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一章
霧の島、止まった季節②
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セリスは〈島〉の東の霧を抜け、〈島〉と精霊界の境界に揺らめく東の花園へ足を踏み入れた。
風もなく、鳥も鳴かず、ただ淡い霧だけが地面の花々を覆っている。
セリスが一歩踏み出すたび、霧は薄桃色の粒となって舞い立ち、 やわらかな光の波紋を描きながら、春の調べのように震えた。
――精霊界は、この向こうにある。
セリスはそっと息を呑んだ。
「オルフェリア……あなたも、ここを通ったの?」
問いかけに応えるように、霧の向こうで色が揺れた。
それは音が姿を持ったかのような存在―― 淡い金色と白の光が重なり、波紋のように形を変えながら近づいてくる。
ゆらり、ゆらり。
その姿は輪郭を結び、柔らかな少年とも少女ともつかない面影へと収束していった。
だが次の瞬間、その輪郭はふっとほどけ、光がさらさらと散った。
光粒が弧を描き、地上へ降りる。
光の粒がはらりと触れた場所から、細い足、柔らかな体毛、 やがて――淡銀色の子狐が姿を現した。
しなやかな尾がひとつ揺れ、虹の色に輝く瞳がまっすぐにセリスを見上げる。
小さく喉が鳴り、鈴の音のような音が響く。
その音が空気を震わせると、淡い光が狐を包み―― 再び、人の形へと変わってゆく。
「ボクのことを、覚えてる?春の巫女セリス」
声は、風の鈴のようにかすかで澄んでいた。
「もちろんよ、音の精霊レゾナ。精霊界の〈窓口〉」
既視感に似た柔らかな感覚に包まれて、セリスは精霊を眺めた。
四人の巫女達はそれぞれの任期中、外界側の各世界の窓口となる存在と絆を持つ。
セリスの担当は精霊界で、今の〈窓口〉がこの、音の精霊レゾナだった。
〈窓口〉は巫女達と違って輪廻転生を繰り返すわけではないし、一定の期間をおいて交代する。
それでも、彼らの任期中はしばしばこの東の花園のような境界で顔をあわせるし、巫女達にとってはそれがほぼ唯一の外界との接点だった。
「セリスは、欠けた秋の声をさがしに行くの?それなら、一緒に行くよ」
セリスの胸に、かすかな震えが広がった。
見えない弦が触れ合い、互いの心の奥で共鳴するような感覚。
「ありがとう、レゾナ」
精霊はふわりとほほえみ、セリスに手を差し伸べる。
その手は、光そのもののように華奢で、温かかった。
「レゾナ。あなた……もしかして、秋の巫女オルフェリアに会った?」
「秋の巫女?この前ここを通って行った、落ち葉色の髪の人のこと?」
音の精霊が小首をかしげると、淡銀色の柔らかな髪がゆらゆらと揺れた。
精霊の言う「この前」が、実際には一体どれほど前のことなのかは、セリスにはわからない。
だが、確かにオルフェリアはここを通ったのだ。
「君以外の巫女が、精霊界に来たのは初めてだったから、驚いたよ」
「え?オルフェリアは今、精霊界にいるの!?」
セリスは思わず、精霊の肩を掴んだ。
「私、彼女を見つけたいの。絶対!オルフェリアが今どこにいるか知っているなら、そこへ連れて行って!お願いだから」
二人の間で、淡桃と銀白の音の花が夜空へ舞い昇った。
弾ける光粒が、いくつもの環となって二人を包む。
「今どこにいるかは、わかんないよ。ボクが知らない間に、一人で〈島〉に帰ったかもしれないし」
音の精霊の虹色の瞳が、困ったように揺れる。
「でも……彼女が精霊界で見た物なら、見せてあげられる。そこから君が、何かを見つけられたらいいんだけど」
