120 / 194
第二部
第17話 不名誉なあだ名(リリアーナ& ??視点)
しおりを挟む
「……それがさ、事態はそれほど好転していないんだ」
ストランドの邸で摂る最後の夕食の席。
セップ茸のソテーを添えた鴨のコンフィにナイフを入れながら、ノワゼット公爵は大きな嘆息を落とした。
久しぶりに会えたウェイン卿は、白皙の横顔を少し日焼けさせて、精悍さが増して見えた。
再会の挨拶もほどほどに、迎えた夕食の時間。
早く、たくさん、声が聞きたい話したい、と跳ね回りたいほど浮かれたわたしの気持ちに反して、隣の席のウェイン卿は浮かない表情を浮かべている。
つい、うっとり見つめてしまう己の視線をなんとか引き剥がし、わたしはブランシュの隣で同じく浮かない表情を浮かべているノワゼット公爵の話に耳を傾けた。
ブランシュが不思議そうに小首を傾げる。
「どういうこと?」
ストランドでの健康的な暮らしで、より美しさを増したブランシュを、ノワゼット公爵は眩しそうに見つめ返す。
少し考えるように黙ったかと思うと、ランブラーとウェイン卿と軽く頷き合ってから、意を決したように口を開いた。
「――懸賞金の方は、取り下げられた」
ブランシュとわたしは、二人して眉をひそめた。
「懸賞金? なにそれ?」
「……けんしょうきん、って、日曜の朝刊のクロスワードなんかについている、あの懸賞金ですか?」
意味を図りかねて首を傾げるわたしたちに向かって、ノワゼット公爵が事の次第をようやく明かした。
だけどそれはおそらく、尖った部分は削りとられ、まあるく柔らかくなっていた。
――だけどとにかく、説明してくれた。
「――というわけで、ブランシュにかけられていた、わけのわからない懸賞金は取り下げられたから、誰彼構わず狙われる心配はひとまずなくなった。だけど、そもそも誰が裏社会にそれを依頼したのか、まだ突き止められてない。……おまけに――」
ノワゼット公爵が、不機嫌そうに眉をぎゅっと寄せて黙ってしまったので、ランブラーが軽い溜め息交じりに後を引き取る。
「――ブルソール国務卿、失脚を免れてまだ王宮にいるんだってさ」
「あらまあ! 完璧な布陣を敷いたって言ってたのに……」
ブランシュが目を丸くして言うと、ウェイン卿とノワゼット公爵は赤ワインがなみなみと注がれたグラスに手を伸ばし、揃って一気に呷った。
いつも冷静な二人の珍しく荒々しい所作から、彼らの内心が甚だ穏やかでないらしいと察する。
「やっぱり、巡行で王都を離れたのが良くなかった。陛下、僕、グラハム・ドーンが、王宮を離れざるを得なかったから」
「国務卿にとっては、絶好の機会を得たってところでしょう」
公爵とウェイン卿の声は、これ以上ないほど苦々しい。
ランブラーが気まずい感じの溜め息をつきながら口を開いた。
「僕も、ブルソール国務卿は気持ちの良い人間じゃないと思う。だけど類い稀に有能な人でもありますからね。それを買っている人間も、王宮にはいるんでしょう」
ノワゼット公爵が、鳶色の瞳を悔しそうに眇める。
「……だがしかし、ブルソールに媚びへつらう米つきバッタは、かなり駆逐できた。
残っているもののうち、注意すべきは、蛇のブルソール、豚のディクソン、カメレオンのダーバーヴィルズだけだ。他の連中は、僕のことも恐れていて、だいたい行動が読める――ま、どっちつかずな奴らだから。ほっといて問題ない」
同じく赤い瞳を眇めたウェイン卿が後を引き取る。
「少なくとも、しばらくはおとなしくするとは思いますが――」
「そうねえ……。そうだと良いけど……」
ランブラー、ノワゼット公爵、ウェイン卿、ブランシュ、それに周りに居並ぶ騎士たちは、皆、訳知り顔で頷き合っている。
へえー、とまるでわかった風に眉を寄せて頷いて見せながら、わたしは内心で、ぽかんと首を傾げていた。
国務卿と、その側近ですって……?
