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第二部
第82話 彼らの関係
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父の執務室の扉を開けると、ヒイラギの強い香りと風が、コンスタンスの頬をひんやりと撫でた。
換気のためか、少し開いた掃き出し窓の前で、陽光をはらんだカーテンがゆらゆら揺れている。
「戻ったわ、サラ? サラ? いないの? サラ!? おかしいわね……いるはずなんだけど……どこに行ったのかしら?」
怪訝に思いながら、少し肌寒いような気がして、バルコニーに続く掃き出し窓をきつく閉じ、錠を下ろした。窓越しに、すっかり葉を落としたマロニエの木が見える。
失礼しますわ、と小さく口にしながら、後ろから友人たちが室内に足を踏み入れてくる。
「素敵な執務室ですわね」
「ええ、落ち着いた雰囲気」
「そうかしら? 父はこだわってるみたいだけど、わたしは別にふつうだと思うわ。……侍女がいるはずなんだけれど……」
軽く首を傾げて、部屋を見まわす。
「あ、皆はそちらに座ってて、寛いでいてね。ちょっと、あっちを見てくるわ」
枢密顧問官である父の執務室には、側近のための控室や、寝泊まりできるよう寝室やバスルームもついている。
サラは、母の嫁入り時からバルビエ侯爵家に仕えてくれている侍女だ。いつも溌剌としているから忘れがちだけれど、考えてみればけっこうな歳だ。
どこかの部屋で腰掛け、休憩するうち、うとうとと微睡んでいるのかもしれない。
向かい合う長椅子を勧められた友人たちが、それぞれ腰を下ろす。デリアが、細い眉を下げておっとりと言う。
「下の方はすごい騒ぎだけれど、三階まで来れば、静かなものねぇ」
ビアンカが、ふふっと笑って応える。
「そりゃそうよ、さすがの侵入者も、この宮殿には入れっこない。左ファザードには、『無敵の青竜』――第三騎士団がいるもの。まさに鉄壁よ! ここなら、マージョリーの話の続き、安心してゆっくり聞けそうね」
「あの、今日は……自分でもすこし、気持ちの整理がつけられそうに思うわ……」
マージョリーが深い溜め息をついた。伏せた睫毛が、彼女の白い頬に長い影を落としている。今日はずっと、マージョリーは肩を落としたままだ。
「まあ、いいのよ。わたしたちの方こそ、貴女とこんな風に話せて嬉しいと思ってる――ねえ、サラ!? どこにいるの?」
声をはり上げながら、寝室の扉を開けた。もし、サラがいないと、自分でお茶を淹れなくてはならない。茶葉はポットにスプーン何杯? 困った。舌が痺れるほど渋いお茶を、友人たちに振る舞う羽目に陥るかもしれない。
視線を奥に向けた途端、ぎくりと心臓が跳ねる。
サラがいた。
父が昨年、千夜一夜の国から取り寄せたふっくらした絨毯の上で、仰向けに寝そべっている。投げ出された手足は、ぴくりとも動かない。
「あ……っ!」
背中が、すうっと冷える。
黒鷹の制服を着た騎士が、サラの傍らに跪いていた。サラを見下ろしている。
その向こうに、同じ制服を着た騎士が、数人。
しかも、あれは、あの人が握っているのは、鈍く光る銀色の、剣――?
「――ひっ」
遠くで、誰かが息を呑んだ。少し遅れて、それが自分だったのだと気がつく。
――どうして?
王宮騎士が父の執務室に? しかも、抜剣? 何をしているの?
さっき、庭園で見かけた騎士たちとは、ずいぶん印象が違う。
制服が、白と黒だから……? 違う。違いは、それだけじゃない。
雰囲気、制服の着方、顔つきが――何かが、何もかもが、違う。
――違う……!
