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第10部
第六章 災厄の萌芽③
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「サ、サーシャさん……?」
ジェイクは、困惑した声を零した。
あの銀色のヘルム。制服の上から着たブレストプレート。
フェイスガードを下ろしているので顔は確認できない。声も少しくぐもって聞こえにくいが、間違いなくサーシャだった。
彼女はリーゼをかばって、涎の男と対峙していた。
「――クッ!」
ジェイクは、歯を喰いしばって立ち上がろうとする。
しかし、体に力が入らない。支えてくれている通行人の男性も「無茶すんな! 兄ちゃん!」と制止させる。
ジェイクはギリと歯を鳴らした。
あの涎の男は、もはや見た目通りの化け物だ。
このままでは、サーシャまで重傷を負わされてしまう。
「サ、サーシャさん! 鎧機兵を喚ぶんだ!」
そう叫ぶが、それをみすみす見逃すような敵ではなかった。
涎をさらに撒き散らせて、男はサーシャに襲い掛かる!
ジェイクも、通行人達も息を呑んだ。
しかし、次の瞬間、別の意味で目を見開くことになった。
『やあっ!』
再び響く可愛らしい掛け声。
同時に放たれる膝蹴り。それが涎の男のあごを打ち上げていた。
さらにサーシャは、男の頭を両手で掴むと大きく跳躍。男の頭を支点にして一度、空中で直立すると、
『てあっ!』
今度は、上空から男の眉間に片膝を叩きつけた。
男は石畳の上に倒れ込んだ。
サーシャは、その間に間合いを取った。
そして、ふらふらと立ち上がった涎の男に対し、
『えいっ!』
閃光のような上段蹴りを炸裂させた!
さらに間髪入れず、その場で鋭く回転し、鞭のようにしならせた回し蹴りを、男のこめかみに叩きつける。
溜まらず男は後退した。サーシャは再び、リーゼをかばって身構える。
「「「つ、強ェえ……」」」
ジェイクのみならず、その場にいた者全員が、思わず感嘆の声を零す。
サーシャは、とても華奢な女性だ。
だというのに、ジェイクの拳さえものともしない化け物を圧倒していた。
(……けど、まずいな)
ジェイクは、眉をしかめた。
サーシャの強さは予想外だったが、彼女の攻撃が通じるのは、単語全力攻撃だからだ。
それがサーシャの戦闘スタイルなのかは分からないが、彼女は常に全身のバネを使って攻撃している。腕や足だけの力ではなく、全体重を乗せるような攻撃方法だ。
要は一撃ごとに女性一人分の体重をぶつけているのである。
コウタやジェイクとは、また違う戦闘方法だ。
しかし、それは強力ではあるが、言い換えれば、防御を度外視した戦法でもある。
全体重を乗せた攻撃をかわされたり、または受け切られたりすれば、その直後は隙だらけになる。そうなれば、簡単に戦況は覆ってしまう。
やはり、あの男を止めるには、鎧機兵が必要だった。
「だ、誰か、オレッちの短剣を探してくれ。近くにあるはずだ。サーシャさんが時間を稼いでくれている内に鎧機兵を喚ぶ」
「お、おう。分かった」
ジェイクを支える通行人が頷く。周囲の人間にも「探してくれ!」と頼むが、どこに跳んでしまったのか、中々見つからないようだ。
ジェイクが焦りを抱く、その時だった。
「キャン、キャンディイイイイイイイイイイイイイイッッ!」
突如、男が絶叫を上げて、信じがたいことをしたのだ。
――ガゴンッ、と。
石畳の下に深く固定されているはずの街灯の一つを、引っこ抜いたのである。
ジェイク達は絶句し、サーシャもヘルム越しに動揺しているようだ。
わずかに体が硬直しているのが分かる。
――と、
「キャンディイイイイイイイイイイイイイイッッ!」
涎の男が走り出した。
だが、それもまた想定外だった。
何故なら、男はへたり込んでいたカーナに向かって走り出したのだ。
「え……」
カーナが目を瞠る。
手強い女騎士に守られたリーゼよりも、無防備なカーナの方がいいと思い直したのか。
いずれにせよ、狙いはカーナだ。
鋼の棍棒と化した街灯が、蜂蜜色の髪の少女の上に振り下ろされる!
