『愛に狂う香り、愛を選ぶ香り ――離婚から始まる私の香り』

夢窓(ゆめまど)

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香りが届くはずのない場所

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夜の香防室は、外界から完全に切り離されていた。

香りを遮断する結界は、音も気配も柔らかく呑み込み、室内には紙をめくる微かな音だけが残っている。

クリスティンは長机に広げた調香ノートを指でなぞりながら、思案するように首を傾げていた。
隣ではルシオンが無言でペンを走らせている。

「ねぇ、ルシオン。私って……天然だと思われているのかしら」

あまりに唐突な問いに、ルシオンのペン先が止まった。
すぐに答えず、言葉を選ぶような、妙に長い沈黙が落ちる。

「……思われている、というより……」

歯切れの悪い声に、クリスティンは肩をすくめた。

「違うわよ。私は天然じゃないわ。ただ、自分が“やや無理なタイプ”だって気づいてないだけ」

ルシオンは眉をひそめる。

「……誰にとって、無理なんだ」

クリスティンはさも当然のように答えた。

「初恋のジャルディンにとってよ。だって、あの人最初から私に惚れていたでしょう?
でも私は平然としていて……どうにもならなくて、歪んだのよ、きっと」

次の瞬間、椅子がぎしりと音を立て、ルシオンの体が大きく揺れた。
転げ落ちそうになるのを、机に手をついてどうにか踏みとどまる。

「……クリスティン。それは“やや無理”なんて生易しい話じゃない」

彼は深く息を吸い、真顔で言い切った。

「彼の心臓も魂も、全部君中心だ。
もう引き返せないところまで行ってる。完全に、手遅れだ」

クリスティンはきょとんと目を瞬かせた。

「……そうなの?」

「そうだ」

即答だった。
(どうしてこの人は、自分が“人生の原点”だった事実を、ここまで軽く扱えるんだ……)
ルシオンは内心で頭を抱える。

そのときだった。

空気が、わずかに揺れた。

風ではない。
魔力の波でもない。
“香り”が、薄く水面に落ちたような違和感。

本来、この香防室には一滴たりとも入り込めないはずの、匂いの輪郭。
それが、結界の表面をなぞるように、かすかに波紋を広げた。

ルシオンの表情が一変する。

「……クリスティン、こっちへ」

反射的に彼女の腕を引き、背中に庇った。
突然距離が縮まり、クリスティンの心臓が強く跳ねる。

結界が、もう一度、静かに震えた。

誰かが――
“香り”で、ここを探っている。

そして、その香りの癖を、二人は知っていた。

ジャルディン。
黒香師が、香防室の外に立っている。



香防室の外で、誰かが香りを放っていた。

低く、甘く、そして歪んだ香り。
それは夜気に溶けながら、執着の熱だけを残して結界へと触れてくる。

――ジャルディンの香だ。

本来であれば、香防室の結界は一切の匂いを通さない。
だが今夜に限って、結界の表面が水面のように揺らいでいた。

壁の向こうから、囁くような声が届く。

「……会いたいな、クリスティン」

距離の感覚が狂う。
外にいるはずなのに、まるで耳元で囁かれたようだった。

クリスティンの背筋を冷たいものが走る。
胸がきゅっと縮まり、無意識に一歩下がった。

ルシオンは即座に異変を察した。
結界に手をかざし、信じられないものを見るように顔色を変える。

香りで結界を押す――
それは黒香師の禁忌。
理論上、あり得ない行為だった。

「どうして遮るんだ、クリスティン。
こんなに近くにいるのに」

香りの波が、壁をなぞるように広がる。
結界が軋む音が、はっきりと聞こえた。

ルシオンは迷わず彼女を引き寄せ、背中に庇う。

「近づくな。
声を返すな。
あいつは、香りで扉を開けるつもりだ」

クリスティンの心臓が、初めて“恐怖”で強く脈打った。

自分ひとりを求めて、
世界の理を歪めるほど狂った男がいる。
その現実が、重くのしかかる。

彼は、ただ恋をしただけではない。
クリスティンが、彼の人生そのものだったのだ。

(……私は、本当に
“やや無理なタイプ”なんて次元じゃなかったのね)

その瞬間。

胸の奥で、何かが弾けた。

熱く、澄んだ感覚。
長い間、静かに眠っていた“核”が、はっきりと目を覚ました。

「迎えに来たんだ。
花園は完成した。
二人きりで、永遠に生きよう」

結界が悲鳴を上げる。
香防室が破られる――誰も想定していなかった事態。

だが、クリスティンは恐怖に呑まれなかった。

一歩、前へ出る。

ルシオンが制止しかけた腕を、やさしく外した。

「私は囚われない」

その声は震えていない。
静かで、澄み切っていた。

「誰かに飾られて、閉じ込められて、
その人だけを愛する女にはならない」

胸に手を当てる。

「恋をすることはあるわ。
好きになることもあるでしょう。
でも――選ぶのは、私」

言葉が落ちた瞬間、
彼女の掌から、白く透明な“何か”が舞い上がった。

光ではない。
香りだ。

軽やかで、清らかで、
それでいて圧倒的な意志を持つ香り。

自由の香り。

それは結界の内側を満たし、
扉へ向かって静かに流れていく。

狂気の香りと正面からぶつかり合った。

空気が震え、圧力が拮抗する。
そして――押し返す。

外側から、初めて戸惑いと怯えを含んだ声が漏れた。

「……そんな香り……
そんな強さを……俺に向けないで……」

敗北の気配が、はっきりと混じる。

クリスティンの香りは、容赦なく外を覆い、
歪んだ執着を引き剥がしていった。

結界の震えが止まる。
外の気配が、砂のように消えていく。

撤退――
それを悟ったとき、香防室は静寂を取り戻していた。

ルシオンは深く息を吐いた。

「……君は、本当に自由だな」

感嘆と、呆れと、胸の奥の微かな痛みを押し隠した声だった。

クリスティンは首をかしげ、穏やかに微笑む。

「私は、私の人生を生きるだけよ」

その香りは、
誰のものにもならない女の香りだった。
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