新聞で名前を見たことがあるだけの、雲の上のお歴々。
長年の引き籠りには、まったくついて行けない話題であった。置いてけぼり感がすごい。
そっと、鴨のコンフィの皮目にナイフを入れるとぱりりっと、思いのほか香ばしい音が響いた。裂け目から溢れだす肉汁が、マッシュポテトの上に流れ出す。
――わー、美味しそう。
テーブル上で繰り広げられる、真剣極まりない会話を聞き流しつつ、目の前の料理に胸を踊らせる。
――それにしても……。
米つきバッタ、蛇、豚にカメレオンだなんて……。
わたしのドブネズミに勝るとも劣らない、悲しいあだ名だわ。
さっきから、胸のうちにふわりふわりと浮き上がってくるこの感覚は、もしや……もしや……親近感、というやつでは?
――どんな人たちなんだろう?
そういえば、封豕長蛇って言葉がある。欲深い悪人の例え、だっけ? 大きな豚と長い蛇。まさしくである。
蛇のブルソール、豚のディクソン、カメレオンのダーハーヴィルズ……?
ノワゼット公爵とウェイン卿は、ブランシュに懸賞金なんてものを掛けたのは、彼らのうち誰かだと考えているらしい。
それはよっぽど、封豕長蛇な人たちなんでしょうねぇ。
香ばしい鴨肉は、舌の上に載せた途端、ほろりと崩れた。
付け合わせのセップ茸、マッシュポテト、粒マスタードが旨味を引き立て、最高の味わい。
――何にしても、わたしとは縁のない人たちだわ。
自分が国務卿やその側近とお近づきになる場面なんて、想像することもできない。あり得ない。
犯人が誰なのかは気になるけれど、それは騎士さまたちのお仕事だ。わたしが考えたって、わかるわけないし。
不名誉なあだ名仲間への親近感はひとまず置いといて、味覚に神経を集中することにした。
――それにしたって、モーリーの腕前は世界一だと思ってたけど、ストランドの領館の料理人もまた、素晴らしいわー。
領館でいただく最後の晩餐にまったりと頬を緩ませていると、視線を感じた。
おそるおそる顔を上げると、隣の席からウェイン卿の眼差しが注がれていた。赤い瞳は細められている。
慌てて、しゃんと背筋を伸ばして真面目な顔をしてみせると、くすっと笑われる。
それはもう、身体が蕩けてしまいそうなほど素敵な「くすっ」だった。
そして、はっとする。
しまった。
やっと久しぶりに会えたのに、話が噛み合わない上に、食欲を優先する不謹慎なやつだと思われた可能性が高い。
いけないいけない。
蛇と豚とカメレオンへの親近感をひた隠し、真面目な顔をして会話に集中すると、また、くすっと隣から声が聞こえる。
まずい。心を読まれたかも。
まったく、気が気でないったらない。
「ブルソール国務卿は、ドーン公爵の猛攻を切り抜け、王宮に残れた。それで気が済んで、ブランシュに掛けた懸賞金を取り下げたんですかね?」
ランブラーが神妙な調子で眉を寄せて言うと、ノワゼット公爵は、さあね、と首を軽く横に振った。
「あの毒蛇の腹の内だけは、さっぱり読めないよ」
§
「――では、ブルソール国務卿閣下は、ブランシュ・ロンサールに掛けた懸賞金を取り下げられると?」
頷いてその意を示すと、闇の組織、修道士の頭巾党の頭目である、通称『修道士』と呼ばれる男は、柔らかく微笑んで頷いた。
港湾地区の奥まった場所にある、指定された一角。
細い道を何度も曲がった末に辿り着いた部屋では、薄暗がりにオイルランプが怪しく揺らいでいる。
窓は厚いカーテンが降ろされ、外の景色は一切見えない。
――修道士。
はじめて目にするその姿に、ごくりと唾を飲み込む。
肘掛椅子に深く腰をおろした修道士《モンク》は、穏やかな顔つきの男だった。
一目で上質とわかる上下を身に纏っている。よく磨かれた、昆虫の翅のように黒光りする革靴は、少しも底が減っていない。仕草はどこか洗練されていて、品がある。
――なるほどな。貴族の一員だという噂は、真実らしい。
まさか、この育ちの良さそうな男が、この大陸を陰で牛耳る闇組織の頭目だとは、誰も思いも寄らないだろう。
「承知しました。……あまり、閣下のお役に立てませんでしたね」
本心はどうだか知らないが、修道士は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
オイルランプの淡い光が、その陰影を深く刻む。
この薄暗い部屋では、修道士の髪や瞳の色までを知ることはできなかった。
「かまわんよ。君らは君らで、よくやってくれた。国務卿も感謝しておられる」
鷹揚に応えてやると、修道士は、安堵したように頷いた。
つられてこちらも少し、寛いだ気分になる。
どうやら、闇社会に君臨する無法者ですら、毒蛇公爵の二つ名を取るブルソール国務卿には気を遣うらしい。
「それで……? ブランシュ・ロンサールの方は、お諦めになるのですか?」
修道士からごく軽い調子で尋ねられた途端、くくくっと、自身の喉の奥から、嗤い声が漏れる。
「まさか。後はこっちでやるだけだ」
ああ、なるほど……と応えながら、修道士は柔らかく笑んだ。
「勿体ないような気もいたします。あれほどの顔、台無しにしてしまうのは。他に有益な使い道が、いくらでもあるでしょうに」
平坦な物言いに含まれる残酷な響きに、思わず顔を上げる。
修道士にとっては、美しい女も誰もかも、ただの道具に過ぎないのだろう。
修道士の頭巾党が起こしたとされる数々の血なまぐさい事件が頭を過る。
胸がうすら寒いような、走り去ってしまいたいような心地になって、ふと思い出す。
――ああ、そうだ。
何を恐れる?