『危ないッ!』
――が、その直前にサーシャが飛び込んだ。
カーナを抱きしめて、そのまま横に跳ぶ。しかし、わずかに遅く、街灯はサーシャのヘルムを殴打した。
「くあッ!」
苦痛の声を零すサーシャ。
しかし、不幸中の幸いか、サーシャのヘルムは弾き飛ばされてしまったが、彼女自身はそこまで負傷はしなかったようだ。
つう……と銀色の髪の隙間から、赤い雫が零れ落ち、頬を伝う。
サーシャは、苦痛で顔を歪めていた。
どうやら負傷と同時に脳震盪も起こしているようだった。覚束ない手つきでカーナを求め、ギュッと抱きしめた。
そして子を守る母のように、涎の男を睨みつけた。
せめて、カーナの盾になるつもりなのだろう。
騎士として、それは正しい行いだ。
――が、それを見た途端、通行人の中から数人の男達が飛び出した。
「うわあああああああッッ!」
そう叫んで、涎の男が持つ街灯にしがみついたのは四十代の男性だった。
ごく一般的な、どこにでもいそうな普通の男性である。
他の男性達もそれに続く。彼らも普通の男性だ。特段、体格が良い訳でもない。
しかし、それでも彼らは街灯にしがみついた。
その行動は瞬く間に伝播した。
「「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!」」」
通行人の中から次々と人が飛び出してくると、街灯とそれを持つ涎の男の右腕にしがみついていく。全員が必死の形相だ。特に三十~四十代の男性が多い。
「お、おい……」
ジェイクは唖然とした。
まさか一般人がここまで身を挺するとは……。
ジェイクには知る由もないことだが、実はサーシャの母は『救国の聖女』と呼ばれる人物だった。かつて、自分の命を犠牲にして王国を――彼らの家族を救ってくれた女性。それがサーシャの母なのである。
アティス王国において、彼女は特別な意味を持つのだ。
その血を引く唯一の忘れ形見が、自分を犠牲して少女を守ろうとしている。
彼女の母を知る世代にとっては、それは到底見過ごせない光景だった。
「誰かサーシャちゃんを!」「ふんばれ!」「おい! 店からロープ持って来い!」
全身を以て街灯にしがみつく男達。中には女性の姿もあった。
だが、彼らの奮闘もそこまでだった。
「キャン、ディイイイイイイイイイイイイイイッッッ!」
突如、涎の男が絶叫を上げる。
そして、口角から血が混じった泡をブクブクと噴き出すと、
――ドンッと。
さらに、筋肉を膨れ上がらせたのだ。
腕の太さなど、もう鎧機兵に近いレベルだ。
涎の男は、身震いするだけで通行人達を振るい落とした。
次々と吹き飛ばされていく人々。
街灯に必死にしがみついて、最後まで粘っていた男性も吹き飛ばされた。
そうして、涎の男はゆっくりと街灯を振り上げた。
狙いは、サーシャとカーナだ。
サーシャはギュッと目を瞑って、カーナを抱きしめた。
そんな彼女に鋼の棍棒を振り下ろされる!
「――サーシャさん!」
ジェイクが絶叫を上げる。と、
「おい。そこまでにしときな。クズ野郎」
不意に声がした。
ジェイクが、ギョッとして目を見開くと、唐突に現れたその声の主は、回し蹴りの要領で街灯を蹴り飛ばした。
ただ、それだけで街灯の軌道は変わる。
――ガゴンッッ!
勢いはそのままに、街灯は石畳を打ち砕いた!