ふわり……と、柔らかな微笑が、音の精霊の中性的な顔に広がる。
「一緒に行く?セリス」
「もちろん!決まってるじゃない」
セリスは腕を広げて、音の精霊の小柄な体をぎゅっと抱きしめた。
レゾナは小さく「わわっ」と声を上げ、虹色の瞳を丸くしながらも彼女の抱擁を受け入れた。
「温かいね……君。君の気持ちが、伝わってくる。本当に彼女を——秋の巫女オルフェリアを、見つけたいんだね」
小さくつぶやいて、レゾナはするりと姿を転じ、ふたたび淡銀色の子狐の姿になって花畑に降り立った。
「じゃあ、こっちだよ。ついてきてくれる?」
「うん!」
レゾナの揺れる尾の先が、虹色の残像を残す。
淡銀色の光を追いかけて、セリスは精霊界へと足を踏み入れた。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
リュシアは〈島〉の南の霧を抜け、〈島〉と人間界の境界に揺らめく南の遺跡へ足を踏み入れた。
南へ向かうほど、霧は静かに薄れ、乾いた熱の気配が広がっていく。
遺跡の白い石柱が陽光を反射し、夏の巫女リュシアの金橙の髪を陽炎のように揺らめかせる。
そのとき、ひとつの弦の音が、遠い記憶を揺らすように鳴った。
崩れかけたアーチの陰から、黒褐色の髪を風に揺らして、ひとりの男が姿を現す。
背に下げたリュート、旅慣れた様相の引き締まった体躯、日に焼けた顔は整っていて、ほんの少し皮肉っぽい微笑を浮かべている。
「久しぶりだね、夏の巫女リュシア」
「そろそろ現れると思ったわ、エラリオン」
彼は、語り部エラリオン。リュシアが担当する人間界の、今の〈窓口〉だった。
「相変わらず、世界全体を背負ってしまったような顔をしているね、リュシア」
リュシアはまっすぐに、語り部の皮肉っぽい言葉を受け止めた。
「だって、それが私の役目だもの。誰かが立って、前に進まないと」
エラリオンは目を細め、リュートを前に抱えなおして弦を優しく鳴らした。
「君はいつも真面目だね。でも、それだけでは人の心は動かない。俺の語る物語は“願い”や“弱さ”——つまり欲望を映す鏡だ」
リュシアは少し視線をそらし、そしてまた、語り部の顔を見た。
「わかってるわ。けど今は、欲望より優先すべきことがあるの。〈島〉の時間が止まり始めてる。秋の巫女が消えたわけを、確かめる必要があるのよ」
エラリオンが微笑み、肩をすくめる。
「そうだね。秋の巫女オルフェリア……彼女は数日前に、ここを通ったよ」
「え!?彼女、人間界に居るの?あの、引きこもり……じゃなかった、引っ込み思案が!?」
リュシアの金琥珀の瞳が、驚きに見開かれる。
「あー……今もいるかどうかは、わからないな。人間界で俺と別れた後、ひとりで〈島〉に帰ったかも知れないし。人間界の騒々しさが、煩わしそうだったし」
語り部は長い指でリュートの弦をもてあそびながら、苦笑いした。
「でも、彼女を人間界へ案内したのは俺だ。彼女が触れた場所、歩いた道を、君にも案内できる。確かめてみるか?一緒に」
「当然よ」
リュシアの答えは早かった。
「迷っている暇なんかない。月が満ちるまでしか、時間はないの。彼女が辿った道を私も辿り、彼女が何を見たのかを確かめる」
「相変わらずだね、君は。まっすぐで、迷いがない」
エラリオンはリュートを肩に担ぎ、リュシアの横に立った。
「そもそも彼女、なんで人間界になんか行ったのよ?あなた、わけを聞いた?」
「聞いたさ、もちろん」
「で、返事は?」
「『理由は説明できないの。ただ、行かなきゃいけない』って、ね」