自分はもう、とっくに同じ穴の狢じゃないか。
「……だから、いいんじゃないか」
ねっとりと響いた自身の声に、ゆるりと首を傾げた修道士の瞳が、不審げに揺らいだ。
少し、喋り過ぎたようだ。
長居は無用、と立ち上がる。
「まあ、そう言うことだ。また、何かあったら、頼むよ。……国務卿閣下のご意向だ」
承知しました、と修道士はまた柔らかく笑う。
テーブルの上に置いていた帽子を手に取り、深く被ると、部屋を後にした。
扉を開けた途端、生臭い潮の香りが鼻を突く。
月も星も雲に隠された漆黒の夜。
すぐそこは海だ。昏い波音がここまで微かに届く。
海の音も臭いも、ひどく気を滅入らせる。
嫌なことを思い出す。
何度か細い道を行き、角を曲がれば、明るい大通りに出られる。
唐突に、何か得体の知れないものに後をつけられているような気味の悪い感覚に襲われ、振り返った。
「……………」
そこにはただ、寂れた倉庫が並んでいるだけだった。
――だれもいない、か。
夏だというのに、夜は冷えた。何か寒気に襲われた気がして、季節外れの外套の襟を掻き合わせ、先を急ぐ。
船乗り御用達の酒場や宿屋が軒を連ねる大通りは、真昼のように明るいはずだ。
あそこまで行けば、安心できる。
もっとも、あんな掃き溜めのような場所で、女を買う気にはなれないが。
自身の望みは、今も昔も、ただひとりだけ。
ばさり、と背後で音がして、ぎくりとして振り仰ぐ。
鴉が一羽、闇に溶けるように屋根に止まっていた。
じっとこちらを見据えている、暗い洞穴のような双眸。
それと目が合った気がして、思わず後ずさる。
周囲を満たす、昏い潮騒。
魚の腐ったような臭い。
(なんだ、ただの鴉じゃないか……)
思わず、ふっと失笑を漏らした。
――何を弱気になってる。
地獄なら、もう充分に見て来た。
――懸賞金が取り下げられたと知り、ブランシュ・ロンサールは予定通り王都に戻るだろう。
外套のポケットに手を入れ、それを確かめる。
ひんやりと伝わる、ガラス瓶の感触。
王立病院の保管庫から失敬するのは、それほど困難ではなかった。
性善説を信じる人々の、なんて多いことだろう。
――もうすぐだ。
全てが終わったとき、アラン・ノワゼットは、どんな顔をするだろう?
