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Yukito: 君のことが好きだ。
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後を追う足音はすぐに聞こえなくなったが、足を止めるのが怖くて新宿の街を闇雲に歩きながら、流しのタクシーを拾ってアパートへ帰った。
コーポアマノの前でタクシーを降りると、なんだか甘い匂いが漂っている。
階段を昇るごとにその匂いが強くなった。砂糖とバターの溶け合った濃く甘い匂い。
その匂いに釣られるように、行人は202号室の扉を開いた。
ぱたぱたと足音がして、のぞき窓から来訪者を確認する気配の後、すぐに扉が開いた。
「ユキ!」
空乃は満面の笑顔だ。空乃は毎朝行人の部屋に来るが、行人が自ら空乃の部屋を訪れることはあまりない。
「どしたん? 仕事帰り?」
エプロン姿の空乃は喋りながら行人の顔を見て、眉を曇らせた。
その場でがばりと抱きしめられる。
首筋から立ち上る柑橘系の香りが鼻をくすぐった。空乃の匂いだ。
「外でこういうことするなよ」
普段なら口をついて出るそんな抗議は出てこなかった。
温もりと、守るように抱きしめる腕の強さが心地よくて、行人は空乃の肩口に額を押しつけた。
「ユキ、やっぱなんかあった?」
「……」
「急にうち来るし、顔色悪いし、ハグしても暴れねえし」
指摘されて、そうか俺は怖かったんだと思い知る。
あの男の剥き出しの欲望が怖くて、かつてそれを受け入れていた自分が気持ち悪い。
行人は静かに息を吐いた。
「…少し、嫌なことがあっただけだ」
「そっか」
頷いて、空乃は行人を抱きしめたまま一歩後退し、ドアを閉めた。背中をとんとんと叩かれる。
「んじゃ、落ち着くまでな」
これではどちらが大人か分からない。
心の中で十数える間だけ甘えて、行人は顔を上げた。
「落ち着いた?」
「ん。ありがとう。おまえ、体温高いんだな」
「10代だかんな。な、ユキちゃん、腹減らねえ?」
そういえば夕食を取っていない。ビール一杯の後に歩き回ったので、意識すると腹がくうっと鳴った。
「空いてる」
素直に言うと、空乃はにかっと笑った。
「パウンドケーキ、味見してよ」
甘い匂いの正体はこれだったのか。
「うま」
厚めに切られたパウンドケーキを一口食べて思わず呟くと、空乃は得意げな表情になる。
「良かった。本当はちょっと寝かした方が味がなじむらしいんだけど」
空乃はそう言うが、焼き立ての熱いパウンドケーキはしっとりと香ばしく、控えめな甘さに心がほぐれる。
弁当は作るしケーキは焼くし、すごいな、最近の男子高校生は。いや、空乃が特別なのか。
行人は二口三口とケーキを平らげていく。
「すごく美味いよ。これ、紅茶?」
ケーキの断面には葉が散っていて、花のような香りがする。
「姉さんから土産に貰ったやつ。TWGって知ってる?」
「ああ、シンガポールの」
空乃の姉はシンガポール航空のCAをしていると以前話していた。
行人の兄の恵介もシンガポールで勤務しているので、その話を聞いた時は、小さい国だから知らずにすれ違ってるかもな等と盛り上がった。
「高級品じゃないのか? なんだか勿体ないな」
「2人じゃ飲みきれない量あるから、いいんだよ」
立ち上がった空乃は流しの戸棚を開けてみせる。円筒形の黄色い紅茶缶が4つ。確かに消費に時間がかかりそうだ。
ケーキをお代わりして濃いコーヒーを飲むと、強張っていた身体がほぐれる。コーヒーの湯気にほうっと溜め息をつくと、空乃が微笑んだ。
「落ち着いた?」
「うん。美味かった。ご馳走様」
「お粗末様。ユキちゃん、嫌なことはさっさと忘れちまえよ」
