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第二部
第63話 説得
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「俺、その花屋なら、知ってますけど?」
「え?」と聞き返したのと、カマユー卿がはたと口を閉じたのは同時だった。
「アナベルが花を買っていたお店を、ご存知なんですか?」
身を乗り出して問うと、カマユー卿は失言に気づいたように笑みを引き攣らせた。
「……ええ、まあ……定期的に通っていたとは知りませんでしたが、一度だけ、アナベルが花を買うところを見ました。その店の前からこの屋敷まで、一緒に帰ってきたんですよ。……白アジサイの花束で……ストランドに行く前……初夏だったかな」
言いながら、どこか懐かしそうにカマユー卿は目を細める。
「まあ……どちらのお店です?」
胸の前で腕を組んだカマユー卿は、真っ直ぐにわたしを見る。にこりと柔らかく微笑んで、彼は毅然とした口調で答えた。
「お教えできません」
「……? ど、どうしてです? アナベルの仲間がいるかも知れませんし、わたしは彼らの顏を知っています」
優しげな顔は、悠然と頷く。
「お気持ちはわかりますが、俺が話したら、令嬢はその店まで行くつもりでしょう? ですが、そこにはアナベルの仲間がいる可能性がある。……アナベルの仲間ってことは、つまり、ハイドランジアの残党だ。……そんな場所に、令嬢を行かせられるわけがない」
「はあ? カマユー卿は、あのアナベルの仲間が、わたしに何かするとでも?」
さあ――とカマユー卿はゆっくりと首を振る。
「俺が戦場以外で会ったことのあるハイドランジア人は、アナベルだけですから。……ああ、スパイで誘拐犯だったロウブリッターもか。……他の奴らがどういう人間かなんて、俺には解らない。戦場では、談笑する機会なんかありませんしね。俺はたいして真面目な騎士ではありませんが、この屋敷の護衛を任されている以上、得体の知れない相手がいる可能性がある場所に令嬢を行かせることはできません」
「…………い、意外と……頭が固くていらっしゃる……」
口を尖らせて恨みがましく言うと、カマユー卿はひっそりと微笑む。何を言っても無駄、という微笑である。
「……引き留められるかもしれないのに……アナベルを」
ちらりと見上げてその名を出すと、カマユー卿は一度瞬いた。空色の瞳が少し揺れる。カマユー卿の中で、アナベルは他の何よりも優先されるはずだ。それは間違いない。だけど、アナベルの仲間まで信用するかは別の問題、ということか。
「カマユー卿がその花屋に近づいただけで、アナベルの仲間はきっと逃げてしまいます。でも、多分ですけれど、わたしなら大丈夫です。あとそれに、ウェイン卿もアナベルを探すと言ってくれましたし」
「ウェイン卿が?」
カマユー卿はびっくりしたように目を瞠った。
「ええ、カマユー卿の元気がないことを、心配されていました」
へえ――とカマユー卿は頬を緩めた。
「あのウェイン卿が? 人の心配……? いやぁ……令嬢の力は偉大だなあ……」
茶化すように言いながら、カマユー卿はどこか嬉しそうだった。少し考えるように黙ってから、彼は口を開く。
「それなら――令嬢の婚約者であるウェイン卿と、令嬢の後見人であるロンサール伯爵、この二人がオーケーと言われたなら、生花店までご案内します」
§
「ハイドランジアの騎士か……リリアーナが行って、危なくないかな?」
問題なくオーケーと言ってくれると思ったのに、ランブラーもまた同じようなことを言った。
「まさか!? お従兄さまったら! アナベルの仲間ですよ? 危ない筈がありません」
夕方になって王宮から戻った従兄を捕まえて、今は屋敷の執務室である。
わたしと向かい合ってソファーに腰掛け、片手で仕事用のタイを緩めるランブラーはしかし、難しい顔をした。
「僕だって、アナベルが善人だってことは確信しているよ。彼女はほら、見るからに誠実そうだし、何よりリリアーナの命の恩人だしね。だけど、他の仲間はどうだろう……。敗戦国の騎士や間諜が、戦勝国の人間に対して抱く感情って、想像もできないけど……ひどく複雑なんじゃないかなぁ……」
