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一章
霧の島、止まった季節①
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薄い霧が絶え間なく流れこむ〈島〉には、いつも四季が重なり合う不思議な気配が満ちている。
足元には春の花が芽吹き、少し先には夏草が揺れ、遠くでは秋の金葉が舞い、雪片が混じる冬の風が頬をかすめる。
すべてが同時に息づき、互いを否定せず、ただ静かに循環する世界。
その中心にそびえるのが、天空に届くほどの巨木――世界樹である。
世界樹の根元には澄んだ湖が横たわり、霧が光を抱きながら水面を撫でる。
湖は四季それぞれの色を映し、朝に春の若緑、昼に夏の群青、夕に秋の朱、夜には冬の白光を湛える。
水面を見つめていると、今がどの季節なのか分からなくなるほどだ。
そして世界樹の幹の奥深く、柔らかな光の洞(ほら)に、〈女神の竪琴〉が静かに鎮座している。
竪琴は息づくように淡い光を脈打ち、触れられてもいないのに微かな音を放つ。
その調べは心臓の鼓動に似て、〈島〉全体の霧や風の流れと共鳴していた。
まるで世界そのものの拍動が、そこから生まれているかのように。
この〈島〉は単なる孤島ではない。
精霊界、人界、魔法世界、そして夢界――四つの世界へつながる結節点であり、それらを調和させる心臓部でもある。
竪琴の響きは境界の扉をゆっくりと開け閉めし、世界のバランスを保ち続けているのだった。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
〈島〉には、季節を巡らせる四人の巫女がいる。
彼女たちはそれぞれ一つの魂が輪廻の環に沿って転生した姿であり、〈女神の竪琴〉の音色に呼応して誰かが歌を唄い続けて限り、季節も命もめぐり続ける。
彼女たちの声は世界の調べと結ばれ、耳に届くより先に、大地と風に触れる歌だった。
春の巫女セリスは、朝露を抱く若草の息吹そのもの。
彼女の声は柔らかく、触れた者をそっとほどくような慈愛を帯びる。
新たな命を誘う再生の調べは、聴く者の胸にひかりを芽吹かせた。
夏の巫女リュシアは、灼ける陽炎をまとった太陽の娘。
生命の躍動と情熱を歌い、熱や光までも共鳴させる。
彼女が歌えば、森は濃く、海は青く、生きるものの血潮は火のように巡った。
秋の巫女オルフェリアは、落葉のように静かで、深い熟成の香りを宿す声を持つ。
彼女の歌は魂の奥に触れ、実りと別れ、そして鎮魂をそっと撫でていく。
木々が金色に染まるのは、彼女が歌を紡ぐ時だと言われた。
冬の巫女ノエルは、雪の結晶が降り積もるときの静けさをそのまま響きにした存在。
沈黙と永遠を抱き、透明で冷たく、しかし美しい余韻を残す歌声。
彼女が歌うと、時間さえ息を潜めた。
四つの声は、時にひとつで多い時は全てが織り合って歌を紡ぎ、そうして〈島〉は巡っていた。
彼女たちの歌は四季の循環を織りなし、命の流れを支える調べとなる。
歌声が途絶えれば、季節は止まり、世界は眠りに閉ざされる。
巫女たちはそれを知り、何度も再び生まれ、再び歌う。
それは、女神がこの世界の輪を回し時を紡ぐための、祈りの音色だった。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
春が始まりかけていたある日、〈島〉を取り巻く霧が、ふいに重くなった。
いつもなら朝日とともに薄れていく白い帳が、まるで空に縫いとめられたように、どれほど待っても晴れない。
朝と夜の境はぼやけ、空の色さえ定まらず、永遠の薄明だけが世界を覆った。
鳥たちはさえずりを失い、枝の上でじっと空気の気配を聴いている。
花々は咲き続けたまま萎れず、色は濃いのに、どこか命の流れを拒むように静止していた。
風もほぼ吹かず、葉の揺れもわずか。
動くもののすべてが、まるで呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだった。
時だけがゆっくりと、しかし確実に止まっていくような気配があった。
世界樹の洞にある〈女神の竪琴〉は、いつものような調べを紡ぐことをやめ、長く細く乱れた和音を響かせ続けていた。
その音は旋律と呼べるようなものではなく、どこか世界の奥底を震わせる、不穏な弦たちの吐息を思わせた。
それは、世界の心臓が乱れた兆し。
巡るはずの季節が止まり始めた、最初の合図だった。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