嫌なのは、マサシに絡まれたこと自体ではない。あんな絡まれ方をされるようなことをしてきた自分自身が嫌なのだ。
食器を下げるために立ち上がった空乃に追いすがるように、そのシャツの裾を掴んだ。
「ユキちゃん?」
「さっき、2人じゃ飲み切れないって」
「ああ、紅茶の話?」
「2人って、俺、なんだよな」
空乃は食器をテーブルに戻して、行人に向き直った。しょうがねえなあというように苦笑している。
「ユキ、まだそんなこと言ってんの?」
「……」
「何回告れば、分かってもらえんだか。待つって決めたから、待つけどさ」
顔が上げられない。うつむいた頭の上から、ぼやくような空乃の声が降ってくる。
「空乃。ごめん」
「ユキ?」
「ごめん」
「なんで謝んの。なに、俺、今フラれんの?」
空乃の声に焦りがまじる。
違う。振るなんて、そんなわけない。だって、こんなに。俺は、こんなに。
「君のことが好きだ」
絞り出すように言うと、自分が発した言葉の意味に心臓が波打つ。体温が上がって、顔に血が昇った。
「知ってる」
突然の告白にそう答えると、空乃は行人の頬を両手で包んだ。上を向かされ、空乃と目が合う。
色素の薄い目を細め、照れたように笑っている。
「知ってるし、分かってる。俺はユキが好きで、ユキも俺のことを好きになってくれて、でもユキは俺と付き合うことを怖がってるのも」
触れられた頬から体温が伝わってくる。頬と、目元が熱い。
「空乃、ごめん」
「だから謝んなって」
ぱちんと両手で頬を叩かれる。
好きだという気持ちに、愛おしさや苦しさや後悔が混じり合って、息が苦しい。涙ぐむ行人の目元に口づけてから、空乃は続けた。
「あんたが昔の男忘れられないのとか、遊び人やってたのめちゃめちゃ後悔してることとか、自分と付き合ったら俺の未来ぶち壊すとか勘違いしてることとか、分かってる。俺が待つって言ったのは、そういうの全部分かって、待つって言ってんだよ」
行人は瞬く。溜まっていた涙が頬を伝った。
報いたい。空乃の真摯さと誠実さに。
強くそう思った。
コーポアマノの前でタクシーを降りると、なんだか甘い匂いが漂っている。
階段を昇るごとにその匂いが強くなった。砂糖とバターの溶け合った濃く甘い匂い。
その匂いに釣られるように、行人は202号室の扉を開いた。
ぱたぱたと足音がして、のぞき窓から来訪者を確認する気配の後、すぐに扉が開いた。
「ユキ!」
空乃は満面の笑顔だ。空乃は毎朝行人の部屋に来るが、行人が自ら空乃の部屋を訪れることはあまりない。
「どしたん? 仕事帰り?」
エプロン姿の空乃は喋りながら行人の顔を見て、眉を曇らせた。
その場でがばりと抱きしめられる。
首筋から立ち上る柑橘系の香りが鼻をくすぐった。空乃の匂いだ。
「外でこういうことするなよ」
普段なら口をついて出るそんな抗議は出てこなかった。
温もりと、守るように抱きしめる腕の強さが心地よくて、行人は空乃の肩口に額を押しつけた。
「ユキ、やっぱなんかあった?」
「……」
「急にうち来るし、顔色悪いし、ハグしても暴れねえし」
指摘されて、そうか俺は怖かったんだと思い知る。
あの男の剥き出しの欲望が怖くて、かつてそれを受け入れていた自分が気持ち悪い。
行人は静かに息を吐いた。
「…少し、嫌なことがあっただけだ」
「そっか」
頷いて、空乃は行人を抱きしめたまま一歩後退し、ドアを閉めた。背中をとんとんと叩かれる。
「んじゃ、落ち着くまでな」
これではどちらが大人か分からない。
心の中で十数える間だけ甘えて、行人は顔を上げた。
「落ち着いた?」
「ん。ありがとう。おまえ、体温高いんだな」
「10代だかんな。な、ユキちゃん、腹減らねえ?」
そういえば夕食を取っていない。ビール一杯の後に歩き回ったので、意識すると腹がくうっと鳴った。