石畳の破片が飛び散り、地面にめり込んだ街灯は、もうもうと土煙を上げる。
ジェイクは言葉を失い、サーシャは、パチパチと瞳を瞬かせた。
カーナと通行人達は唖然としてた。
「俺の可愛い弟子に何してくれてんだよ。てめえは」
地面に突き刺さった街灯の上に左足を乗せて、彼は淡々とした声で言う。
声には、とても静かな怒りが宿っていた。
「ただで済むと思うなよ」
白髪と黒い双眸が印象的な、白いつなぎ姿の青年がそう告げる。
サーシャは、輝くような笑みを浮かべた。
「先生!」
「おう。あんま無茶すんなよ。メットさん」
青年――アッシュは、愛弟子には優しい笑みを見せた。
「おお、師匠だ……」「し、師匠ッ!」「や、やった、助かった……」
通行人から、歓喜と安堵の声が湧き上がる。
アッシュは通行人達に目をやってから、涎の男を凝視した。
涎の男は凶悪な形相で、アッシュを睨みつけていた。
「……なるほどな」
アッシュはそう呟き、おもむろに街灯を踏み抜いた。
途端、涎の男の指は街灯から引き剥がされる。さらに、ドンッと轟音を立てて街灯は完全に石畳にめり込んだ。通行人達、ジェイクも「うわあ……」と腰が引けた。
アッシュは、ゆっくりと間合いを詰めていく。
「てめえには色々と聞きてえことがあるが、その前に……」
「キャン、ディイイイイイイイィイイイイィィィィイイイイイイッッッ!」
涎の男はアッシュに跳びかかる!
けれど、その動きよりも早く、アッシュの踵は男の頭上にあった。
一閃。
――ズドンッッ!
涎の男は、石畳に容赦なく顔面を叩きつけられた。
ただ、それだけで。
あれほどの猛威を振るった男は、完全に沈黙した。
「う、お……」
誰かが声を零す。
「「「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――ッッ!」」」
それを皮切りに、大歓声が轟く。
が、それを遮ったのはアッシュだった。
「喜ぶのは後だ! 怪我人の手当てを急げ!」
そう言って、片腕を横に振る。
歓喜に震えていた民衆もハッとする。
確かにそうだった。今この場には数多くの人間が倒れ込んでいる。
「おい! しっかりしろ!」
「誰か医者を連れてこい! 騎士もだ!」
無傷の者や軽傷の者が、慌ただしく動き出す。
アッシュも、サーシャの傍に駆け寄って片膝を突いた。
彼女の髪にそっと触れて、傷口を見る。
「サーシャ。お前の怪我は大丈夫なのか?」
「……うん」
サーシャは彼を安心させるように、柔らかな笑みを見せた。
「私は平気だよ、アッシュ」
「……そっか。まったく。心配かけさせんなよ。サーシャ」
アッシュは、ホッと安堵の息を零すが、安心するにはまだ早すぎた。
サーシャが穏やかな表情を一変させたからだ。
「それよりも先生!」
サーシャは、アッシュの腕を両手で掴んで険しい表情で叫ぶ。
「私よりもリーゼちゃんが!」
「ッ! リーゼ嬢ちゃんもここにいんのか!」
アッシュは、立ち上がって周辺を見渡した。
すると、大通りの一角に、ジェイクの姿を見つけた。
彼は、数人の男性達と一緒に、倒れているリーゼに必死に呼びかけている。
アッシュは、すぐさま駆け寄った。
「ジェイク! リーゼ嬢ちゃんは!」
「アッシュさん! ヤベえ! ヤベえよ!」
ジェイクは、自身も苦痛で脂汗を浮かべながら叫んだ。
「お嬢の吐血が全然止まんねえ! なのに、呼吸は今にも止まりそうだ! 肺に肋骨が刺さっているかもしんねえ!」
アッシュは、リーゼを凝視した。
口元は血で真っ赤だ。呼吸も荒いのを通り越して、すでにか細くなっている。
意識もすでに朦朧としているようだ。視線が定まっていない。
「――くそッ!」
アッシュは、彼女を抱き上げた。
「ダメだ! アッシュさん! いま動かしたら悪化する!」
ジェイクがそう叫ぶが、アッシュはかぶりを振った。
「無理だ。医者じゃあもう間に合わねえ。助けるにはユーリィに頼るしか……」
ユーリィは《金色の星神》だ。
彼女ならば、治癒の《願い》でリーゼを助けられる。
以前、重傷を負ったエドワードを救ったこともあるのだ。
しかし――。
(くそッ! 遠い!)
アッシュは、ギリと歯を軋ませる。
ユーリィは今、クライン工房で留守番中だ。
ここからユーリィの所まで向かっても、恐らく間に合わない。
リーゼは、助からない。
(それでも、今は間に合うことに賭けるしかねえ!)
アッシュはそう決断するが、その時、ふと一つの事実を思い出した。
(……あ)
今この国には、もう一人、《金色の星神》がいることに。
確か、彼女は市街区に宿を取っていたはずだ。
アッシュは、すぐさま相手の気配を探る《星読み》を使った。
そうして、彼女の気配を掴む。
(――間に合う! この距離ならどうにか!)
アッシュは叫んだ。
「――ララザッ!」
途端、いななきと共に通行人の上を飛び越えて一頭の馬が現れた。
アッシュの愛馬であるララザだ。
アッシュは、ララザの背に飛び乗ると手綱を片手で掴んだ。そしてリーゼを落とさないように抱きしめて、ララザを疾走させる。
ララザは、風のような速度で大通りを駆け抜けていった。
「気をしっかり持つんだ! リーゼ嬢ちゃん!」
アッシュは、リーゼに何度も声をかけ続けるが、彼女は、今にも消えてしまいそうな呼吸と、大量の吐血を繰り返すだけで返答はしない。
アッシュは、再び歯を軋ませた。
「――くそったれがッ!」
脳裏に浮かぶのは、未だ遭遇したことのない怨敵の名だ。
アッシュは、憎悪を込めて吐き捨てた。
「やってくれたな! くそジジイがッ!」
ジェイクは、困惑した声を零した。
あの銀色のヘルム。制服の上から着たブレストプレート。
フェイスガードを下ろしているので顔は確認できない。声も少しくぐもって聞こえにくいが、間違いなくサーシャだった。
彼女はリーゼをかばって、涎の男と対峙していた。
「――クッ!」
ジェイクは、歯を喰いしばって立ち上がろうとする。
しかし、体に力が入らない。支えてくれている通行人の男性も「無茶すんな! 兄ちゃん!」と制止させる。
ジェイクはギリと歯を鳴らした。
あの涎の男は、もはや見た目通りの化け物だ。
このままでは、サーシャまで重傷を負わされてしまう。
「サ、サーシャさん! 鎧機兵を喚ぶんだ!」
そう叫ぶが、それをみすみす見逃すような敵ではなかった。
涎をさらに撒き散らせて、男はサーシャに襲い掛かる!
ジェイクも、通行人達も息を呑んだ。
しかし、次の瞬間、別の意味で目を見開くことになった。
『やあっ!』
再び響く可愛らしい掛け声。
同時に放たれる膝蹴り。それが涎の男のあごを打ち上げていた。
さらにサーシャは、男の頭を両手で掴むと大きく跳躍。男の頭を支点にして一度、空中で直立すると、
『てあっ!』
今度は、上空から男の眉間に片膝を叩きつけた。
男は石畳の上に倒れ込んだ。
サーシャは、その間に間合いを取った。
そして、ふらふらと立ち上がった涎の男に対し、
『えいっ!』
閃光のような上段蹴りを炸裂させた!
さらに間髪入れず、その場で鋭く回転し、鞭のようにしならせた回し蹴りを、男のこめかみに叩きつける。
溜まらず男は後退した。サーシャは再び、リーゼをかばって身構える。
「「「つ、強ェえ……」」」
ジェイクのみならず、その場にいた者全員が、思わず感嘆の声を零す。
サーシャは、とても華奢な女性だ。
だというのに、ジェイクの拳さえものともしない化け物を圧倒していた。
(……けど、まずいな)
ジェイクは、眉をしかめた。
サーシャの強さは予想外だったが、彼女の攻撃が通じるのは、単語全力攻撃だからだ。
それがサーシャの戦闘スタイルなのかは分からないが、彼女は常に全身のバネを使って攻撃している。腕や足だけの力ではなく、全体重を乗せるような攻撃方法だ。
要は一撃ごとに女性一人分の体重をぶつけているのである。
コウタやジェイクとは、また違う戦闘方法だ。
しかし、それは強力ではあるが、言い換えれば、防御を度外視した戦法でもある。
全体重を乗せた攻撃をかわされたり、または受け切られたりすれば、その直後は隙だらけになる。そうなれば、簡単に戦況は覆ってしまう。
やはり、あの男を止めるには、鎧機兵が必要だった。
「だ、誰か、オレッちの短剣を探してくれ。近くにあるはずだ。サーシャさんが時間を稼いでくれている内に鎧機兵を喚ぶ」
「お、おう。分かった」
ジェイクを支える通行人が頷く。周囲の人間にも「探してくれ!」と頼むが、どこに跳んでしまったのか、中々見つからないようだ。
ジェイクが焦りを抱く、その時だった。
「キャン、キャンディイイイイイイイイイイイイイイッッ!」
突如、男が絶叫を上げて、信じがたいことをしたのだ。
――ガゴンッ、と。
石畳の下に深く固定されているはずの街灯の一つを、引っこ抜いたのである。
ジェイク達は絶句し、サーシャもヘルム越しに動揺しているようだ。
わずかに体が硬直しているのが分かる。
――と、
「キャンディイイイイイイイイイイイイイイッッ!」
涎の男が走り出した。
だが、それもまた想定外だった。
何故なら、男はへたり込んでいたカーナに向かって走り出したのだ。
「え……」
カーナが目を瞠る。
手強い女騎士に守られたリーゼよりも、無防備なカーナの方がいいと思い直したのか。
いずれにせよ、狙いはカーナだ。
鋼の棍棒と化した街灯が、蜂蜜色の髪の少女の上に振り下ろされる!
『危ないッ!』
――が、その直前にサーシャが飛び込んだ。
カーナを抱きしめて、そのまま横に跳ぶ。しかし、わずかに遅く、街灯はサーシャのヘルムを殴打した。
「くあッ!」
苦痛の声を零すサーシャ。
しかし、不幸中の幸いか、サーシャのヘルムは弾き飛ばされてしまったが、彼女自身はそこまで負傷はしなかったようだ。
つう……と銀色の髪の隙間から、赤い雫が零れ落ち、頬を伝う。
サーシャは、苦痛で顔を歪めていた。
どうやら負傷と同時に脳震盪も起こしているようだった。覚束ない手つきでカーナを求め、ギュッと抱きしめた。
そして子を守る母のように、涎の男を睨みつけた。
せめて、カーナの盾になるつもりなのだろう。
騎士として、それは正しい行いだ。
――が、それを見た途端、通行人の中から数人の男達が飛び出した。
「うわあああああああッッ!」
そう叫んで、涎の男が持つ街灯にしがみついたのは四十代の男性だった。
ごく一般的な、どこにでもいそうな普通の男性である。
他の男性達もそれに続く。彼らも普通の男性だ。特段、体格が良い訳でもない。
しかし、それでも彼らは街灯にしがみついた。
その行動は瞬く間に伝播した。
「「「「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!」」」
通行人の中から次々と人が飛び出してくると、街灯とそれを持つ涎の男の右腕にしがみついていく。全員が必死の形相だ。特に三十~四十代の男性が多い。
「お、おい……」
ジェイクは唖然とした。
まさか一般人がここまで身を挺するとは……。
ジェイクには知る由もないことだが、実はサーシャの母は『救国の聖女』と呼ばれる人物だった。かつて、自分の命を犠牲にして王国を――彼らの家族を救ってくれた女性。それがサーシャの母なのである。
アティス王国において、彼女は特別な意味を持つのだ。
その血を引く唯一の忘れ形見が、自分を犠牲して少女を守ろうとしている。
彼女の母を知る世代にとっては、それは到底見過ごせない光景だった。
「誰かサーシャちゃんを!」「ふんばれ!」「おい! 店からロープ持って来い!」
全身を以て街灯にしがみつく男達。中には女性の姿もあった。
だが、彼らの奮闘もそこまでだった。
「キャン、ディイイイイイイイイイイイイイイッッッ!」
突如、涎の男が絶叫を上げる。
そして、口角から血が混じった泡をブクブクと噴き出すと、
――ドンッと。
さらに、筋肉を膨れ上がらせたのだ。
腕の太さなど、もう鎧機兵に近いレベルだ。
涎の男は、身震いするだけで通行人達を振るい落とした。
次々と吹き飛ばされていく人々。
街灯に必死にしがみついて、最後まで粘っていた男性も吹き飛ばされた。
そうして、涎の男はゆっくりと街灯を振り上げた。
狙いは、サーシャとカーナだ。
サーシャはギュッと目を瞑って、カーナを抱きしめた。
そんな彼女に鋼の棍棒を振り下ろされる!
「――サーシャさん!」
ジェイクが絶叫を上げる。と、
「おい。そこまでにしときな。クズ野郎」
不意に声がした。
ジェイクが、ギョッとして目を見開くと、唐突に現れたその声の主は、回し蹴りの要領で街灯を蹴り飛ばした。
ただ、それだけで街灯の軌道は変わる。
――ガゴンッッ!
勢いはそのままに、街灯は石畳を打ち砕いた!
石畳の破片が飛び散り、地面にめり込んだ街灯は、もうもうと土煙を上げる。
ジェイクは言葉を失い、サーシャは、パチパチと瞳を瞬かせた。
カーナと通行人達は唖然としてた。
「俺の可愛い弟子に何してくれてんだよ。てめえは」
地面に突き刺さった街灯の上に左足を乗せて、彼は淡々とした声で言う。
声には、とても静かな怒りが宿っていた。
「ただで済むと思うなよ」
白髪と黒い双眸が印象的な、白いつなぎ姿の青年がそう告げる。
サーシャは、輝くような笑みを浮かべた。
「先生!」
「おう。あんま無茶すんなよ。メットさん」
青年――アッシュは、愛弟子には優しい笑みを見せた。
「おお、師匠だ……」「し、師匠ッ!」「や、やった、助かった……」
通行人から、歓喜と安堵の声が湧き上がる。
アッシュは通行人達に目をやってから、涎の男を凝視した。
涎の男は凶悪な形相で、アッシュを睨みつけていた。
「……なるほどな」
アッシュはそう呟き、おもむろに街灯を踏み抜いた。
途端、涎の男の指は街灯から引き剥がされる。さらに、ドンッと轟音を立てて街灯は完全に石畳にめり込んだ。通行人達、ジェイクも「うわあ……」と腰が引けた。
アッシュは、ゆっくりと間合いを詰めていく。
「てめえには色々と聞きてえことがあるが、その前に……」
「キャン、ディイイイイイイイィイイイイィィィィイイイイイイッッッ!」
涎の男はアッシュに跳びかかる!
けれど、その動きよりも早く、アッシュの踵は男の頭上にあった。
一閃。
――ズドンッッ!
涎の男は、石畳に容赦なく顔面を叩きつけられた。
ただ、それだけで。
あれほどの猛威を振るった男は、完全に沈黙した。
「う、お……」
誰かが声を零す。
「「「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――ッッ!」」」
それを皮切りに、大歓声が轟く。
が、それを遮ったのはアッシュだった。
「喜ぶのは後だ! 怪我人の手当てを急げ!」
そう言って、片腕を横に振る。
歓喜に震えていた民衆もハッとする。
確かにそうだった。今この場には数多くの人間が倒れ込んでいる。
「おい! しっかりしろ!」
「誰か医者を連れてこい! 騎士もだ!」
無傷の者や軽傷の者が、慌ただしく動き出す。
アッシュも、サーシャの傍に駆け寄って片膝を突いた。
彼女の髪にそっと触れて、傷口を見る。
「サーシャ。お前の怪我は大丈夫なのか?」
「……うん」
サーシャは彼を安心させるように、柔らかな笑みを見せた。
「私は平気だよ、アッシュ」
「……そっか。まったく。心配かけさせんなよ。サーシャ」
アッシュは、ホッと安堵の息を零すが、安心するにはまだ早すぎた。
サーシャが穏やかな表情を一変させたからだ。
「それよりも先生!」
サーシャは、アッシュの腕を両手で掴んで険しい表情で叫ぶ。
「私よりもリーゼちゃんが!」
「ッ! リーゼ嬢ちゃんもここにいんのか!」
アッシュは、立ち上がって周辺を見渡した。
すると、大通りの一角に、ジェイクの姿を見つけた。
彼は、数人の男性達と一緒に、倒れているリーゼに必死に呼びかけている。
アッシュは、すぐさま駆け寄った。
「ジェイク! リーゼ嬢ちゃんは!」
「アッシュさん! ヤベえ! ヤベえよ!」
ジェイクは、自身も苦痛で脂汗を浮かべながら叫んだ。
「お嬢の吐血が全然止まんねえ! なのに、呼吸は今にも止まりそうだ! 肺に肋骨が刺さっているかもしんねえ!」
アッシュは、リーゼを凝視した。
口元は血で真っ赤だ。呼吸も荒いのを通り越して、すでにか細くなっている。
意識もすでに朦朧としているようだ。視線が定まっていない。
「――くそッ!」
アッシュは、彼女を抱き上げた。
「ダメだ! アッシュさん! いま動かしたら悪化する!」
ジェイクがそう叫ぶが、アッシュはかぶりを振った。
「無理だ。医者じゃあもう間に合わねえ。助けるにはユーリィに頼るしか……」
ユーリィは《金色の星神》だ。
彼女ならば、治癒の《願い》でリーゼを助けられる。
以前、重傷を負ったエドワードを救ったこともあるのだ。
しかし――。
(くそッ! 遠い!)
アッシュは、ギリと歯を軋ませる。
ユーリィは今、クライン工房で留守番中だ。
ここからユーリィの所まで向かっても、恐らく間に合わない。
リーゼは、助からない。
(それでも、今は間に合うことに賭けるしかねえ!)
アッシュはそう決断するが、その時、ふと一つの事実を思い出した。
(……あ)
今この国には、もう一人、《金色の星神》がいることに。
確か、彼女は市街区に宿を取っていたはずだ。
アッシュは、すぐさま相手の気配を探る《星読み》を使った。
そうして、彼女の気配を掴む。
(――間に合う! この距離ならどうにか!)
アッシュは叫んだ。
「――ララザッ!」
途端、いななきと共に通行人の上を飛び越えて一頭の馬が現れた。
アッシュの愛馬であるララザだ。
アッシュは、ララザの背に飛び乗ると手綱を片手で掴んだ。そしてリーゼを落とさないように抱きしめて、ララザを疾走させる。
ララザは、風のような速度で大通りを駆け抜けていった。
「気をしっかり持つんだ! リーゼ嬢ちゃん!」
アッシュは、リーゼに何度も声をかけ続けるが、彼女は、今にも消えてしまいそうな呼吸と、大量の吐血を繰り返すだけで返答はしない。
アッシュは、再び歯を軋ませた。
「――くそったれがッ!」
脳裏に浮かぶのは、未だ遭遇したことのない怨敵の名だ。
アッシュは、憎悪を込めて吐き捨てた。
「やってくれたな! くそジジイがッ!」
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彼女を守るため、豆丸は“積みゲー”スキルを駆使して立ち上がる。
現金化されるコイン、召喚されるゲームキャラたち、 そして迫りくる謎の敵――。
これは、還暦オジが挑む、〝人生最後の積みゲー〟であり〝世界最後の攻略戦〟である。
少しの間、家から追い出されたら芸能界デビューしてハーレム作ってました。コスプレのせいで。
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俺、日向真白は義妹と幼馴染の策略により、10月31日のハロウィンの日にコスプレをすることとなった。
その日、コスプレの格好をしたまま少しの間、家を追い出された俺は、仕方なく街を歩いていると読者モデルの出版社で働く人に声をかけられる。
とても困っているようだったので、俺の写真を一枚だけ『読者モデル』に掲載することを了承する。
まさか、その写真がキッカケで芸能界デビューすることになるとは思いもせず……。
これは真白が芸能活動をしながら、義妹や幼馴染、アイドル、女優etcからモテモテとなり、全国の女性たちを魅了するだけのお話し。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
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しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
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