「……オルフェリアらしいわね。ほんとに、いつも思わせぶりで」
リュシアは盛大なため息をつく。
「で、あなた、それ以上は追及しなかったの?」
「ああ。『説明できない確信』なんて、面白い物語になりそうじゃないか」
「……これだから、語り部って奴は嫌いなのよ」
ぶつぶつと文句を言うリュシアを、面白そうにエラリオンは見下ろす。
輪廻転生を繰り返す、〈島〉の巫女達ーー彼女達は定命の自分達人間とはかけ離れた存在だと、〈窓口〉の任を受ける前は思っていた。
だが……この夏の巫女は、自分の知っている人間の女達と同じように笑い、泣き、怒り、文句を言う。
陽光を受けて輝く金橙の髪と金琥珀の瞳は、凛とした顔立ちに映えて神々しいほどに美しいけれどーー
ーー案外、可愛いよな……ーー
『月が満ちるまでしか、時間はない』とリュシアは言っていたが、数日の時間は共に過ごせるだろう。
リュシアはどうかわからないが、エラリオンにとっては楽しい旅になりそうだった。
「まぁ、いいじゃないか。とにかく、行こう」
「……助かるわ。でも、急ぐわよ」
「急ぐのはいいが、突っ走りすぎるなよ。俺は、物語を見落とすのはごめんだからな」
肩のリュートを叩き、不敵に笑って歩き出す語り部の姿を、苛立ち半分でにらみつつ、リュシアは彼の横に並ぶ。
乾いた風が火の粉のように舞い上がって、人間界に足を踏み入れる二人の影を結んだ。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
ノエルは〈島〉の西の霧を抜け、〈島〉と魔法界の境界に揺らめく北の森へ足を踏み入れた。
そこは、絶えず形を変え続ける迷宮のようだった。
白銀の風が木々の輪郭を削り取り、足元の道を飲み込み、次の瞬間には別の景色へとつなぎ替える。
ノエルは一歩進むごとに、世界の境界そのものが薄れていくような感覚に身を浸していた。
やがて――森の中心、凍てついた湖面のような静寂が広がる空間に、霧がゆっくりと立ち上った。
それは人の形を成し、やがて荘厳な姿へと結晶していく。
白銀の王冠を頂き、霧そのものを纏う霧の王・モルカーン。
「王」と言ってもそれは二つ名で、人間の世界での「王」のように統べる民がいるわけではない。ただ、この「王」は霧を支配し、自在に操る。
彼は、ノエルが担当する魔法界の、今の期間の〈窓口〉だった。
魔法生物である彼は、生身の肉体を持つ巫女達よりも長く生きる。ノエルはもう数十年ほど、この王とつきあってきていた。
彼の声は、風が雪を撫でるように柔らかく、重みを帯びていた。
「冬の巫女よ。久しいな」
ノエルは、無言で頭を下げて応じた。
「時の止まりつつある〈世界〉のことか」
モルカーンの黒々とした瞳孔の見えない瞳が、霧の躯体の奥で深く光った。
「時が止まり、死が存在しなくなれば、命は終わりを得られない。終わりを失った魂は、永遠という牢獄の中で凍り続ける。そして〈島〉は、すでにその崩壊の始まりに立っている。」
どこか哀しみを帯びた声音だった。
その言葉に、ノエルは目を逸らさず応えた。冷たい瞳に揺らぎはなく、彼女は静かに言葉を返す。
「死がなくなりそうなら、なおさら生の意味を確かめなければ。そのためにも、秋の巫女オルフェリアの行方を追わないと」
モルカーンは霧の裾を揺らし、彼女を見つめた。
「数日前、オルフェリアを魔法世界へ案内したのは私だ。だが、今どこにいるかは知らぬ。彼女とは魔法界で別れた」
沈黙が二人を包む。白銀の風が枝を鳴らし、霧が形を変えた。
雪の粒がひとつ、ノエルの掌に触れて溶ける。