「空いてる」
素直に言うと、空乃はにかっと笑った。
「パウンドケーキ、味見してよ」
甘い匂いの正体はこれだったのか。
「うま」
厚めに切られたパウンドケーキを一口食べて思わず呟くと、空乃は得意げな表情になる。
「良かった。本当はちょっと寝かした方が味がなじむらしいんだけど」
空乃はそう言うが、焼き立ての熱いパウンドケーキはしっとりと香ばしく、控えめな甘さに心がほぐれる。
弁当は作るしケーキは焼くし、すごいな、最近の男子高校生は。いや、空乃が特別なのか。
行人は二口三口とケーキを平らげていく。
「すごく美味いよ。これ、紅茶?」
ケーキの断面には葉が散っていて、花のような香りがする。
「姉さんから土産に貰ったやつ。TWGって知ってる?」
「ああ、シンガポールの」
空乃の姉はシンガポール航空のCAをしていると以前話していた。
行人の兄の恵介もシンガポールで勤務しているので、その話を聞いた時は、小さい国だから知らずにすれ違ってるかもな等と盛り上がった。
「高級品じゃないのか? なんだか勿体ないな」
「2人じゃ飲みきれない量あるから、いいんだよ」
立ち上がった空乃は流しの戸棚を開けてみせる。円筒形の黄色い紅茶缶が4つ。確かに消費に時間がかかりそうだ。
ケーキをお代わりして濃いコーヒーを飲むと、強張っていた身体がほぐれる。コーヒーの湯気にほうっと溜め息をつくと、空乃が微笑んだ。
「落ち着いた?」
「うん。美味かった。ご馳走様」
「お粗末様。ユキちゃん、嫌なことはさっさと忘れちまえよ」
嫌なのは、マサシに絡まれたこと自体ではない。あんな絡まれ方をされるようなことをしてきた自分自身が嫌なのだ。
食器を下げるために立ち上がった空乃に追いすがるように、そのシャツの裾を掴んだ。
「ユキちゃん?」
「さっき、2人じゃ飲み切れないって」
「ああ、紅茶の話?」
「2人って、俺、なんだよな」
空乃は食器をテーブルに戻して、行人に向き直った。しょうがねえなあというように苦笑している。
「ユキ、まだそんなこと言ってんの?」
「……」
「何回告れば、分かってもらえんだか。待つって決めたから、待つけどさ」
顔が上げられない。うつむいた頭の上から、ぼやくような空乃の声が降ってくる。
「空乃。ごめん」
「ユキ?」
「ごめん」
「なんで謝んの。なに、俺、今フラれんの?」
空乃の声に焦りがまじる。
違う。振るなんて、そんなわけない。だって、こんなに。俺は、こんなに。
「君のことが好きだ」
絞り出すように言うと、自分が発した言葉の意味に心臓が波打つ。体温が上がって、顔に血が昇った。
「知ってる」
突然の告白にそう答えると、空乃は行人の頬を両手で包んだ。上を向かされ、空乃と目が合う。
色素の薄い目を細め、照れたように笑っている。
「知ってるし、分かってる。俺はユキが好きで、ユキも俺のことを好きになってくれて、でもユキは俺と付き合うことを怖がってるのも」
触れられた頬から体温が伝わってくる。頬と、目元が熱い。
「空乃、ごめん」
「だから謝んなって」
ぱちんと両手で頬を叩かれる。
好きだという気持ちに、愛おしさや苦しさや後悔が混じり合って、息が苦しい。涙ぐむ行人の目元に口づけてから、空乃は続けた。
「あんたが昔の男忘れられないのとか、遊び人やってたのめちゃめちゃ後悔してることとか、自分と付き合ったら俺の未来ぶち壊すとか勘違いしてることとか、分かってる。俺が待つって言ったのは、そういうの全部分かって、待つって言ってんだよ」
行人は瞬く。溜まっていた涙が頬を伝った。
報いたい。空乃の真摯さと誠実さに。
強くそう思った。
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