カマユー卿もまた、物憂げな顔で頷く。
「ロウブリッターの件もあります。恨みを募らせ、第二騎士団に復讐しようとしていたわけですから。他の仲間も、油断は――」
「親切な方ばかりでした。用心する必要なんてありません。さくっとお散歩気分で参りましょう!」
明るく元気に清々しく言い切ると、ランブラーとカマユー卿は揃ってわたしを見た。
甘やかとも取れる微笑を浮かべる瞳の奥は、「うんうん、君の良いところは楽天的なところだよ」と語っている。わたしは思わず、閉じた口を尖らせた。
「出来ればやりたくありませんし、公爵と相談してからになりますけど、生花店とその周辺の店の者を全員、有無を謂わせず拘束っていう方法も――」
「ご冗談を! カマユー卿ったら! 重ねて言いますけれど、アナベルの仲間ですからね?」
「――そうだなぁ……慎重に行くべきだろうけど……。ウェイン卿はなんて?」
ランブラーが尋ねると、カマユー卿は軽く首を竦める。
「連絡はしましたけど、外せない緊急の仕事とかで、公爵と副団長は今夜はこちらに来られないそうです。令嬢との外出を中断するほどですから、相当な急用なんでしょう。明日の朝には来るはずですが」
へえ、とランブラーがもの問いたげにわたしをちらと見る。誤魔化すように軽く咳払いして、わたしは頷いた。
「ウェイン卿は大丈夫です。アナベルを探すと言ってくれましたから、きっと生花店にもご一緒してくださると思いますわ」
自信を持って言い切ったけれど、ランブラーとカマユー卿は顔を見合わせ、ううむと唸った。
従兄とカマユー卿ら騎士達はきっと、広く深く、世の中を知っているのだ。人が生み出す苦しみや悲しみ。光の世界には裏側があること。雪や風や水や火が、ただ美しいだけではないように、人もまた荒ぶることを。だから、彼らは用心深い。
一方で、長く引き篭もっていたわたしは無知だ。世間知らずで、楽観的で、能天気。
それでも、わたしは自信がある。あの船に、わたしは実際に乗ったのだから。
「ねえ、お従兄さま、お仕事やなんかで辛いことがあった時、何で気を紛らわせます?」
唐突な話題の転換に、ランブラーとカマユー卿は面食らったみたいに目を丸くした。構わずにわたしは続ける。
「辛いことがあった時に助けてくれるものって、実はとても些細なものだったりしませんか? わたしにとって、それはずっと物語でした。消えてしまいたいくらい落ち込んだ時にも、たった一冊の本が読めたなら、自分はなんて幸福だろうと思えました。それでね、同じ本を、アナベルも小さいときに読んだのですって」
ああ――とランブラーが何か悟ったように柔らかく微笑する。
「それで言うと僕の救いの種は、気の置けない友人や家族と囲む、一杯のワインと一皿の食事ってところかな。一曲の音楽があったら、なお完璧」
カマユー卿を見上げると、「俺もまあ、そんなところです」と頬を緩める。
「それにね、あの船に乗っている間、いただいたお食事はびっくりするくらい美味しかったんです。豪華なものではありませんでしたけれど、甲板にテーブルを出してクロスを広げて、光を弾く海の上で揃って食事しました。ですから――わたし、今回ばかりは自信があります」
はっきりと言い切ると、ランブラーはにっこりと頷いた。
「ああ、わかったよ。僕はつい、世界の端っこの方や裏側がどうなってるか気になって、背伸びしてしまう。すると、肝心な足元を見るのを忘れちゃうんだ。つまり、リリアーナが知るアナベルの仲間たちは、青空の下で一皿の料理を囲むことの素晴らしさを知る人間たち――ってことだね」
「そうです! だから、お願い。生花店に行っても、構わないでしょう?」
少しの間を置いてから、まあいいか、とランブラーは頷いた。
「ウェイン卿とカマユー卿が一緒なら、滅多なことは起こらないだろう。……それに実を言うと、ロウブリッターもさ、カマユー卿は思うところがあるだろうけれど、僕はけっこう気に入ってたんだ」
ソファーに深く凭れて、ランブラーは長い足を優雅に組む。
「当時、僕は屋敷のことは任せきりだったから、さぞやりたい放題できただろうと思うのに、後で調べたら、彼は横領の類は一切していなかった。使用人にも公正に接していたようだし、執事としては素晴らしい働きぶりだったよ。リリアーナを連れ去ったのは間違いないけど、彼には彼なりの美学があったんだろう」
それなら――とゆっくり息を吐きながら、カマユー卿が言う。その表情が少し嬉々として見えるのは、気のせいではないだろう。
彼だって本心では、アナベルを引き留めたくてたまらないのだ。
「明日の朝、令嬢とウェイン卿と俺の三人で、生花店に行きましょう」
§
翌朝の空は、うららかに晴れ渡っていた。
活気あふれる港近くの朝市に、その小さなお店はあった。店先のバケツで、花たちが生き生きと咲き誇っている。
押し車を脇に立て掛けた白髪の女性客ににこやかに対応している長身の姿を見て、わたしは逸る気持ちを必死で抑えた。
「令嬢、あの男ですか?」
低い問いかけに小さく頷いて、わたしは足を進める。
女性客が、フランネルフラワーと薔薇で明るく仕上げた花束を受け取ったのを見計らって、声をかける。
「こんにちは」
「いらっしゃ――」
店先に立つプファウが振り返る。船の中でコックをしていた頃と、彼は少しも変わっていなかった。長身にエプロン。腕まくりしたシャツ。
わたしの姿を認めたのに、彼は落ち着いた様子でオリーブグリーンの瞳を柔らかく細める。
「――お久しぶり、令嬢」
「お久しぶりです。プファウ。お花のアレンジが、お上手ですのねえ……」
さっきの女性客に手渡していた花束は、洒落ていて凛とした気品があった。本心から感心したようにほうっと息を吐くと、プファウは優しく目尻を緩ませる。
「……手先が器用なんですよ――昔っから。まさか、令嬢の方から会いに来てくれるなんて」
穏やかな声で言いながら、彼の視線はわたしの背後へと鋭く流される。
プファウがそんな風に警戒するのも当然のことだ。彼にとってこの王都は敵地の真っ只中も同然で、わたしが一人で来るわけがないのだから。
「――よく、ここがわかりましたね?……ああ、そうか……トマス・カマユーか……しまったなあ……さっさと引き払うべきだった」
独り言ちながら小さく舌打ちしたプファウの顏から、すっと微笑が消え去った。
わたしの後ろにいる、外套を被り気配を消していたウェイン卿とカマユー卿の姿を認めたらしい。
背後に影が迫る。差し込む朝日が遮られ、生花店の床に二つの長い影を落とす。ぴりっと空気が張り詰めて、じりっと一歩、プファウは足をずらした。
振り払って合間を駆けて、人混みを利用すれば逃げ切れるか――そんな風に、彼は算段をつけているのだ、きっと。
だけど、そんなことはさせられない。ウェイン卿とプファウが揉み合うところなんか見たくない。暴力は、深い禍根を残してしまうもの。
わたしはおっとりと話し掛ける。
「ねえ、プファウ? 右手を出していただけません?」
「……?」
怪訝そうに、鋭い眼差しをわたしに向けたプファウは、それでも律儀に右手を上げかけた。そこに、ベビーピンクのリボンのかかった油紙の包みをぽんと押し付ける。
「……? 何……」
反射的にそれを握ったプファウに、わたしはにっこりと笑いかける。
「手作りのクッキーです。久しぶりにお会いできるかもかしれないと思うと心が浮き立って、プファウの為に真心を込めて作りました。さくさくになるようにレシヴェール地方産のバターを時間をかけてたっぷり泡立てて。形にも凝りましたの、待ち遠しい冬祭りをイメージして、雪の結晶に、木馬、流れ星形も。お口に合うと良いのですけれど。非常に壊れやすいものですから、お気をつけくださいね」
立て板に水を流すように一気に言い終えて、うふふと笑うと、プファウのオリーブ色の瞳が、ぱちぱちと瞬く。
「――それでね、プファウ。わたくし、切なるお願いがございまして……」
「――話を聞きたいだけだ。抵抗しないでほしい」
カマユー卿が厳しい声を放つと、唖然と目を瞠ったプファウの頬が、ひくひくと引き攣った。
「え? えええ! あ、そ、そう来たかあ………」
苦り切った声を出したプファウの視線は、クッキーの包みに注がれていた。小さな包みを右手にちょこんと乗せたまま、彼は左手で額を押さえて捨て鉢に呻いた。
「……ああもう、しょうがないなぁ……。抵抗なんかしませんよ。クッキーが壊れたら、困るんだから」
「え?」と聞き返したのと、カマユー卿がはたと口を閉じたのは同時だった。
「アナベルが花を買っていたお店を、ご存知なんですか?」
身を乗り出して問うと、カマユー卿は失言に気づいたように笑みを引き攣らせた。
「……ええ、まあ……定期的に通っていたとは知りませんでしたが、一度だけ、アナベルが花を買うところを見ました。その店の前からこの屋敷まで、一緒に帰ってきたんですよ。……白アジサイの花束で……ストランドに行く前……初夏だったかな」
言いながら、どこか懐かしそうにカマユー卿は目を細める。
「まあ……どちらのお店です?」
胸の前で腕を組んだカマユー卿は、真っ直ぐにわたしを見る。にこりと柔らかく微笑んで、彼は毅然とした口調で答えた。
「お教えできません」
「……? ど、どうしてです? アナベルの仲間がいるかも知れませんし、わたしは彼らの顏を知っています」
優しげな顔は、悠然と頷く。
「お気持ちはわかりますが、俺が話したら、令嬢はその店まで行くつもりでしょう? ですが、そこにはアナベルの仲間がいる可能性がある。……アナベルの仲間ってことは、つまり、ハイドランジアの残党だ。……そんな場所に、令嬢を行かせられるわけがない」
「はあ? カマユー卿は、あのアナベルの仲間が、わたしに何かするとでも?」
さあ――とカマユー卿はゆっくりと首を振る。
「俺が戦場以外で会ったことのあるハイドランジア人は、アナベルだけですから。……ああ、スパイで誘拐犯だったロウブリッターもか。……他の奴らがどういう人間かなんて、俺には解らない。戦場では、談笑する機会なんかありませんしね。俺はたいして真面目な騎士ではありませんが、この屋敷の護衛を任されている以上、得体の知れない相手がいる可能性がある場所に令嬢を行かせることはできません」
「…………い、意外と……頭が固くていらっしゃる……」
口を尖らせて恨みがましく言うと、カマユー卿はひっそりと微笑む。何を言っても無駄、という微笑である。
「……引き留められるかもしれないのに……アナベルを」
ちらりと見上げてその名を出すと、カマユー卿は一度瞬いた。空色の瞳が少し揺れる。カマユー卿の中で、アナベルは他の何よりも優先されるはずだ。それは間違いない。だけど、アナベルの仲間まで信用するかは別の問題、ということか。
「カマユー卿がその花屋に近づいただけで、アナベルの仲間はきっと逃げてしまいます。でも、多分ですけれど、わたしなら大丈夫です。あとそれに、ウェイン卿もアナベルを探すと言ってくれましたし」
「ウェイン卿が?」
カマユー卿はびっくりしたように目を瞠った。
「ええ、カマユー卿の元気がないことを、心配されていました」
へえ――とカマユー卿は頬を緩めた。
「あのウェイン卿が? 人の心配……? いやぁ……令嬢の力は偉大だなあ……」
茶化すように言いながら、カマユー卿はどこか嬉しそうだった。少し考えるように黙ってから、彼は口を開く。
「それなら――令嬢の婚約者であるウェイン卿と、令嬢の後見人であるロンサール伯爵、この二人がオーケーと言われたなら、生花店までご案内します」
§
「ハイドランジアの騎士か……リリアーナが行って、危なくないかな?」
問題なくオーケーと言ってくれると思ったのに、ランブラーもまた同じようなことを言った。
「まさか!? お従兄さまったら! アナベルの仲間ですよ? 危ない筈がありません」
夕方になって王宮から戻った従兄を捕まえて、今は屋敷の執務室である。
わたしと向かい合ってソファーに腰掛け、片手で仕事用のタイを緩めるランブラーはしかし、難しい顔をした。
「僕だって、アナベルが善人だってことは確信しているよ。彼女はほら、見るからに誠実そうだし、何よりリリアーナの命の恩人だしね。だけど、他の仲間はどうだろう……。敗戦国の騎士や間諜が、戦勝国の人間に対して抱く感情って、想像もできないけど……ひどく複雑なんじゃないかなぁ……」
カマユー卿もまた、物憂げな顔で頷く。
「ロウブリッターの件もあります。恨みを募らせ、第二騎士団に復讐しようとしていたわけですから。他の仲間も、油断は――」
「親切な方ばかりでした。用心する必要なんてありません。さくっとお散歩気分で参りましょう!」
明るく元気に清々しく言い切ると、ランブラーとカマユー卿は揃ってわたしを見た。
甘やかとも取れる微笑を浮かべる瞳の奥は、「うんうん、君の良いところは楽天的なところだよ」と語っている。わたしは思わず、閉じた口を尖らせた。
「出来ればやりたくありませんし、公爵と相談してからになりますけど、生花店とその周辺の店の者を全員、有無を謂わせず拘束っていう方法も――」
「ご冗談を! カマユー卿ったら! 重ねて言いますけれど、アナベルの仲間ですからね?」
「――そうだなぁ……慎重に行くべきだろうけど……。ウェイン卿はなんて?」
ランブラーが尋ねると、カマユー卿は軽く首を竦める。
「連絡はしましたけど、外せない緊急の仕事とかで、公爵と副団長は今夜はこちらに来られないそうです。令嬢との外出を中断するほどですから、相当な急用なんでしょう。明日の朝には来るはずですが」
へえ、とランブラーがもの問いたげにわたしをちらと見る。誤魔化すように軽く咳払いして、わたしは頷いた。
「ウェイン卿は大丈夫です。アナベルを探すと言ってくれましたから、きっと生花店にもご一緒してくださると思いますわ」
自信を持って言い切ったけれど、ランブラーとカマユー卿は顔を見合わせ、ううむと唸った。
従兄とカマユー卿ら騎士達はきっと、広く深く、世の中を知っているのだ。人が生み出す苦しみや悲しみ。光の世界には裏側があること。雪や風や水や火が、ただ美しいだけではないように、人もまた荒ぶることを。だから、彼らは用心深い。
一方で、長く引き篭もっていたわたしは無知だ。世間知らずで、楽観的で、能天気。
それでも、わたしは自信がある。あの船に、わたしは実際に乗ったのだから。
「ねえ、お従兄さま、お仕事やなんかで辛いことがあった時、何で気を紛らわせます?」
唐突な話題の転換に、ランブラーとカマユー卿は面食らったみたいに目を丸くした。構わずにわたしは続ける。
「辛いことがあった時に助けてくれるものって、実はとても些細なものだったりしませんか? わたしにとって、それはずっと物語でした。消えてしまいたいくらい落ち込んだ時にも、たった一冊の本が読めたなら、自分はなんて幸福だろうと思えました。それでね、同じ本を、アナベルも小さいときに読んだのですって」
ああ――とランブラーが何か悟ったように柔らかく微笑する。
「それで言うと僕の救いの種は、気の置けない友人や家族と囲む、一杯のワインと一皿の食事ってところかな。一曲の音楽があったら、なお完璧」
カマユー卿を見上げると、「俺もまあ、そんなところです」と頬を緩める。
「それにね、あの船に乗っている間、いただいたお食事はびっくりするくらい美味しかったんです。豪華なものではありませんでしたけれど、甲板にテーブルを出してクロスを広げて、光を弾く海の上で揃って食事しました。ですから――わたし、今回ばかりは自信があります」
はっきりと言い切ると、ランブラーはにっこりと頷いた。
「ああ、わかったよ。僕はつい、世界の端っこの方や裏側がどうなってるか気になって、背伸びしてしまう。すると、肝心な足元を見るのを忘れちゃうんだ。つまり、リリアーナが知るアナベルの仲間たちは、青空の下で一皿の料理を囲むことの素晴らしさを知る人間たち――ってことだね」
「そうです! だから、お願い。生花店に行っても、構わないでしょう?」
少しの間を置いてから、まあいいか、とランブラーは頷いた。
「ウェイン卿とカマユー卿が一緒なら、滅多なことは起こらないだろう。……それに実を言うと、ロウブリッターもさ、カマユー卿は思うところがあるだろうけれど、僕はけっこう気に入ってたんだ」
ソファーに深く凭れて、ランブラーは長い足を優雅に組む。
「当時、僕は屋敷のことは任せきりだったから、さぞやりたい放題できただろうと思うのに、後で調べたら、彼は横領の類は一切していなかった。使用人にも公正に接していたようだし、執事としては素晴らしい働きぶりだったよ。リリアーナを連れ去ったのは間違いないけど、彼には彼なりの美学があったんだろう」
それなら――とゆっくり息を吐きながら、カマユー卿が言う。その表情が少し嬉々として見えるのは、気のせいではないだろう。
彼だって本心では、アナベルを引き留めたくてたまらないのだ。
「明日の朝、令嬢とウェイン卿と俺の三人で、生花店に行きましょう」
§
翌朝の空は、うららかに晴れ渡っていた。
活気あふれる港近くの朝市に、その小さなお店はあった。店先のバケツで、花たちが生き生きと咲き誇っている。
押し車を脇に立て掛けた白髪の女性客ににこやかに対応している長身の姿を見て、わたしは逸る気持ちを必死で抑えた。
「令嬢、あの男ですか?」
低い問いかけに小さく頷いて、わたしは足を進める。
女性客が、フランネルフラワーと薔薇で明るく仕上げた花束を受け取ったのを見計らって、声をかける。
「こんにちは」
「いらっしゃ――」
店先に立つプファウが振り返る。船の中でコックをしていた頃と、彼は少しも変わっていなかった。長身にエプロン。腕まくりしたシャツ。
わたしの姿を認めたのに、彼は落ち着いた様子でオリーブグリーンの瞳を柔らかく細める。
「――お久しぶり、令嬢」
「お久しぶりです。プファウ。お花のアレンジが、お上手ですのねえ……」
さっきの女性客に手渡していた花束は、洒落ていて凛とした気品があった。本心から感心したようにほうっと息を吐くと、プファウは優しく目尻を緩ませる。
「……手先が器用なんですよ――昔っから。まさか、令嬢の方から会いに来てくれるなんて」
穏やかな声で言いながら、彼の視線はわたしの背後へと鋭く流される。
プファウがそんな風に警戒するのも当然のことだ。彼にとってこの王都は敵地の真っ只中も同然で、わたしが一人で来るわけがないのだから。
「――よく、ここがわかりましたね?……ああ、そうか……トマス・カマユーか……しまったなあ……さっさと引き払うべきだった」
独り言ちながら小さく舌打ちしたプファウの顏から、すっと微笑が消え去った。
わたしの後ろにいる、外套を被り気配を消していたウェイン卿とカマユー卿の姿を認めたらしい。
背後に影が迫る。差し込む朝日が遮られ、生花店の床に二つの長い影を落とす。ぴりっと空気が張り詰めて、じりっと一歩、プファウは足をずらした。
振り払って合間を駆けて、人混みを利用すれば逃げ切れるか――そんな風に、彼は算段をつけているのだ、きっと。
だけど、そんなことはさせられない。ウェイン卿とプファウが揉み合うところなんか見たくない。暴力は、深い禍根を残してしまうもの。
わたしはおっとりと話し掛ける。
「ねえ、プファウ? 右手を出していただけません?」
「……?」
怪訝そうに、鋭い眼差しをわたしに向けたプファウは、それでも律儀に右手を上げかけた。そこに、ベビーピンクのリボンのかかった油紙の包みをぽんと押し付ける。
「……? 何……」
反射的にそれを握ったプファウに、わたしはにっこりと笑いかける。
「手作りのクッキーです。久しぶりにお会いできるかもかしれないと思うと心が浮き立って、プファウの為に真心を込めて作りました。さくさくになるようにレシヴェール地方産のバターを時間をかけてたっぷり泡立てて。形にも凝りましたの、待ち遠しい冬祭りをイメージして、雪の結晶に、木馬、流れ星形も。お口に合うと良いのですけれど。非常に壊れやすいものですから、お気をつけくださいね」
立て板に水を流すように一気に言い終えて、うふふと笑うと、プファウのオリーブ色の瞳が、ぱちぱちと瞬く。
「――それでね、プファウ。わたくし、切なるお願いがございまして……」
「――話を聞きたいだけだ。抵抗しないでほしい」
カマユー卿が厳しい声を放つと、唖然と目を瞠ったプファウの頬が、ひくひくと引き攣った。
「え? えええ! あ、そ、そう来たかあ………」
苦り切った声を出したプファウの視線は、クッキーの包みに注がれていた。小さな包みを右手にちょこんと乗せたまま、彼は左手で額を押さえて捨て鉢に呻いた。
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エリーナは、伯爵家の6人目の娘として生まれましたが、幸せではありませんでした。彼女は両親からも兄姉からも無視されていました。それに才能も兄姉と比べると特に特別なところがなかったのです。そんな孤独な彼女の前に現れたのが、公爵家のヴィクトールでした。彼女のそばに支えて励ましてくれるのです。エリーナはヴィクトールに何かとほめられながら、自分の力を信じて幸せをつかむ物語です。
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