自分が味わったのと同じ地獄を、味わうだろうか――――。
恍惚と笑みを浮かべた彼の背後――――
ばさり、ばさり。
それは舞う。
闇に溶けていた鴉たちが、目を覚ます。
黒い羽が、夜に浮かぶ。
黒い眸が、闇の底から彼を見つめる。
いくつも、いくつも。
無数の眸。
同時に――――
ひたひたと、冷たい足音が近づいていた。
先を急ぐ彼は、そのどちらにも気が付かなかった――――
ストランドの邸で摂る最後の夕食の席。
セップ茸のソテーを添えた鴨のコンフィにナイフを入れながら、ノワゼット公爵は大きな嘆息を落とした。
久しぶりに会えたウェイン卿は、白皙の横顔を少し日焼けさせて、精悍さが増して見えた。
再会の挨拶もほどほどに、迎えた夕食の時間。
早く、たくさん、声が聞きたい話したい、と跳ね回りたいほど浮かれたわたしの気持ちに反して、隣の席のウェイン卿は浮かない表情を浮かべている。
つい、うっとり見つめてしまう己の視線をなんとか引き剥がし、わたしはブランシュの隣で同じく浮かない表情を浮かべているノワゼット公爵の話に耳を傾けた。
ブランシュが不思議そうに小首を傾げる。
「どういうこと?」
ストランドでの健康的な暮らしで、より美しさを増したブランシュを、ノワゼット公爵は眩しそうに見つめ返す。
少し考えるように黙ったかと思うと、ランブラーとウェイン卿と軽く頷き合ってから、意を決したように口を開いた。
「――懸賞金の方は、取り下げられた」
ブランシュとわたしは、二人して眉をひそめた。
「懸賞金? なにそれ?」
「……けんしょうきん、って、日曜の朝刊のクロスワードなんかについている、あの懸賞金ですか?」
意味を図りかねて首を傾げるわたしたちに向かって、ノワゼット公爵が事の次第をようやく明かした。
だけどそれはおそらく、尖った部分は削りとられ、まあるく柔らかくなっていた。
――だけどとにかく、説明してくれた。
「――というわけで、ブランシュにかけられていた、わけのわからない懸賞金は取り下げられたから、誰彼構わず狙われる心配はひとまずなくなった。だけど、そもそも誰が裏社会にそれを依頼したのか、まだ突き止められてない。……おまけに――」
ノワゼット公爵が、不機嫌そうに眉をぎゅっと寄せて黙ってしまったので、ランブラーが軽い溜め息交じりに後を引き取る。
「――ブルソール国務卿、失脚を免れてまだ王宮にいるんだってさ」
「あらまあ! 完璧な布陣を敷いたって言ってたのに……」
ブランシュが目を丸くして言うと、ウェイン卿とノワゼット公爵は赤ワインがなみなみと注がれたグラスに手を伸ばし、揃って一気に呷った。
いつも冷静な二人の珍しく荒々しい所作から、彼らの内心が甚だ穏やかでないらしいと察する。
「やっぱり、巡行で王都を離れたのが良くなかった。陛下、僕、グラハム・ドーンが、王宮を離れざるを得なかったから」
「国務卿にとっては、絶好の機会を得たってところでしょう」
公爵とウェイン卿の声は、これ以上ないほど苦々しい。
ランブラーが気まずい感じの溜め息をつきながら口を開いた。
「僕も、ブルソール国務卿は気持ちの良い人間じゃないと思う。だけど類い稀に有能な人でもありますからね。それを買っている人間も、王宮にはいるんでしょう」
ノワゼット公爵が、鳶色の瞳を悔しそうに眇める。
「……だがしかし、ブルソールに媚びへつらう米つきバッタは、かなり駆逐できた。
残っているもののうち、注意すべきは、蛇のブルソール、豚のディクソン、カメレオンのダーバーヴィルズだけだ。他の連中は、僕のことも恐れていて、だいたい行動が読める――ま、どっちつかずな奴らだから。ほっといて問題ない」
同じく赤い瞳を眇めたウェイン卿が後を引き取る。
「少なくとも、しばらくはおとなしくするとは思いますが――」
「そうねえ……。そうだと良いけど……」
ランブラー、ノワゼット公爵、ウェイン卿、ブランシュ、それに周りに居並ぶ騎士たちは、皆、訳知り顔で頷き合っている。
へえー、とまるでわかった風に眉を寄せて頷いて見せながら、わたしは内心で、ぽかんと首を傾げていた。
国務卿と、その側近ですって……?
新聞で名前を見たことがあるだけの、雲の上のお歴々。
長年の引き籠りには、まったくついて行けない話題であった。置いてけぼり感がすごい。
そっと、鴨のコンフィの皮目にナイフを入れるとぱりりっと、思いのほか香ばしい音が響いた。裂け目から溢れだす肉汁が、マッシュポテトの上に流れ出す。
――わー、美味しそう。
テーブル上で繰り広げられる、真剣極まりない会話を聞き流しつつ、目の前の料理に胸を踊らせる。
――それにしても……。
米つきバッタ、蛇、豚にカメレオンだなんて……。
わたしのドブネズミに勝るとも劣らない、悲しいあだ名だわ。
さっきから、胸のうちにふわりふわりと浮き上がってくるこの感覚は、もしや……もしや……親近感、というやつでは?