けれど、濁った鋭い目が、わたしを見据えていた。
ずっと不思議に思っていた。
どうして、ウサギは捕食者に睨まれたとき、震えるばかりでもっと必死に逃げようとしないのか。愚かだ。
生きるために、全力で抵抗すればいいのに。
――無理だ。
わたしは、逃げられない。
この身体はすでに、射程内にある。悲鳴を上げ、身を翻した瞬間、わたしは呆気なく狩られ、補食される。あの銀色の剣が、わたしの心臓を容赦なく貫くのだ。いやだ、死にたくない。だけど――
――逃げて、みんな、
友人たちは、今ならまだ助かるかもしれない。
軽やかに笑み交わす声が、背後から聞こえてくる。
彼女たちは気付いていない。ここに恐ろしい捕食者がいることを。知らせなきゃ。叫ばなきゃ。大声で。
そう思うのに、震える唇からは、はくはくと声にならない息が吐き出された。
わたしのせいだ。
あの名も知らぬ騎士に、送ってもらえば良かった。騎士なら、部屋に入る前に、何かおかしいことに気づいてくれただろう。わたし、断ってしまった。選択を間違えた。
視界が、じわりと滲む。
かたかたと小さく震え始めたわたしの肩を見て、その黒い騎士は、嬉しそうに嗤った。
「ラッキー、こりゃ上玉だな」
§
「……ここって、バルビエ侯爵の執務室で合ってるよな? 顧問官の」
トマス・カマユーとともに三階に上がって来たアルフレッド・キャリエールは、状況の把握に努めていた。
「そのはずだ」と訝しそうに答えたカマユーと頷き合い、室内の様子に視線を戻す。
「ひどい有り様だな」
長椅子の一つは横倒しにひっくり返っているし、執務机の上にあったと思われるランプと文鎮は、ふかふかのラグの上にある。
開いた掃き出し窓は大きく割れ、ピカピカに磨き上げられた大理石の床の上で、ガラスの破片がきらきらと陽光を弾いている。
吹き込んでくる風は、知らない植物の甘ったるい匂いがした。
「何があった?」と訊きながら、赤いものが点々と散る白い壁に目を凝らす。
あれはまさか、血痕だろうか?
目の前には、庭園にいた俺たちに、窓から身を乗り出して、『助けてくれ』と声をかけてきた男がいた。
――どこからどう見ても、柄の悪い破落戸だな……。
その周りで、似たような格好の男が四人、手持ち無沙汰に立っている。
アルフレッド・キャリエールには、一目でわかった。
見た目の胡乱さを差し引いても、こいつらは、怪しい。
暗がりに身を潜める深海生物のごとく、光を疎み、夜の闇に紛れて生きることを固く決めている目つきだ。
かつて自分も、同じ闇に住む貉だった。だから、わかる。
かしこまった顔をして、破落戸たちは俺たちに向かって礼儀正しく頭を下げた。
「この度は、駆けつけてもらって申し訳ない」
「いいや」とカマユーが鷹揚に首を振った。
俺は内心で首を捻っていた。
俺と違って、カマユーは代々騎士を輩出してきた健やかで真っ当な家の出である。身も心も真っ当な男、それこそが俺の知るトマス・カマユー。こいつらとの共通点は、一体何だろう。
ちょっと嬉しそうに頬を緩めて、カマユーは口を開く。
「確かに、意外ではあったよ。リーグ・ホワイト。君が俺に助けを求めてくれるとは、思ってなかった」
「ああ、それは」と目の前のリーグ・ホワイトと呼ばれた男は困惑気味に瞬いて、眉を寄せた。
薄汚れていてわかりにくいが、その顔はたぶん、けっこう整っている。
「ここにきて、収拾しかねる不測の事態が起きてさ――」
どこか疲れを滲ませて、リーグ・ホワイトは説明を始めた。
「――俺たちが、宮殿に侵入しようとしていたときのことだ……あ、言ってなかったけど、仲間たちとは、合流地点を決めてあった。左ファザードには、衛兵と騎士の目を盗んで侵入できる場所がある。実は前もって、仲間の一人が調べてたんだ」
別の破落戸が、引き継ぐ。
「余計なお世話を承知の上で言うけど、そこの登りやすいマロニエの枝は、早いとこ切った方がいい。小道の向こうの樅ノ木が陰を作っていて、見張りから完全に死角になってる。それから、三階とは言え、窓を開けっ放しにしておくのは、あまりお勧めしないね」
なんで王宮騎士の俺たちが、破落戸から防犯指導を受けている。
内心でますます首を捻ったが、先が気になるので、キャリエールは黙っておくことにした。
カマユーが空色の瞳を細め、「なるほど」と短く頷く。