「……ならば、私もその道を辿るわ」
ノエルの声は静かだが、決意は揺るぎなかった。
「〈世界〉が凍りついて止まる前に、彼女が消えた理由を確かめなければ」
モルカーンはゆるやかにうなずき、霧の王冠を揺らす。
「冬の道は、お前を試すだろう。だが選んだのなら、恐れずに進め。――沈黙の向こうに、答えはある」
霧が再び風に溶け、森は元の深い静寂を取り戻してゆく。
「霧の迷宮は危うい。私が導こう。秋の巫女の行った道を」
ノエルは無言で頭を下げ、先に立つ霧の王について歩き出す。
白銀の風を背に受け迷宮の森を抜けて、魔法世界への道へ。
――沈黙と死の不在を抱えながら。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
風は、世界を三つに裂くように、静かに分岐していった。
東、南、北――
三つの入口が同時に開かれ、光と霧と炎がゆっくりと重なり、離れていく。
その境界のただなかに、三組の対が立っていた。
春の巫女と精霊、夏の巫女と吟遊詩人、冬の巫女と魔の王。
春は ―― 東の花園を経て精霊界へ
淡桃色の霧が足元から広がり、かすかな音となって脈打つ。
音はやがて光へと変わり、精霊界の入口を浮かび上がらせる。
春の巫女セリスは、白い小狐をそっと抱き上げる。
小狐の瞳は、音の調べのように虹の七色を たたえていた。
「レゾナ……行きましょう。欠けた声を取り戻すために。私一人では届かない場所へ」
狐の形をしていた精霊は、小さな震えとともに人の姿へ溶ける。
淡い光と音のしぶきが舞い、淡銀色の髪が舞った。
レゾナはそっとセリスの手を取る。
その声は、どこまでも透明だった。
「声を探す旅へ、行こう」
二人の手が重ねられた瞬間、
音の波が春の門を震わせ、精霊界への道が花のように開いた。
夏は ―― 南の神殿遺跡を抜けて人間界へ
灼熱の風が吹き抜け、陽光が砕けた石柱に反射する。
夏の門は、古代文字の刻まれた神殿の奥で脈動していた。
リュシアは深く息を吸い、 その向かいで吟遊詩人エラリオンが背のリュートを背負い上げた。
「また怖い顔をしてるね、リュシア」
彼はいつもの調子で皮肉めいて笑う。
リュシアは眉をひそめ、答えた。
「だって――時間があまりないもの」
「そうだね。人生は短い」
エラリオンはリュシアに手を差し伸べ、リュシアは彼を睨むようにしながらその手を取る。
「オルフェリアも先日ここを通った。僕は彼女を人間界の光へ案内した。――君も同じ場所へ連れていける」
夏の風が二人を包み、入口が深い光の海へと変わった。
冬は ―― 北の霧の森を越え、魔法世界へ
白銀の霧が重く漂い、森は形を変え続ける迷宮だった。
その中心、霧を裂いて立つ影――霧の王モルカーン。
ノエルは凍る空気の中、王の瞳をまっすぐに見据えた。
「死が失われた世界は、命を永遠の牢獄に変える。――その景色を見に行く覚悟はあるか、冬の巫女? 」
ノエルは静かに頷く。
「恐れはありません。選んだ道は、必ず最後まで進みます」
「そうこなくては、な」
モルカーンは喉の奥で低く笑う。
彼が手を振ると霧が裂け、魔法世界へ続く氷の橋が生まれた。
「行こう。オルフェリアが選んだ道を」
そして――消えた秋。
三つの道が完全に分かれた瞬間、金色の葉がただ一枚、空から落ちた。
触れようとした者は誰もいない。
誰もが知っていた――それは姿を消した季節。
欠けた季節。失われた声。その影だけが、三つの旅路を静かに見送った。
三つの道は動き出す
春は光と音の門をくぐり、
夏は炎の階段を下り、