――どんな人たちなんだろう?
そういえば、封豕長蛇って言葉がある。欲深い悪人の例え、だっけ? 大きな豚と長い蛇。まさしくである。
蛇のブルソール、豚のディクソン、カメレオンのダーハーヴィルズ……?
ノワゼット公爵とウェイン卿は、ブランシュに懸賞金なんてものを掛けたのは、彼らのうち誰かだと考えているらしい。
それはよっぽど、封豕長蛇な人たちなんでしょうねぇ。
香ばしい鴨肉は、舌の上に載せた途端、ほろりと崩れた。
付け合わせのセップ茸、マッシュポテト、粒マスタードが旨味を引き立て、最高の味わい。
――何にしても、わたしとは縁のない人たちだわ。
自分が国務卿やその側近とお近づきになる場面なんて、想像することもできない。あり得ない。
犯人が誰なのかは気になるけれど、それは騎士さまたちのお仕事だ。わたしが考えたって、わかるわけないし。
不名誉なあだ名仲間への親近感はひとまず置いといて、味覚に神経を集中することにした。
――それにしたって、モーリーの腕前は世界一だと思ってたけど、ストランドの領館の料理人もまた、素晴らしいわー。
領館でいただく最後の晩餐にまったりと頬を緩ませていると、視線を感じた。
おそるおそる顔を上げると、隣の席からウェイン卿の眼差しが注がれていた。赤い瞳は細められている。
慌てて、しゃんと背筋を伸ばして真面目な顔をしてみせると、くすっと笑われる。
それはもう、身体が蕩けてしまいそうなほど素敵な「くすっ」だった。
そして、はっとする。
しまった。
やっと久しぶりに会えたのに、話が噛み合わない上に、食欲を優先する不謹慎なやつだと思われた可能性が高い。
いけないいけない。
蛇と豚とカメレオンへの親近感をひた隠し、真面目な顔をして会話に集中すると、また、くすっと隣から声が聞こえる。
まずい。心を読まれたかも。
まったく、気が気でないったらない。
「ブルソール国務卿は、ドーン公爵の猛攻を切り抜け、王宮に残れた。それで気が済んで、ブランシュに掛けた懸賞金を取り下げたんですかね?」
ランブラーが神妙な調子で眉を寄せて言うと、ノワゼット公爵は、さあね、と首を軽く横に振った。
「あの毒蛇の腹の内だけは、さっぱり読めないよ」
§
「――では、ブルソール国務卿閣下は、ブランシュ・ロンサールに掛けた懸賞金を取り下げられると?」
頷いてその意を示すと、闇の組織、修道士の頭巾党の頭目である、通称『修道士』と呼ばれる男は、柔らかく微笑んで頷いた。
港湾地区の奥まった場所にある、指定された一角。
細い道を何度も曲がった末に辿り着いた部屋では、薄暗がりにオイルランプが怪しく揺らいでいる。
窓は厚いカーテンが降ろされ、外の景色は一切見えない。
――修道士。
はじめて目にするその姿に、ごくりと唾を飲み込む。
肘掛椅子に深く腰をおろした修道士《モンク》は、穏やかな顔つきの男だった。
一目で上質とわかる上下を身に纏っている。よく磨かれた、昆虫の翅のように黒光りする革靴は、少しも底が減っていない。仕草はどこか洗練されていて、品がある。
――なるほどな。貴族の一員だという噂は、真実らしい。
まさか、この育ちの良さそうな男が、この大陸を陰で牛耳る闇組織の頭目だとは、誰も思いも寄らないだろう。
「承知しました。……あまり、閣下のお役に立てませんでしたね」
本心はどうだか知らないが、修道士は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
オイルランプの淡い光が、その陰影を深く刻む。
この薄暗い部屋では、修道士の髪や瞳の色までを知ることはできなかった。
「かまわんよ。君らは君らで、よくやってくれた。国務卿も感謝しておられる」
鷹揚に応えてやると、修道士は、安堵したように頷いた。
つられてこちらも少し、寛いだ気分になる。
どうやら、闇社会に君臨する無法者ですら、毒蛇公爵の二つ名を取るブルソール国務卿には気を遣うらしい。
「それで……? ブランシュ・ロンサールの方は、お諦めになるのですか?」
修道士からごく軽い調子で尋ねられた途端、くくくっと、自身の喉の奥から、嗤い声が漏れる。
「まさか。後はこっちでやるだけだ」
ああ、なるほど……と応えながら、修道士は柔らかく笑んだ。
「勿体ないような気もいたします。あれほどの顔、台無しにしてしまうのは。他に有益な使い道が、いくらでもあるでしょうに」
平坦な物言いに含まれる残酷な響きに、思わず顔を上げる。
修道士にとっては、美しい女も誰もかも、ただの道具に過ぎないのだろう。
修道士の頭巾党が起こしたとされる数々の血なまぐさい事件が頭を過る。
胸がうすら寒いような、走り去ってしまいたいような心地になって、ふと思い出す。
――ああ、そうだ。
何を恐れる?
