて。きもちわるい」
「じゃ、じゃあ由梨」
名前を呼ぶのが、妙にぎこちない。
「管理人見習いとして言うけど……この部屋と、ちゃんと話したほうがいいと思う」
「話すって、どうやって……」
「子どもの頃みたいに、文句とか全部言えばいいじゃん!」
なぜか、半分ヤケになっていた。
「勝手に出ていってごめんとか! 覚えててくれてありがとうとか! ……そういうの、ちゃんと言わないと、たぶん、ずっとすねてるよ、この部屋」
自分でも何を言っているのかわからない。でも、言葉は止まらなかった。
(だって、私だって。ちゃんと謝ってほしかったから)
仲間外れにされたことも、細かい意地悪をされたことも。それ以来、人と深く交わるのが怖くなったことも。「ごめん」の一言で帳消しになるとは思ってない。でも、それでも——。
言葉が欲しかった。
謝罪が欲しかった。
由梨は、しばらく黙っていた。
段ボールから手を放し、深呼吸を一つしてから、立ち上がる。そして、天井を見上げて口を開いた。
「……勝手に出ていって、ごめん。ほんとは、もっといたかった。ここ、好きだった。ベランダから見える景色も、中庭の鉄棒も。お父さんが買ってきたソファも。……でも、無理だった」
言葉を探しながら、ぽつぽつと続ける。
「あのときは、誰にも何も言えなかった。お父さんも、お母さんもいっぱいいっぱいで。あたしが泣いたら、もっと大変になると思って……だから、黙って出ていくしかなかった」
由梨の拳が、ぎゅっと握りしめられる。
「でも、今のあたしは、もう子どもじゃないから。ちゃんと言う。——ここにいてくれて、ありがとう。覚えててくれて、ありがとう。もう、昔を守らなくてもいいよ。あたしも、前に進むから」
最後の言葉が、部屋の空気に溶けていく。
しん、と静かになった。
誰も息をしていないような、そんな静寂。時間が止まったような感覚が、部屋全体を包み込んだ。
次の瞬間——。
天井から、ポトン、と何かが落ちてきた。
古い画鋲だった。赤く錆びて、先端が少し曲がっている。壁の一角には、うすく日焼けした四角い跡が残っている。かつて、そこに写真か何かが貼ってあったのだろう。家族の笑顔が、そこにあったのだろう。
「……見て、ってこと?」
凛は、壁のその場所にそっと手を触れた。
じわりと熱が伝わるような気がする。それは温もりだった。人の温もり。生活の温もり。
視界の端で、何かが一瞬きらめいた。
笑い声。テレビの音。食卓を囲む家族の影。子どもの「ただいまー」の声。母親の「おかえり」という返事。夕飯を作る音。団地特有の、あの濃密な生活の匂い。
その感覚はすぐに消えてしまったが、それだけで十分だった。
部屋は、ずっと覚えていた。あの家族がここにいたことを。そして今も、覚え続けている。
「ねぇ、部屋」
凛は、壁に対して囁いた。
「由梨が戻ってきたよ。前みたいに、ここで暮らしたいって。……いいでしょ?」
さっきまで暴れていた段ボールが、ぴたりと動かなくなる。ドアの蝶番が、きい、と小さく鳴いた。
それは、許可の合図だ、と思えた。
階数表示盤の狐が、廊下から顔だけひょいとのぞかせた。
「仲直り、成立かな」
「エレベーターのくせに解説者みたいなこと言わないでください」
凛が反射的にツッコむ。
由梨が肩を震わせて笑い出した。
その笑い声は、子どもの頃、中庭で聞いたものと少しだけ似ていて、でもあの頃より、ずっと複雑で、ずっと大人らしかった。
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