冬は凍る霧の橋を進む。
再び交わるとき、世界は変わる。
そして、その鍵となるのは――欠けた秋だった。
風もなく、鳥も鳴かず、ただ淡い霧だけが地面の花々を覆っている。
セリスが一歩踏み出すたび、霧は薄桃色の粒となって舞い立ち、 やわらかな光の波紋を描きながら、春の調べのように震えた。
――精霊界は、この向こうにある。
セリスはそっと息を呑んだ。
「オルフェリア……あなたも、ここを通ったの?」
問いかけに応えるように、霧の向こうで色が揺れた。
それは音が姿を持ったかのような存在―― 淡い金色と白の光が重なり、波紋のように形を変えながら近づいてくる。
ゆらり、ゆらり。
その姿は輪郭を結び、柔らかな少年とも少女ともつかない面影へと収束していった。
だが次の瞬間、その輪郭はふっとほどけ、光がさらさらと散った。
光粒が弧を描き、地上へ降りる。
光の粒がはらりと触れた場所から、細い足、柔らかな体毛、 やがて――淡銀色の子狐が姿を現した。
しなやかな尾がひとつ揺れ、虹の色に輝く瞳がまっすぐにセリスを見上げる。
小さく喉が鳴り、鈴の音のような音が響く。
その音が空気を震わせると、淡い光が狐を包み―― 再び、人の形へと変わってゆく。
「ボクのことを、覚えてる?春の巫女セリス」
声は、風の鈴のようにかすかで澄んでいた。
「もちろんよ、音の精霊レゾナ。精霊界の〈窓口〉」
既視感に似た柔らかな感覚に包まれて、セリスは精霊を眺めた。
四人の巫女達はそれぞれの任期中、外界側の各世界の窓口となる存在と絆を持つ。
セリスの担当は精霊界で、今の〈窓口〉がこの、音の精霊レゾナだった。
〈窓口〉は巫女達と違って輪廻転生を繰り返すわけではないし、一定の期間をおいて交代する。
それでも、彼らの任期中はしばしばこの東の花園のような境界で顔をあわせるし、巫女達にとってはそれがほぼ唯一の外界との接点だった。
「セリスは、欠けた秋の声をさがしに行くの?それなら、一緒に行くよ」
セリスの胸に、かすかな震えが広がった。
見えない弦が触れ合い、互いの心の奥で共鳴するような感覚。
「ありがとう、レゾナ」
精霊はふわりとほほえみ、セリスに手を差し伸べる。
その手は、光そのもののように華奢で、温かかった。
「レゾナ。あなた……もしかして、秋の巫女オルフェリアに会った?」
「秋の巫女?この前ここを通って行った、落ち葉色の髪の人のこと?」
音の精霊が小首をかしげると、淡銀色の柔らかな髪がゆらゆらと揺れた。
精霊の言う「この前」が、実際には一体どれほど前のことなのかは、セリスにはわからない。
だが、確かにオルフェリアはここを通ったのだ。
「君以外の巫女が、精霊界に来たのは初めてだったから、驚いたよ」
「え?オルフェリアは今、精霊界にいるの!?」
セリスは思わず、精霊の肩を掴んだ。
「私、彼女を見つけたいの。絶対!オルフェリアが今どこにいるか知っているなら、そこへ連れて行って!お願いだから」
二人の間で、淡桃と銀白の音の花が夜空へ舞い昇った。
弾ける光粒が、いくつもの環となって二人を包む。
「今どこにいるかは、わかんないよ。ボクが知らない間に、一人で〈島〉に帰ったかもしれないし」
音の精霊の虹色の瞳が、困ったように揺れる。
「でも……彼女が精霊界で見た物なら、見せてあげられる。そこから君が、何かを見つけられたらいいんだけど」
ふわり……と、柔らかな微笑が、音の精霊の中性的な顔に広がる。
「一緒に行く?セリス」
「もちろん!決まってるじゃない」
セリスは腕を広げて、音の精霊の小柄な体をぎゅっと抱きしめた。