「で、ここからが本題なんだが、その死角の存在に気付いていたのは、俺たちだけじゃなかったらしい。ちょっと、こっちを見てくれ」
そう言って、リーグ・ホワイトは扉のひとつを軽く顎でしゃくった。
担当が違う左ファザードには、あまり足を踏み入れる機会がない。しかし、王宮内の造りは右も左も似通っている。たぶん、そこは使用人のための控え室だろう。
そして、向こうの扉は寝室――先程から扉の向こうに、人がいる気配を感じていた。
リーグ・ホワイトが迷いのない手つきで開けたのは、控室のドアの方だった。
ぎょっとして、足を止める。
「なんだこれは!」とカマユーまで声を荒げた。
控え室では、第二騎士団の騎士が、シーツで簀巻きにされ、芋虫のようにごろごろと木製の床に転がっていた。
リーグ・ホワイトは平然と肩を竦めた。
「偽物だよ。制服はそっくり君らのと同じに見えるけど、顔見てみろ。知り合いじゃないだろ」
言われて、顔を覗き込む。
「ほんとだ。誰だこいつら?」
俺が誰ともなしに問うと、破落戸の一人が頷いて答えた。
「修道士の頭巾党だ。気絶させる前に話を聞いたから、間違いないと思う。騎士に変装して王宮に侵入して、男を一人、処理する手筈だったらしい」
「途中で寄り道したみたいだけど」呆れた声で、破落戸の一人が付け足した。
第二騎士団の制服を着た男たちは、全部で五人いた。
その話を聞くために、ずいぶん優しく扱われたのだろう。
白目を剥き、額や鼻から血を流している男たちの唇は、所々切れて、紫色に腫れ上がっている。さっきの血痕は、こいつらのものだろうか。なんとなく、嫌な予感がした。
リーグ・ホワイトが冷静な声で、説明を続ける。
「修道士の手下は、オウミとアナベルが全員仕留めるはずだったが、侵入ルートが二手に分かれていたらしい。こっちは五人。残りは、向こうで何とかしているはずだから……王宮に侵入した修道士の頭巾党は、これで全部だと思う。あとは君らで、煮るなり焼くなり好きにしてやってくれ」
「……お前たち、アナベルの仲間なのか」
カマユーと破落戸をゆっくり見比べながら、俺は訊いた。
レディ・リリアーナと仲の良かった、あの銀髪の線の細い侍女が、実はロウブリッターの仲間であったことまでは聞き及んでいる。
しかし、その後何がどうなったのか、まったく訳がわからなかった。
カマユーは平然として、修道士の手下たちの顏を検分している。あらかた承知しているらしい。
リーグ・ホワイトはあっさりと頷く。
「そうだ、俺たちは、アナベルとレオ……ロウブリッターの仲間だよ。ロンサール姉妹の平和と安定のために、今は動いている」
「そうか」と俺は緊張を解いた。「なら確かに、俺たちの敵じゃないな」
破落戸たちが、揃って真顔でこっちを見た。少し間があってから、「どうかな」と一人が唇を歪めて言った。
リーグ・ホワイトが、目を逸らして首裏を掻く。
「まあそれで、ここからが本当の本題なんだが……」
五人の破落戸は、視線をもうひとつの扉に向けた。リーグが潜めた声で続ける。
「俺たちがなんでここにいるかって言うと、別のバルコニーに隠れていたら、悲鳴らしきものが聞こえたからだ」
「悲鳴?」
「そう、悲鳴っぽいものが聞こえた。俺たちの目的地はこの部屋じゃなかったんだけど、無視できないだろう? で、そこの掃き出し窓から中を覗いたら――」と今度は硝子の割れた掃き出し窓を指し示す。
「――若い令嬢たちが、黒鷹の騎士に襲われているところだった」
「なんだって?」
唖然と声を揃えたカマユーと俺に、いやあ――と言いにくそうに、破落戸の一人が、いっそう声を潜める。
「未遂だ。押し倒されても女性たちは抵抗していたし、窓が開かないから叩き割って……とにかく、すぐに止めさせたから」
「当たり前だ!」と俺は叫んだ。
息苦しい。胸の中を、ぞわぞわと虫がはいずり回るような。
蘇ってしまう。
『往来のど真ん中で女性に乱暴しようとして、抵抗されたから、撃ち殺した』男の記憶が。
怒りや嫌悪といった類いのまともな感情を通り越し、言い様のないどす黒い感情がこみ上げて、それは控室で転がる男たちに向いた。
今すぐ剣を抜いて、あの男たちをバスルームに引き摺って行くのはどうだろう。喉を切り裂いて、汚れきった血をぜんぶ抜いてしまえばいい。そうしたら、この体に半分流れる狂った血を、薄められるんじゃないか。
カマユーが、俺の肩をぽんぽんと二回叩いた。はたと我に返る。
