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160 心配性と狂気が紙一重
しおりを挟むグステルはとにかく平静を装って、辺りの人影に注意しながらメントライン家のお仕着せのジャケットをぬぐ。
事前に邸の中で白いエプロンを外してきていて、こうしてジャケットをぬいでしまうと、あとはただのブラウスと濃紺のワンピース。これならば、使用人人口も高いこの高級住宅街では人目につくこともないだろう。
しかし困ったことに、今のグステルにとっては、ヘルムートの前で“ぬぐ”という行為そのものが妙に気恥ずかしかった。それが例えただの上着でも。意識してしまっているのだ。
しかし“大人”たるグステルにとっては、重要な場面で自分が冷静でいられることはとても大事。
こんなときに、ああいやだなぁと若干情けなく感じつつ。それでもヘルムートに自分の乱れたブラウスやワンピースのすそを見せるのが恥ずかしくて、急いでそれらを整えようとする、と。
間髪入れず、グステルの肩にふわりと何かがかけられた。
「あ……」
ドキリとして背後を見ると、いつの間に取り出したのやら。ヘルムートが温かそうな濃いグレーのケープを彼女の肩にかけていた。
戸惑いつつ礼を言う間にも、脱いだジャケットをさり気なく回収された。
これにはグステル、渋面。だが頬は赤い。
……甲斐甲斐しい。あまりにも甲斐甲斐しすぎる……。
(……いちいちときめかすのやめてくれないかな……。よかった、私、身体が若返っていて……)
そうでなければ、心臓に過負荷で倒れたかもしれない、とグステル。
ふざけているようにも思えるかもしれないが、真面目な話、こんな警戒すべき事態のさなかにも関わらず。ヘルムートがそばにいると、小さなことでキュンと不整脈(?)が起こったり、ついつい彼のほうに視線が吸い寄せられたりしてぜんぜん集中できない。
そんなときに、もし叔母たちにでも出くわしたらどうしたらいいのだ。
そして何より。こんなことばかりが続いてしまうと、自分がまた血迷いそうで怖い。
こんなにあれこれ煩悩に振り回されて苦しむくらいなら。
いっそ、こっちから迫ってしまえば…………
「……なんてね……はぁ、困った」
グステルは、思わず浮かんだ不純な考えを頭の中から追い払った。
と、彼女がそんなことでげっそりしているなどとは知らぬ男は、丁寧に整えたグステルのジャケットを腕に掛け、不意に表情を曇らせて彼女に聞いた。
「それで……また鼻血をお出しに?」
とたんグステルの顔が驚きが広がる。
「え……なぜそれを……」
確かに、彼女は先ほど公爵邸内でこたびも偽の令嬢にひっぱたかれて鼻血を出したが──それは巧妙に血の滴りを防いだし、その場にいた兄にすらそれとは気が付かれなかった。
それなのに、ついさっき落ち合ったばかりの彼が、なぜ彼女の申告もなしにそれを知ったのだろう。
だが、振り返った青年の顔は、静かな怒りに満ちていた。その表情に、グステルがギクリとする。
「う、まさか……」
「……あの恥知らずな輩に、頬を叩かれたとか」
予感はしたが、言い当てられてグステルが怯む。しかし同時に察した。
「……もしやあの家に密偵かなにかを送り込んでいらっしゃる⁉」
「もちろんです」
「⁉」
だいぶ確信をもっての問いだったが、ぶつけると即座に肯定が返ってきて唖然とした。
心配性の彼が、待機するという約束を破って駆けつけてくるわけである……。つまり、公爵邸内部での叔母たちとのやりとりは彼に筒抜けだったのだ。
しかしそれにしてもヘルムートが、あまりにも平然とし過ぎている。そして彼は表情も変えずに言った。
「私が、あのような悪党の巣にあなたをそのまま行かせるわけがありません。もちろん内部の様子を知るために数人……」
「数人⁉」
ついギョッとするが、当然のように続けられた言葉には、さらにギョッとしなくてはならなかった。
「さきほど公爵邸の窓からこちらをうかがっていた金髪のメイドもその一人です」
「⁉」
な、なんだとぅ……と、グステル。
叔母側の人間に見られてしまったと不安に思っていたのに……まさに、心配して損したというやつである。
が、そんなことを考えている場合ではなかった。
彼女を唖然とさせた男は、酷薄に笑う。
アメジストのような瞳が冷え冷えとした怒りに輝いていた。その目で口元だけで微笑むのだから、これは見た者は背筋が凍る。
その顔で、彼はグステルに慈愛に満ちた声をかけるのだ。
「ご安心ください。あなたに危害を加えた輩には、あとであの者らに命じて、こちらの関与を疑われぬよう、なんらかの償いをさせますからね」
「……、……、……結構です」
もはやエルシャのことを、“輩”呼ばわりの青年には。グステルも少々恐々とせざるを得なかった……。
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