自分はもう、とっくに同じ穴の狢じゃないか。
「……だから、いいんじゃないか」
ねっとりと響いた自身の声に、ゆるりと首を傾げた修道士の瞳が、不審げに揺らいだ。
少し、喋り過ぎたようだ。
長居は無用、と立ち上がる。
「まあ、そう言うことだ。また、何かあったら、頼むよ。……国務卿閣下のご意向だ」
承知しました、と修道士はまた柔らかく笑う。
テーブルの上に置いていた帽子を手に取り、深く被ると、部屋を後にした。
扉を開けた途端、生臭い潮の香りが鼻を突く。
月も星も雲に隠された漆黒の夜。
すぐそこは海だ。昏い波音がここまで微かに届く。
海の音も臭いも、ひどく気を滅入らせる。
嫌なことを思い出す。
何度か細い道を行き、角を曲がれば、明るい大通りに出られる。
唐突に、何か得体の知れないものに後をつけられているような気味の悪い感覚に襲われ、振り返った。
「……………」
そこにはただ、寂れた倉庫が並んでいるだけだった。
――だれもいない、か。
夏だというのに、夜は冷えた。何か寒気に襲われた気がして、季節外れの外套の襟を掻き合わせ、先を急ぐ。
船乗り御用達の酒場や宿屋が軒を連ねる大通りは、真昼のように明るいはずだ。
あそこまで行けば、安心できる。
もっとも、あんな掃き溜めのような場所で、女を買う気にはなれないが。
自身の望みは、今も昔も、ただひとりだけ。
ばさり、と背後で音がして、ぎくりとして振り仰ぐ。
鴉が一羽、闇に溶けるように屋根に止まっていた。
じっとこちらを見据えている、暗い洞穴のような双眸。
それと目が合った気がして、思わず後ずさる。
周囲を満たす、昏い潮騒。
魚の腐ったような臭い。
(なんだ、ただの鴉じゃないか……)
思わず、ふっと失笑を漏らした。
――何を弱気になってる。
地獄なら、もう充分に見て来た。
――懸賞金が取り下げられたと知り、ブランシュ・ロンサールは予定通り王都に戻るだろう。
外套のポケットに手を入れ、それを確かめる。
ひんやりと伝わる、ガラス瓶の感触。
王立病院の保管庫から失敬するのは、それほど困難ではなかった。
性善説を信じる人々の、なんて多いことだろう。
――もうすぐだ。
全てが終わったとき、アラン・ノワゼットは、どんな顔をするだろう?
自分が味わったのと同じ地獄を、味わうだろうか――――。
恍惚と笑みを浮かべた彼の背後――――
ばさり、ばさり。
それは舞う。
闇に溶けていた鴉たちが、目を覚ます。
黒い羽が、夜に浮かぶ。
黒い眸が、闇の底から彼を見つめる。
いくつも、いくつも。
無数の眸。
同時に――――
ひたひたと、冷たい足音が近づいていた。
先を急ぐ彼は、そのどちらにも気が付かなかった――――
2
あなたにおすすめの小説
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
捨てられ侯爵令嬢ですが、逃亡先で息子と幸せに過ごしていますので、邪魔しないでください。
蒼月柚希
恋愛
公爵様の呪いは解かれました。
これで、貴方も私も自由です。
……だから、もういいですよね?