「それで、その女性たちは?」
リーグ・ホワイトが、視線だけで寝室の扉を差す。
「令嬢方は、向こうの部屋にいる。侍女殿と一緒に。乱れた服装を直してくるって」
令嬢たち、ということは、コンスタンス・バルビエ侯爵令嬢と友人だろうか。
人の気配や衣擦れの音が聞こえてきそうな扉を見る。
か弱い令嬢たちは今、声を殺して泣いているのだろうか。安全なはずの場所で、嵐のような暴力に遭遇した。今にも卒倒しそうな身をかき抱き、奮い立たせているのかもしれない。
黙っている俺たちを見て、リーグ・ホワイトは影の差す神妙な顔で続ける。
「そんなわけだから、後を頼みたい」
「……ああ、おおむね理解した。男達のことは任せてくれ。王宮に侵入の上、令嬢たちを襲った修道士の頭巾党のメンバーか……重い刑は免れない」
「令嬢に悪い噂が立つといけないから、ちゃんと箝口令を敷く。最小限の人員で、屋敷まで送り届けるよ。だけど、君らは――」
「いや、その……まあ、それもそうなんだけど――」
リーグ・ホワイトが頬を引き攣らせて何か言いかけると、破落戸の一人が、リーグの背を叩いてそれを遮った。
「おい、時間を取りすぎだ。そろそろ行こう――」
がちゃり、と扉が開く音が響く。
「しまっ……!」
リーグ・ホワイトたちの身体が、途端にぴしっと強張った。わざとらしいほど煤けたその顔が、狼狽えたようにも見えた。
鈴を鳴らすような声が、寝室から響く。
「さあ皆様! 準備はお済みかしら?――あら? 新しいお客様かしら?」
換気のためか、少し開いた掃き出し窓の前で、陽光をはらんだカーテンがゆらゆら揺れている。
「戻ったわ、サラ? サラ? いないの? サラ!? おかしいわね……いるはずなんだけど……どこに行ったのかしら?」
怪訝に思いながら、少し肌寒いような気がして、バルコニーに続く掃き出し窓をきつく閉じ、錠を下ろした。窓越しに、すっかり葉を落としたマロニエの木が見える。
失礼しますわ、と小さく口にしながら、後ろから友人たちが室内に足を踏み入れてくる。
「素敵な執務室ですわね」
「ええ、落ち着いた雰囲気」
「そうかしら? 父はこだわってるみたいだけど、わたしは別にふつうだと思うわ。……侍女がいるはずなんだけれど……」
軽く首を傾げて、部屋を見まわす。
「あ、皆はそちらに座ってて、寛いでいてね。ちょっと、あっちを見てくるわ」
枢密顧問官である父の執務室には、側近のための控室や、寝泊まりできるよう寝室やバスルームもついている。
サラは、母の嫁入り時からバルビエ侯爵家に仕えてくれている侍女だ。いつも溌剌としているから忘れがちだけれど、考えてみればけっこうな歳だ。
どこかの部屋で腰掛け、休憩するうち、うとうとと微睡んでいるのかもしれない。
向かい合う長椅子を勧められた友人たちが、それぞれ腰を下ろす。デリアが、細い眉を下げておっとりと言う。
「下の方はすごい騒ぎだけれど、三階まで来れば、静かなものねぇ」
ビアンカが、ふふっと笑って応える。
「そりゃそうよ、さすがの侵入者も、この宮殿には入れっこない。左ファザードには、『無敵の青竜』――第三騎士団がいるもの。まさに鉄壁よ! ここなら、マージョリーの話の続き、安心してゆっくり聞けそうね」
「あの、今日は……自分でもすこし、気持ちの整理がつけられそうに思うわ……」
マージョリーが深い溜め息をついた。伏せた睫毛が、彼女の白い頬に長い影を落としている。今日はずっと、マージョリーは肩を落としたままだ。
「まあ、いいのよ。わたしたちの方こそ、貴女とこんな風に話せて嬉しいと思ってる――ねえ、サラ!? どこにいるの?」
声をはり上げながら、寝室の扉を開けた。もし、サラがいないと、自分でお茶を淹れなくてはならない。茶葉はポットにスプーン何杯? 困った。舌が痺れるほど渋いお茶を、友人たちに振る舞う羽目に陥るかもしれない。
視線を奥に向けた途端、ぎくりと心臓が跳ねる。
サラがいた。
父が昨年、千夜一夜の国から取り寄せたふっくらした絨毯の上で、仰向けに寝そべっている。投げ出された手足は、ぴくりとも動かない。
「あ……っ!」
背中が、すうっと冷える。
黒鷹の制服を着た騎士が、サラの傍らに跪いていた。サラを見下ろしている。
その向こうに、同じ制服を着た騎士が、数人。
しかも、あれは、あの人が握っているのは、鈍く光る銀色の、剣――?