始まりかけていた春の時間が止まりかけているのは、祝福ではなかった。
それは、あらゆる終わりを拒む、緩やかな死そのものの気配を孕んでいた。
はじめは些細な違和感だった。
人々が、朝の光と夕暮れの色が同じに見えると言い始めた。
怪我をしても血はほとんど流れず、そのかわりに治る気配もしない。
痛みは鈍く、喜びも悲しみも薄れ、全てが春の霞に溶けていくようだった。
森の果実は落ちず、土に還らない。
川の流れは滞り、鳥たちは巣の縁で声をあげず佇んでいる。
世界そのものが、深く呼吸することを忘れてしまったようだった。
〈島〉の時間が、静かに、しかし確実に閉じ始めている。
春の巫女セリスは芽吹きの気配が途絶えたことに気が付き、歌に和してくる祈りの声がないことに気が付いた。
夏の巫女リュシアは情熱の炎が揺らがぬまま凍りついたことに不安を覚え、生命の躍動が失われつつあることを悟った。
冬の巫女ノエルは沈黙の深さが永遠へと変わりゆく兆しを見て、静寂が世界を覆い尽くす予感に震えた。
彼女たちの歌は季節を巡らせる力をほぼ失い、ただ虚ろに響くだけとなっていた。
春の温もりは薄く、夏の脈動は弱く、冬の静寂は遠ざかり……気づけば、秋の気配だけがどこにもない。
そして、誰かがようやく口にした。
――秋の巫女、オルフェリアが姿を消した、と。
止まりかけた世界、巡らなくなった時間、そして……欠けた秋。
彼女の住居を訪れた三人の巫女が見たものは、主の姿をなくした虚ろな空間だった……。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
〈島〉には、いつもなら春・夏・冬の声とともに、柔らかな黄金の余韻を残す秋の声流れているはずだった。
しかし今、響くべき秋の声はどこにもなく、空気は妙に軽く、冷えていた。
最初に異変を察したのは、春の巫女セリスだった。
胸の奥でさわぐ予感を抱えて、彼女は急いで秋の巫女オルフェリアの住居へ向かった。
だが、細い金色のツタ模様の装飾に覆われた栗色の木の扉を開けても、そこに秋の巫女の姿はない。
茶と深い赤で統一された寝具は整えられ、琥珀色のランプの灯りだけが静かに沈んでいる。
一足遅れて来た夏の巫女リュシアは、秋の巫女らしい落ち着いた色合いの室内を見渡し、形の良い金橙色の眉を釣り上げた。
「どこへ行ったというの? この島から遠く長く離れることなんて、私達にはできないのに」
怒りと不安を隠しきれない声が、静寂に響く。
その後ろに、冬の巫女ノエルが音もなく立った。彼女は雪の日の静けさのごとく、何も言わない。
ただ世界樹の根を伝って届く〈世界〉の鼓動に、耳を澄ました。
ほんのわずかに、しかし確かに、その律動がずれている。
三人の巫女は互いの表情を見交わした。
「〈女神の竪琴〉の様子を見に行かなければ」
と、夏の巫女リュシアが、言った。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
三人の巫女は、秋の巫女オルフェリアの住居を後にし、そろって世界樹の前に静かに立った。
世界樹の中央の洞に浮かぶ〈女神の竪琴〉は、四つの季節の歌声とともり世界を廻すための共鳴体として、十六本の弦でいつも柔らかな旋律を紡ぐはずだった。
しかし、その日鳴っているのは、凝縮された長く美しい、不安定な和音の響きだけ。
春の四弦、夏の四弦、冬の四弦――それらは変わらず脈動しているが、秋の四弦はわずかに震えるのみ。
まるで季節の命が凍りつき、閉じ込められたかのように。
それは美しくも狂気を誘うような不協和音であり、聴く者の心を涙で満たすほどに甘美でありながら、それでいて耐え難い痛みを伴っていた。
秋の巫女が死んだわけではないのは、三人の巫女達にはわかっていた。
彼女らの魂は細い絆でつなぎ合わされており、誰かが命を終えて次の生に移行したのであれば、そのことがすぐに伝わってくる。
そもそも、彼女たちは輪廻転生を繰り返す存在……オルフェリアは確かに四人の中で現在は最年長だが、それでも今回の命を終わらせるのは、あと十年は先のことになる予定だった。
だが、その秋の巫女は姿を消し、竪琴の秋の弦は十分な音を奏でず、季節を動かし時を進める調べは今、歪んだ音色になっている。
セリスは竪琴の音に涙を滲ませ、不快な和音に身を委ねながら呟いた。
「彼女……オルフェリアはきっと、どこかにいるはずよ」
一方のリュシアは耳を押さえ、苛立ちを隠せなかった。
「この半端な和音、まるで世界をゆがませるよう」