私も、自由にして……。
5年後。
私は、ある事情から生まれ育った祖国を離れ、
親切な冒険者パーティーと、その地を治める辺境伯様のご家族に守られながら、
今日も幸せに子育てをしています。
だから貴方も勝手に、お幸せになってくださいね。
私のことは忘れて……。
これは、お互いの思いがこじれ、離れ離れになってしまった一組の夫婦の物語。
はたして、夫婦は無事に、離婚を回避することができるのか?
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
転生皇女セラフィナ
秋月真鳥
恋愛
公爵家のメイド・クラリッサは、幼い主君アルベルトを庇って十五歳で命を落とした。
目覚めたとき、彼女は皇女セラフィナとして生まれ変わっていた——死の、わずか翌日に。
赤ん坊の身体に十五歳の記憶を持ったまま、セラフィナは新しい人生を歩み始める。
皇帝に溺愛され、優しい母に抱かれ、兄に慈しまれる日々。
前世で冷遇されていた彼女にとって、家族の愛は眩しすぎるほどだった。
しかし、セラフィナの心は前世の主・アルベルトへの想いに揺れ続ける。
一歳のお披露目で再会した彼は、痩せ細り、クラリッサの死を今も引きずっていた。
「わたしは生涯結婚もしなければ子どもを持つこともない。わたしにはそんな幸福は許されない」
そう語るアルベルトの姿に、セラフィナは決意する。
言葉も満足に話せない。自由に動くこともできない。前世の記憶を明かすこともできない。
それでも、彼を救いたい。彼に幸せになってほしい。
転生した皇女が、小さな身体で挑む、長い長い物語が始まる。
※ノベルアップ+、小説家になろうでも掲載しています。
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
【完結】【番外編追加】お迎えに来てくれた当日にいなくなったお姉様の代わりに嫁ぎます!
まりぃべる
恋愛
私、アリーシャ。
お姉様は、隣国の大国に輿入れ予定でした。
それは、二年前から決まり、準備を着々としてきた。
和平の象徴として、その意味を理解されていたと思っていたのに。
『私、レナードと生活するわ。あとはお願いね!』
そんな置き手紙だけを残して、姉は消えた。
そんな…!
☆★
書き終わってますので、随時更新していきます。全35話です。
国の名前など、有名な名前(単語)だったと後から気付いたのですが、素敵な響きですのでそのまま使います。現実世界とは全く関係ありません。いつも思いつきで名前を決めてしまいますので…。
読んでいただけたら嬉しいです。
断罪ざまぁも冴えない王子もお断り!~せっかく公爵令嬢に生まれ変わったので、自分好みのイケメン見つけて幸せ目指すことにしました~
古堂 素央
恋愛
【完結】
「なんでわたしを突き落とさないのよ」
学園の廊下で、見知らぬ女生徒に声をかけられた公爵令嬢ハナコ。
階段から転げ落ちたことをきっかけに、ハナコは自分が乙女ゲームの世界に生まれ変わったことを知る。しかもハナコは悪役令嬢のポジションで。
しかしなぜかヒロインそっちのけでぐいぐいハナコに迫ってくる攻略対象の王子。その上、王子は前世でハナコがこっぴどく振った瓶底眼鏡の山田そっくりで。
ギロチンエンドか瓶底眼鏡とゴールインするか。選択を迫られる中、他の攻略対象の好感度まで上がっていって!?
悪役令嬢? 断罪ざまぁ? いいえ、冴えない王子と結ばれるくらいなら、ノシつけてヒロインに押しつけます!
黒ヒロインの陰謀を交わしつつ、無事ハナコは王子の魔の手から逃げ切ることはできるのか!?
何もしない公爵夫人ですが、なぜか屋敷がうまく回っています
鷹 綾
恋愛
辺境公爵カーネル・クリスの妻となったフィレ・バーナード。
けれど彼女は、屋敷を仕切ることも、改革を行うことも、声高に意見を述べることもしなかった。
指示を出さない。
判断を奪わない。
必要以上に関わらない。
「何もしない夫人」として、ただ静かにそこにいるだけ。
それなのに――
いつの間にか屋敷は落ち着き、
使用人たちは迷わなくなり、
人は出入りし、戻り、また進んでいくようになる。
誰かに依存しない。
誰かを支配しない。
それでも確かに“安心できる場所”は、彼女の周りに残っていた。
必要とされなくてもいい。
役に立たなくてもいい。
それでも、ここにいていい。
これは、
「何もしない」ことで壊れなかった関係と、
「奪わない」ことで続いていった日常を描く、
静かでやさしい結婚生活の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる