たとえ愛がなくても、あなたのそばにいられるのなら

魚谷

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 騎士団での仕事を終わらせたアーサーは従者を先に帰らせ、一人で都の商業区の中でも一等地にある建物の前で馬を下り、中に入っていった。
 一階の奥、主人の部屋へ足を運ぶ。
 ノックもなく、部屋に入ると甘ったるい香水が鼻腔をつく。
 部屋には女がいて、ソファーに座り、書類を眺めていた。
 今にもこぼれんばかりの胸を強調するかのようなデザインの真紅のドレスに豊かな黒髪。ぱっちりとした瞳は意志の強い光をたたえた金色の虹彩。右の目尻には艶やかな泣きぼくろが一つ。
 ただでさえ整った顔立ちに派手めに化粧をほどこしているせいか、凄みさえ感じさせる。

「あら、花婿さん、いらっしゃい」

 女子爵、イザベル・シーモス・チェッキストンは真っ赤なルージュを引いた口元を緩めた。
 社交界の毒蛇と綽名される曲者。
 毒蛇と呼ばれるゆえんは、彼女を馬鹿にすれば、執念深く追い詰められ、最後には破滅する──そんな噂からきている。
 だから通常、派手な女性は社交界では敬遠され、悪口の種になるが、誰も毒蛇の悪口を不用意には言わない。
 間違って彼女の琴線に触れれば、どんな報復を受けるかも分からないからだ。
 アーサーは、イザベルと愛人関係だと周りには思わせていた。

「でもいいのかしら。初夜の翌日から愛人の元へやってきて……」

 無闇に触れようとする細い右手首を掴む。

「やめろ。軽口をたたけるような気分じゃない」
「あら、本気で怒ることないのに」

 イザベルは微笑んだ。

「仕事をしに来たんだ。さっさと情報を寄越せ」
「どうぞ」

 イザベルが差し出してきた封筒を受け取ろうとするが、彼女はなかなか手放そうとしなかった。

「話くらい聞いてあげるわよ? 長年の想い人とようやく結婚ができたというのに、何をそんなに苦しいことがあるの?」
「愛のない結婚だ。今もまだハイネは兄上を愛しているはずだ」

 あの二人のことを考えるだけで胸が締め付けられるように苦しくなってしまう。
 二人が、アーサーに隠れてこそこそと何かを話したり、一緒に出かけたりする後ろ姿をどれだけ見たか。アーサーが話しかけようとすると不自然に話を打ち切り、昔は決して見せることのなかった愛想笑いを向けられる。
 アーサーのはい入る隙がないくらい二人だけの世界が出来上がっていたのだ。

「でも亡くなっているのよ」
「だからこそ、始末に悪い。死んだやつにはどう足掻いても勝てないだろ」

 窓辺に寄り、夕焼けの色にそまった街並みを眺め、アーサーは胸の痛みをこらえるように顔を顰めて呟いた。
 亡くなれば、思い出は美化された状態で永遠に、その人の胸の中に残り続ける。
 それを塗り替えることなんて誰に出来るというのか。

「平気よ。時間が少しずつ解決していくわ。あなたたちはまだ若いんだから」

(分かった風な口をききやがって……)

 お節介な声を背中で聞きながら、部屋を出た。


 
 ラウーロの十五歳の誕生日。
 公爵邸の庭園で盛大なパーティーが催され、ハイネは招待客の一人として参加していた。
 一目見た瞬間、アーサーは恋に落ちた。
 ハイネが周りの少女たちに笑われ、悪口を言われているのが許せなくて、兄に相談して一緒に助けたのだ。
 公爵家の兄弟から声をかけられたハイネを笑えるような剛胆な人間はその場にはいなかった。
 おかげでハイネの笑顔を見る事ができ、ますます胸は高鳴った。
 笑うとますますハイネは魅力的で、その人懐っこい笑みが忘れられなくなった。
 その日から、ハイネとの交流がはじまった。
 それまで何かに興味を持つことがほとんどなかったアーサーが、ハイネには興味を示したことに両親は驚き、アーサーの変化を喜んだ。
 兄も一緒に三人で庭を駆け回り、疲れると木陰で眠った。
 ハイネと関わることで、アーサーはもう一つの変化があった。
 彼女を守れるような騎士になりたいと思うようになったのだ。
 それは何気なくハイネと二人で話をしている時に、彼女が大好きだという本のことを教えてくれたのだ。
 それは絵本だった。
 そこに登場する騎士のことを、ハイネが嬉しそうに語っているのが、妙に印象に残っていた。
 騎士になればハイネが好きになってくれるかもしれない。
 不純な動機だったが、アーサーはそれから本腰を入れて剣を習い始めた。
 ハイネは成長するにつれ、ますます魅力的になっていった。
 体は女性的な柔らかな曲線を描き、顔立ちの彫りは深くなり、大人びていった。
 子どもの頃の人懐こい笑顔はそのままに、立派な淑女になりつつあった。
 自分よりもずっと早く大人になっていくハイネに、幼い頃から秘め続けた恋心はますます大きくなっていった。
 好きだと伝えたい。
 でももし断られたら?
 今の関係性が壊れてしまうのが怖くて、距離を縮めることができないまま、足踏みの日々が続いた。
 そしてアーサーが二十二歳。ハイネが十八歳になった。
 アーサーは騎士団に入団し、若くして多くの武功を成した。
 その澄んだ眼差しが、アーサーではなく、二歳年上のラウーロばかり見るようになったことに気付いた。
 最初はただの気のせいだと思った。いや、思いたかったが、違った。
 ハイネがラウーロと一緒にいることを頻繁に目撃するようになった。
 子どもの頃は三人でいることが当たり前だったはずなのに、知らないところで、ラウーロとハイネの距離が縮まっていたのだ。
 アーサーは絶望にうちひしがれた。
 アーサーよりも品があり、理知的なラウーロ。
 文武両道で何でも人並み以上にできるという、公爵家の当主。
 一方のアーサーは兄よりいくらかがたいが良かったが、それだけ。
 馬の扱いも剣の腕もラウーロには敵わない。
 ラウーロなら、ハイネを幸せにできる。
 アーサーと結ばれるよりもずっとたくさんの幸せをあげられるはず。
 頭で理解しながらも、心はそう単純なものではない。
 どれほどハイネへの恋心を忘れようと思いながらも、考えれば考えるほど、ハイネの存在感は、アーサーの中で大きくなっていく。
 女を上書きするには、女の存在でしか無理だ。
 アーサーは、煩わしくも近づいてきた令嬢と親交を持った。
 しかし駄目だった。
 二人きりで話をしている時、狭い馬車の中で視線を絡め合わせる時、いつもアーサーの頭の中にはハイネが現れる。
 何人もの女性と出会い、中には婚約を結んだ女性もいたが、好きになったことは一度もない。
 そもそもハイネを忘れるために強引に結んだ関係がうまくいくはずもなく、すべて破綻した。
 そして破綻した後、必ずと言っていいほど、アーサーは自分の心からハイネを愛する心がなくなっていないことに安堵した。
 もう一生叶うことがないと知りながらも、それでもハイネを愛する気持ちがあることを再確認するのはあまりにも不毛である自覚はあったが、せずにはいられなかった。
 捨てた女の中には自分のプライドを守るせいか、アーサーと肉体関係を結んだのに捨てられたと吹聴する令嬢までいた。
 それでも構わないと思った。
 言いたければ勝手に言えばいいと放置した。
 アーサーはすっかり女性たちを手当たり次第に食い散らかす男として、周囲から見られるようになった。
 そうこうする内にラウーロは大病を煩い、間もなく亡くなった。
 だが、その時のアーサーは最早、ハイネに近づくこともできなくなってしまった。
 自分は最早、ハイネにふさわしい人間にはなりえないことが分かっていたから。
 そんな折、イザベルが協力を求めてきた。
 彼女は国内にはびこる人身売買にかかわる犯罪者を始末するため、信用できる人間を探していたと言う。

『あなたほどの剣の腕前なら申し分ないわ。私に協力してもらえないかしら。報酬はたっぷり出すし、摘発の功績も何もあなたのものにしてくれて構わないから』
『報酬は別にいらないが、引き受ける』

 実はイザベラ自身、孤児だったらしい。その才覚を先代の子爵に愛され、その養女になったというのだ。
 結果的に、世間的にはアーサーとイザベラが頻繁に会っている――愛人関係にあるという噂が公然と囁かれるようになった。
 アーサーからすれば、イザベラと噂になることで、すり寄ってくる令嬢たちがぴたりといなくなったから、魔除けだと思ってわざわざ噂を否定しなかったし、イザベラに関して言えばそもそも噂になど興味がなかったから放置したのだった。
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