怒りに近い影が、彼女の金琥珀色の瞳に走る。
ノエルは静かに竪琴の弦に手をかざし、落ち着いた声で言った。
「秋の声が欠け、弦の動きも弱まっている。だから旋律が〈世界〉を回せず、永遠の停滞に落ちようとしているよう」
その言葉に、二人はうなずく。
秋の巫女の姿がないのは単なる不在ではなく、おそらく〈島〉を中心としたこの〈世界〉そのものの異変とつながっている。
「オフェリアはーーどこに行ったの?」
泣きそうな声で、春の巫女セリスが言った。
輪廻転生を繰り返す巫女達の中でも、今は彼女が一番この生命で過ごした時間が短いせいか、その感情の振れ幅も瑞々しい。
冬の巫女ノエルの白い手が、慰めるようにその肩に置かれた。
「もう一度、調べてみましょう。彼女の住まいを……」
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
三人はふたたび、秋の巫女オルフェリアの部屋に立ち戻った。
そこは、彼女そのもののように静かで、深く、そしてどこか温かかった。
茶と赤を基調に、ところどころ金色が差し込まれている、簡素で小さな空間。
磨き込まれた木の壁は秋の深まりを思わせ、丸みのある机や柔らかな灯りが、長い時を生きた彼女の静謐な暮らしを物語っていた。
棚には使い込まれた楽器が数点、書物と寄り添っている。
その空間の一番奥に進むと──小さな丸机の上に、四つの品物が整然と並べられているのが目に入った。
どれもまるで、消えた秋の巫女の遺品のように。
淡い桃色を帯びた、手のひらほどの大きさの白い花弁のひとひらが、ほんのりと香っている。
太陽のように輝く小ぶりの黄金の杯からは、赤い葡萄酒があふれんばかり。
掌二枚分ほどの大きさの白銀に光る石板の上には、流れるように文字が浮かんでは消えていく。
胡桃の実ほどの大きさの、いびつな形の黒曜石は──ゆっくりと、かすかに伸縮していた。
「これは……何?」
リュシアはつぶやき、杯を取り上げる。
なみなみと満たされていた葡萄酒がゆれて零れ、果実と酒の香が広がった。
「人の世界の、匂いがする」
眉をひそめて、リュシアはつぶやき、杯に鼻をよせて葡萄酒の香りを嗅いだ。
「毒じゃないようね」
言うなり、勢いよく中身を煽る。
「ちょっと、リュシア!」
慌ててその手を止めようとしたセリスの前に、リュシアは空になった杯を差し出した。
目の前で、さながら内側から湧き出してくるかのように、みるみるうちに杯の中身がふたたび葡萄酒で満たされていく。
「これは……」
「何かの、魔道具みたいね。ということは、他もそう」
リュシアは口元をぬぐって、他の3つに目を向ける。
セリスはおそるおそる花弁に顔を近づけ、
「精霊の、気配がする……」
と、言った。ノエルは石板を手に取り、
「こちらからは、魔法界の香りが」
と、告げる。
「ということは、残る1つは、夢界にゆかりのあるもの……オルフェリアってば、私たちに何も言わず、本当に何を考えて、こんなものを残して、どこへ行ったのよ」
と、リュシアは悔しげに唇を噛む。
四つの品――魔道具――は、〈島〉を取り巻きそこに繋がる四つの世界――精霊界、人間界、魔法界、夢界――と、おそらく何らかのゆかりを持っている。
秋の巫女オルフェリアはなぜ、これらを揃えたのか、どうして揃えたのか……そしてなぜ、姿を消したのか。
だが、まちがいなくオルフェリアは、確かな理由があってこの象徴をここに置き、そして姿を消した――その沈黙の告白だけが、部屋に残されていた。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
セリスは、淡い桃色を帯びた白い花びらを拾い上げて両手で包み込み、そっと胸元に押し当てた。
花弁に走る脈に沿って、淡い光が小さく鼓動するように震える。
まるで、何かを語り出そうとするかのように。
「オルフェリアはまだきっと、どこかに居る。私はこれを頼りに、精霊の世界を探しにいってみるわ。必ず、彼女を見つける」
その声は弱かったが、大きな灰緑色の瞳には強い光が宿っていた。
リュシアは黄金の杯を握りしめ、怒りとも悔しさともつかない苦みに顔をゆがませる。
「黙っていなくなったままでは、終わらせないわ。あの人を連れ戻す。私はこれを持って、人間界に行く」
その強い声は、火花のように弾けた。
ノエルは白い石板を静かに抱え込み、低く呟いた。
「時間が止まろうとしている……急がねば。私は、これを頼りに魔法界へ行く」
その瞳は氷のように澄んでいたが、同時に深い憂いに沈んでいた。
「時間は……どのぐらい、ありそうかしら?」