「――ひっ」
遠くで、誰かが息を呑んだ。少し遅れて、それが自分だったのだと気がつく。
――どうして?
王宮騎士が父の執務室に? しかも、抜剣? 何をしているの?
さっき、庭園で見かけた騎士たちとは、ずいぶん印象が違う。
制服が、白と黒だから……? 違う。違いは、それだけじゃない。
雰囲気、制服の着方、顔つきが――何かが、何もかもが、違う。
――違う……!
けれど、濁った鋭い目が、わたしを見据えていた。
ずっと不思議に思っていた。
どうして、ウサギは捕食者に睨まれたとき、震えるばかりでもっと必死に逃げようとしないのか。愚かだ。
生きるために、全力で抵抗すればいいのに。
――無理だ。
わたしは、逃げられない。
この身体はすでに、射程内にある。悲鳴を上げ、身を翻した瞬間、わたしは呆気なく狩られ、補食される。あの銀色の剣が、わたしの心臓を容赦なく貫くのだ。いやだ、死にたくない。だけど――
――逃げて、みんな、
友人たちは、今ならまだ助かるかもしれない。
軽やかに笑み交わす声が、背後から聞こえてくる。
彼女たちは気付いていない。ここに恐ろしい捕食者がいることを。知らせなきゃ。叫ばなきゃ。大声で。
そう思うのに、震える唇からは、はくはくと声にならない息が吐き出された。
わたしのせいだ。
あの名も知らぬ騎士に、送ってもらえば良かった。騎士なら、部屋に入る前に、何かおかしいことに気づいてくれただろう。わたし、断ってしまった。選択を間違えた。
視界が、じわりと滲む。
かたかたと小さく震え始めたわたしの肩を見て、その黒い騎士は、嬉しそうに嗤った。
「ラッキー、こりゃ上玉だな」
§
「……ここって、バルビエ侯爵の執務室で合ってるよな? 顧問官の」
トマス・カマユーとともに三階に上がって来たアルフレッド・キャリエールは、状況の把握に努めていた。
「そのはずだ」と訝しそうに答えたカマユーと頷き合い、室内の様子に視線を戻す。
「ひどい有り様だな」
長椅子の一つは横倒しにひっくり返っているし、執務机の上にあったと思われるランプと文鎮は、ふかふかのラグの上にある。
開いた掃き出し窓は大きく割れ、ピカピカに磨き上げられた大理石の床の上で、ガラスの破片がきらきらと陽光を弾いている。
吹き込んでくる風は、知らない植物の甘ったるい匂いがした。
「何があった?」と訊きながら、赤いものが点々と散る白い壁に目を凝らす。
あれはまさか、血痕だろうか?
目の前には、庭園にいた俺たちに、窓から身を乗り出して、『助けてくれ』と声をかけてきた男がいた。
――どこからどう見ても、柄の悪い破落戸だな……。
その周りで、似たような格好の男が四人、手持ち無沙汰に立っている。
アルフレッド・キャリエールには、一目でわかった。
見た目の胡乱さを差し引いても、こいつらは、怪しい。
暗がりに身を潜める深海生物のごとく、光を疎み、夜の闇に紛れて生きることを固く決めている目つきだ。
かつて自分も、同じ闇に住む貉だった。だから、わかる。
かしこまった顔をして、破落戸たちは俺たちに向かって礼儀正しく頭を下げた。
「この度は、駆けつけてもらって申し訳ない」
「いいや」とカマユーが鷹揚に首を振った。
俺は内心で首を捻っていた。
俺と違って、カマユーは代々騎士を輩出してきた健やかで真っ当な家の出である。身も心も真っ当な男、それこそが俺の知るトマス・カマユー。こいつらとの共通点は、一体何だろう。
ちょっと嬉しそうに頬を緩めて、カマユーは口を開く。
「確かに、意外ではあったよ。リーグ・ホワイト。君が俺に助けを求めてくれるとは、思ってなかった」
「ああ、それは」と目の前のリーグ・ホワイトと呼ばれた男は困惑気味に瞬いて、眉を寄せた。
薄汚れていてわかりにくいが、その顔はたぶん、けっこう整っている。
「ここにきて、収拾しかねる不測の事態が起きてさ――」
どこか疲れを滲ませて、リーグ・ホワイトは説明を始めた。
「――俺たちが、宮殿に侵入しようとしていたときのことだ……あ、言ってなかったけど、仲間たちとは、合流地点を決めてあった。左ファザードには、衛兵と騎士の目を盗んで侵入できる場所がある。実は前もって、仲間の一人が調べてたんだ」
別の破落戸が、引き継ぐ。
「余計なお世話を承知の上で言うけど、そこの登りやすいマロニエの枝は、早いとこ切った方がいい。小道の向こうの樅ノ木が陰を作っていて、見張りから完全に死角になってる。それから、三階とは言え、窓を開けっ放しにしておくのは、あまりお勧めしないね」
なんで王宮騎士の俺たちが、破落戸から防犯指導を受けている。
内心でますます首を捻ったが、先が気になるので、キャリエールは黙っておくことにした。
カマユーが空色の瞳を細め、「なるほど」と短く頷く。
「で、ここからが本題なんだが、その死角の存在に気付いていたのは、俺たちだけじゃなかったらしい。ちょっと、こっちを見てくれ」
そう言って、リーグ・ホワイトは扉のひとつを軽く顎でしゃくった。
担当が違う左ファザードには、あまり足を踏み入れる機会がない。しかし、王宮内の造りは右も左も似通っている。たぶん、そこは使用人のための控え室だろう。
そして、向こうの扉は寝室――先程から扉の向こうに、人がいる気配を感じていた。
リーグ・ホワイトが迷いのない手つきで開けたのは、控室のドアの方だった。
ぎょっとして、足を止める。
「なんだこれは!」とカマユーまで声を荒げた。
控え室では、第二騎士団の騎士が、シーツで簀巻きにされ、芋虫のようにごろごろと木製の床に転がっていた。
リーグ・ホワイトは平然と肩を竦めた。
「偽物だよ。制服はそっくり君らのと同じに見えるけど、顔見てみろ。知り合いじゃないだろ」
言われて、顔を覗き込む。
「ほんとだ。誰だこいつら?」
俺が誰ともなしに問うと、破落戸の一人が頷いて答えた。
「修道士の頭巾党だ。気絶させる前に話を聞いたから、間違いないと思う。騎士に変装して王宮に侵入して、男を一人、処理する手筈だったらしい」
「途中で寄り道したみたいだけど」呆れた声で、破落戸の一人が付け足した。
第二騎士団の制服を着た男たちは、全部で五人いた。
その話を聞くために、ずいぶん優しく扱われたのだろう。
白目を剥き、額や鼻から血を流している男たちの唇は、所々切れて、紫色に腫れ上がっている。さっきの血痕は、こいつらのものだろうか。なんとなく、嫌な予感がした。
リーグ・ホワイトが冷静な声で、説明を続ける。
「修道士の手下は、オウミとアナベルが全員仕留めるはずだったが、侵入ルートが二手に分かれていたらしい。こっちは五人。残りは、向こうで何とかしているはずだから……王宮に侵入した修道士の頭巾党は、これで全部だと思う。あとは君らで、煮るなり焼くなり好きにしてやってくれ」
「……お前たち、アナベルの仲間なのか」
カマユーと破落戸をゆっくり見比べながら、俺は訊いた。
レディ・リリアーナと仲の良かった、あの銀髪の線の細い侍女が、実はロウブリッターの仲間であったことまでは聞き及んでいる。
しかし、その後何がどうなったのか、まったく訳がわからなかった。
カマユーは平然として、修道士の手下たちの顏を検分している。あらかた承知しているらしい。
リーグ・ホワイトはあっさりと頷く。
「そうだ、俺たちは、アナベルとレオ……ロウブリッターの仲間だよ。ロンサール姉妹の平和と安定のために、今は動いている」
「そうか」と俺は緊張を解いた。「なら確かに、俺たちの敵じゃないな」
破落戸たちが、揃って真顔でこっちを見た。少し間があってから、「どうかな」と一人が唇を歪めて言った。
リーグ・ホワイトが、目を逸らして首裏を掻く。
「まあそれで、ここからが本当の本題なんだが……」
五人の破落戸は、視線をもうひとつの扉に向けた。リーグが潜めた声で続ける。
「俺たちがなんでここにいるかって言うと、別のバルコニーに隠れていたら、悲鳴らしきものが聞こえたからだ」
「悲鳴?」
「そう、悲鳴っぽいものが聞こえた。俺たちの目的地はこの部屋じゃなかったんだけど、無視できないだろう? で、そこの掃き出し窓から中を覗いたら――」と今度は硝子の割れた掃き出し窓を指し示す。
「――若い令嬢たちが、黒鷹の騎士に襲われているところだった」
「なんだって?」
唖然と声を揃えたカマユーと俺に、いやあ――と言いにくそうに、破落戸の一人が、いっそう声を潜める。
「未遂だ。押し倒されても女性たちは抵抗していたし、窓が開かないから叩き割って……とにかく、すぐに止めさせたから」
「当たり前だ!」と俺は叫んだ。
息苦しい。胸の中を、ぞわぞわと虫がはいずり回るような。
蘇ってしまう。
『往来のど真ん中で女性に乱暴しようとして、抵抗されたから、撃ち殺した』男の記憶が。
怒りや嫌悪といった類いのまともな感情を通り越し、言い様のないどす黒い感情がこみ上げて、それは控室で転がる男たちに向いた。
今すぐ剣を抜いて、あの男たちをバスルームに引き摺って行くのはどうだろう。喉を切り裂いて、汚れきった血をぜんぶ抜いてしまえばいい。そうしたら、この体に半分流れる狂った血を、薄められるんじゃないか。
カマユーが、俺の肩をぽんぽんと二回叩いた。はたと我に返る。
「それで、その女性たちは?」
リーグ・ホワイトが、視線だけで寝室の扉を差す。
「令嬢方は、向こうの部屋にいる。侍女殿と一緒に。乱れた服装を直してくるって」
令嬢たち、ということは、コンスタンス・バルビエ侯爵令嬢と友人だろうか。
人の気配や衣擦れの音が聞こえてきそうな扉を見る。
か弱い令嬢たちは今、声を殺して泣いているのだろうか。安全なはずの場所で、嵐のような暴力に遭遇した。今にも卒倒しそうな身をかき抱き、奮い立たせているのかもしれない。
黙っている俺たちを見て、リーグ・ホワイトは影の差す神妙な顔で続ける。
「そんなわけだから、後を頼みたい」
「……ああ、おおむね理解した。男達のことは任せてくれ。王宮に侵入の上、令嬢たちを襲った修道士の頭巾党のメンバーか……重い刑は免れない」
「令嬢に悪い噂が立つといけないから、ちゃんと箝口令を敷く。最小限の人員で、屋敷まで送り届けるよ。だけど、君らは――」
「いや、その……まあ、それもそうなんだけど――」
リーグ・ホワイトが頬を引き攣らせて何か言いかけると、破落戸の一人が、リーグの背を叩いてそれを遮った。
「おい、時間を取りすぎだ。そろそろ行こう――」
がちゃり、と扉が開く音が響く。
「しまっ……!」
リーグ・ホワイトたちの身体が、途端にぴしっと強張った。わざとらしいほど煤けたその顔が、狼狽えたようにも見えた。
鈴を鳴らすような声が、寝室から響く。
「さあ皆様! 準備はお済みかしら?――あら? 新しいお客様かしら?」
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