レゾナは小さく「わわっ」と声を上げ、虹色の瞳を丸くしながらも彼女の抱擁を受け入れた。
「温かいね……君。君の気持ちが、伝わってくる。本当に彼女を——秋の巫女オルフェリアを、見つけたいんだね」
小さくつぶやいて、レゾナはするりと姿を転じ、ふたたび淡銀色の子狐の姿になって花畑に降り立った。
「じゃあ、こっちだよ。ついてきてくれる?」
「うん!」
レゾナの揺れる尾の先が、虹色の残像を残す。
淡銀色の光を追いかけて、セリスは精霊界へと足を踏み入れた。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
リュシアは〈島〉の南の霧を抜け、〈島〉と人間界の境界に揺らめく南の遺跡へ足を踏み入れた。
南へ向かうほど、霧は静かに薄れ、乾いた熱の気配が広がっていく。
遺跡の白い石柱が陽光を反射し、夏の巫女リュシアの金橙の髪を陽炎のように揺らめかせる。
そのとき、ひとつの弦の音が、遠い記憶を揺らすように鳴った。
崩れかけたアーチの陰から、黒褐色の髪を風に揺らして、ひとりの男が姿を現す。
背に下げたリュート、旅慣れた様相の引き締まった体躯、日に焼けた顔は整っていて、ほんの少し皮肉っぽい微笑を浮かべている。
「久しぶりだね、夏の巫女リュシア」
「そろそろ現れると思ったわ、エラリオン」
彼は、語り部エラリオン。リュシアが担当する人間界の、今の〈窓口〉だった。
「相変わらず、世界全体を背負ってしまったような顔をしているね、リュシア」
リュシアはまっすぐに、語り部の皮肉っぽい言葉を受け止めた。
「だって、それが私の役目だもの。誰かが立って、前に進まないと」
エラリオンは目を細め、リュートを前に抱えなおして弦を優しく鳴らした。
「君はいつも真面目だね。でも、それだけでは人の心は動かない。俺の語る物語は“願い”や“弱さ”——つまり欲望を映す鏡だ」
リュシアは少し視線をそらし、そしてまた、語り部の顔を見た。
「わかってるわ。けど今は、欲望より優先すべきことがあるの。〈島〉の時間が止まり始めてる。秋の巫女が消えたわけを、確かめる必要があるのよ」
エラリオンが微笑み、肩をすくめる。
「そうだね。秋の巫女オルフェリア……彼女は数日前に、ここを通ったよ」
「え!?彼女、人間界に居るの?あの、引きこもり……じゃなかった、引っ込み思案が!?」
リュシアの金琥珀の瞳が、驚きに見開かれる。
「あー……今もいるかどうかは、わからないな。人間界で俺と別れた後、ひとりで〈島〉に帰ったかも知れないし。人間界の騒々しさが、煩わしそうだったし」
語り部は長い指でリュートの弦をもてあそびながら、苦笑いした。
「でも、彼女を人間界へ案内したのは俺だ。彼女が触れた場所、歩いた道を、君にも案内できる。確かめてみるか?一緒に」
「当然よ」
リュシアの答えは早かった。
「迷っている暇なんかない。月が満ちるまでしか、時間はないの。彼女が辿った道を私も辿り、彼女が何を見たのかを確かめる」
「相変わらずだね、君は。まっすぐで、迷いがない」
エラリオンはリュートを肩に担ぎ、リュシアの横に立った。
「そもそも彼女、なんで人間界になんか行ったのよ?あなた、わけを聞いた?」
「聞いたさ、もちろん」
「で、返事は?」
「『理由は説明できないの。ただ、行かなきゃいけない』って、ね」
「……オルフェリアらしいわね。ほんとに、いつも思わせぶりで」
リュシアは盛大なため息をつく。
「で、あなた、それ以上は追及しなかったの?」
「ああ。『説明できない確信』なんて、面白い物語になりそうじゃないか」
「……これだから、語り部って奴は嫌いなのよ」
ぶつぶつと文句を言うリュシアを、面白そうにエラリオンは見下ろす。
輪廻転生を繰り返す、〈島〉の巫女達ーー彼女達は定命の自分達人間とはかけ離れた存在だと、〈窓口〉の任を受ける前は思っていた。
だが……この夏の巫女は、自分の知っている人間の女達と同じように笑い、泣き、怒り、文句を言う。
陽光を受けて輝く金橙の髪と金琥珀の瞳は、凛とした顔立ちに映えて神々しいほどに美しいけれどーー
ーー案外、可愛いよな……ーー
『月が満ちるまでしか、時間はない』とリュシアは言っていたが、数日の時間は共に過ごせるだろう。
リュシアはどうかわからないが、エラリオンにとっては楽しい旅になりそうだった。
「まぁ、いいじゃないか。とにかく、行こう」
「……助かるわ。でも、急ぐわよ」
「急ぐのはいいが、突っ走りすぎるなよ。俺は、物語を見落とすのはごめんだからな」
肩のリュートを叩き、不敵に笑って歩き出す語り部の姿を、苛立ち半分でにらみつつ、リュシアは彼の横に並ぶ。
乾いた風が火の粉のように舞い上がって、人間界に足を踏み入れる二人の影を結んだ。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
ノエルは〈島〉の西の霧を抜け、〈島〉と魔法界の境界に揺らめく北の森へ足を踏み入れた。
そこは、絶えず形を変え続ける迷宮のようだった。
白銀の風が木々の輪郭を削り取り、足元の道を飲み込み、次の瞬間には別の景色へとつなぎ替える。
ノエルは一歩進むごとに、世界の境界そのものが薄れていくような感覚に身を浸していた。
やがて――森の中心、凍てついた湖面のような静寂が広がる空間に、霧がゆっくりと立ち上った。
それは人の形を成し、やがて荘厳な姿へと結晶していく。
白銀の王冠を頂き、霧そのものを纏う霧の王・モルカーン。
「王」と言ってもそれは二つ名で、人間の世界での「王」のように統べる民がいるわけではない。ただ、この「王」は霧を支配し、自在に操る。
彼は、ノエルが担当する魔法界の、今の期間の〈窓口〉だった。
魔法生物である彼は、生身の肉体を持つ巫女達よりも長く生きる。ノエルはもう数十年ほど、この王とつきあってきていた。
彼の声は、風が雪を撫でるように柔らかく、重みを帯びていた。
「冬の巫女よ。久しいな」
ノエルは、無言で頭を下げて応じた。
「時の止まりつつある〈世界〉のことか」
モルカーンの黒々とした瞳孔の見えない瞳が、霧の躯体の奥で深く光った。
「時が止まり、死が存在しなくなれば、命は終わりを得られない。終わりを失った魂は、永遠という牢獄の中で凍り続ける。そして〈島〉は、すでにその崩壊の始まりに立っている。」
どこか哀しみを帯びた声音だった。
その言葉に、ノエルは目を逸らさず応えた。冷たい瞳に揺らぎはなく、彼女は静かに言葉を返す。
「死がなくなりそうなら、なおさら生の意味を確かめなければ。そのためにも、秋の巫女オルフェリアの行方を追わないと」
モルカーンは霧の裾を揺らし、彼女を見つめた。
「数日前、オルフェリアを魔法世界へ案内したのは私だ。だが、今どこにいるかは知らぬ。彼女とは魔法界で別れた」
沈黙が二人を包む。白銀の風が枝を鳴らし、霧が形を変えた。
雪の粒がひとつ、ノエルの掌に触れて溶ける。
「……ならば、私もその道を辿るわ」
ノエルの声は静かだが、決意は揺るぎなかった。
「〈世界〉が凍りついて止まる前に、彼女が消えた理由を確かめなければ」
モルカーンはゆるやかにうなずき、霧の王冠を揺らす。
「冬の道は、お前を試すだろう。だが選んだのなら、恐れずに進め。――沈黙の向こうに、答えはある」
霧が再び風に溶け、森は元の深い静寂を取り戻してゆく。
「霧の迷宮は危うい。私が導こう。秋の巫女の行った道を」
ノエルは無言で頭を下げ、先に立つ霧の王について歩き出す。
白銀の風を背に受け迷宮の森を抜けて、魔法世界への道へ。
――沈黙と死の不在を抱えながら。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
風は、世界を三つに裂くように、静かに分岐していった。
東、南、北――
三つの入口が同時に開かれ、光と霧と炎がゆっくりと重なり、離れていく。
その境界のただなかに、三組の対が立っていた。
春の巫女と精霊、夏の巫女と吟遊詩人、冬の巫女と魔の王。
春は ―― 東の花園を経て精霊界へ
淡桃色の霧が足元から広がり、かすかな音となって脈打つ。
音はやがて光へと変わり、精霊界の入口を浮かび上がらせる。
春の巫女セリスは、白い小狐をそっと抱き上げる。
小狐の瞳は、音の調べのように虹の七色を たたえていた。
「レゾナ……行きましょう。欠けた声を取り戻すために。私一人では届かない場所へ」
狐の形をしていた精霊は、小さな震えとともに人の姿へ溶ける。
淡い光と音のしぶきが舞い、淡銀色の髪が舞った。
レゾナはそっとセリスの手を取る。
その声は、どこまでも透明だった。
「声を探す旅へ、行こう」
二人の手が重ねられた瞬間、
音の波が春の門を震わせ、精霊界への道が花のように開いた。
夏は ―― 南の神殿遺跡を抜けて人間界へ
灼熱の風が吹き抜け、陽光が砕けた石柱に反射する。
夏の門は、古代文字の刻まれた神殿の奥で脈動していた。
リュシアは深く息を吸い、 その向かいで吟遊詩人エラリオンが背のリュートを背負い上げた。
「また怖い顔をしてるね、リュシア」
彼はいつもの調子で皮肉めいて笑う。
リュシアは眉をひそめ、答えた。
「だって――時間があまりないもの」
「そうだね。人生は短い」
エラリオンはリュシアに手を差し伸べ、リュシアは彼を睨むようにしながらその手を取る。
「オルフェリアも先日ここを通った。僕は彼女を人間界の光へ案内した。――君も同じ場所へ連れていける」
夏の風が二人を包み、入口が深い光の海へと変わった。
冬は ―― 北の霧の森を越え、魔法世界へ
白銀の霧が重く漂い、森は形を変え続ける迷宮だった。
その中心、霧を裂いて立つ影――霧の王モルカーン。
ノエルは凍る空気の中、王の瞳をまっすぐに見据えた。
「死が失われた世界は、命を永遠の牢獄に変える。――その景色を見に行く覚悟はあるか、冬の巫女? 」
ノエルは静かに頷く。
「恐れはありません。選んだ道は、必ず最後まで進みます」
「そうこなくては、な」
モルカーンは喉の奥で低く笑う。
彼が手を振ると霧が裂け、魔法世界へ続く氷の橋が生まれた。
「行こう。オルフェリアが選んだ道を」
そして――消えた秋。
三つの道が完全に分かれた瞬間、金色の葉がただ一枚、空から落ちた。
触れようとした者は誰もいない。
誰もが知っていた――それは姿を消した季節。
欠けた季節。失われた声。その影だけが、三つの旅路を静かに見送った。
三つの道は動き出す
春は光と音の門をくぐり、
夏は炎の階段を下り、
冬は凍る霧の橋を進む。
再び交わるとき、世界は変わる。
そして、その鍵となるのは――欠けた秋だった。
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