今回の命を最も長く生きているノエルに向かって、リュシアが尋ねた。
ノエルは「わからない」というように、濃紺色の髪を振った。
「おそらくは……月の満ち欠けがひとつ、巡るぐらい……」
そのぐらいの刻がすぎるうちには、竪琴の音はきっと止まってしまう。
そうなったら、三人がどれほど歌っても、これ以上世界を廻し続けることはできない。
三人は誰からともなく、丸机の上に最後にひとつ残された、いびつな形の黒曜の石へ手を伸ばした。
触れた瞬間、ひどく冷たい鼓動が指先へ伝わる――そこには確かに、何か命のようなものが宿っていた。
「きっと、これのことも調べにいかねばならないだろうから……それぞれの調べものの期限は、月が半分巡るまでにしましょうか」
ノエルの提案に、二人はうなずく。
「ではーー」
「月が半分、巡り終わるまでに」
「戻ってきましょう」
足元には春の花が芽吹き、少し先には夏草が揺れ、遠くでは秋の金葉が舞い、雪片が混じる冬の風が頬をかすめる。
すべてが同時に息づき、互いを否定せず、ただ静かに循環する世界。
その中心にそびえるのが、天空に届くほどの巨木――世界樹である。
世界樹の根元には澄んだ湖が横たわり、霧が光を抱きながら水面を撫でる。
湖は四季それぞれの色を映し、朝に春の若緑、昼に夏の群青、夕に秋の朱、夜には冬の白光を湛える。
水面を見つめていると、今がどの季節なのか分からなくなるほどだ。
そして世界樹の幹の奥深く、柔らかな光の洞(ほら)に、〈女神の竪琴〉が静かに鎮座している。
竪琴は息づくように淡い光を脈打ち、触れられてもいないのに微かな音を放つ。
その調べは心臓の鼓動に似て、〈島〉全体の霧や風の流れと共鳴していた。
まるで世界そのものの拍動が、そこから生まれているかのように。
この〈島〉は単なる孤島ではない。
精霊界、人界、魔法世界、そして夢界――四つの世界へつながる結節点であり、それらを調和させる心臓部でもある。
竪琴の響きは境界の扉をゆっくりと開け閉めし、世界のバランスを保ち続けているのだった。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
〈島〉には、季節を巡らせる四人の巫女がいる。
彼女たちはそれぞれ一つの魂が輪廻の環に沿って転生した姿であり、〈女神の竪琴〉の音色に呼応して誰かが歌を唄い続けて限り、季節も命もめぐり続ける。
彼女たちの声は世界の調べと結ばれ、耳に届くより先に、大地と風に触れる歌だった。
春の巫女セリスは、朝露を抱く若草の息吹そのもの。
彼女の声は柔らかく、触れた者をそっとほどくような慈愛を帯びる。
新たな命を誘う再生の調べは、聴く者の胸にひかりを芽吹かせた。
夏の巫女リュシアは、灼ける陽炎をまとった太陽の娘。
生命の躍動と情熱を歌い、熱や光までも共鳴させる。
彼女が歌えば、森は濃く、海は青く、生きるものの血潮は火のように巡った。
秋の巫女オルフェリアは、落葉のように静かで、深い熟成の香りを宿す声を持つ。
彼女の歌は魂の奥に触れ、実りと別れ、そして鎮魂をそっと撫でていく。
木々が金色に染まるのは、彼女が歌を紡ぐ時だと言われた。
冬の巫女ノエルは、雪の結晶が降り積もるときの静けさをそのまま響きにした存在。
沈黙と永遠を抱き、透明で冷たく、しかし美しい余韻を残す歌声。
彼女が歌うと、時間さえ息を潜めた。
四つの声は、時にひとつで多い時は全てが織り合って歌を紡ぎ、そうして〈島〉は巡っていた。
彼女たちの歌は四季の循環を織りなし、命の流れを支える調べとなる。
歌声が途絶えれば、季節は止まり、世界は眠りに閉ざされる。
巫女たちはそれを知り、何度も再び生まれ、再び歌う。
それは、女神がこの世界の輪を回し時を紡ぐための、祈りの音色だった。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
春が始まりかけていたある日、〈島〉を取り巻く霧が、ふいに重くなった。
いつもなら朝日とともに薄れていく白い帳が、まるで空に縫いとめられたように、どれほど待っても晴れない。
朝と夜の境はぼやけ、空の色さえ定まらず、永遠の薄明だけが世界を覆った。
鳥たちはさえずりを失い、枝の上でじっと空気の気配を聴いている。
花々は咲き続けたまま萎れず、色は濃いのに、どこか命の流れを拒むように静止していた。
風もほぼ吹かず、葉の揺れもわずか。
動くもののすべてが、まるで呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだった。
時だけがゆっくりと、しかし確実に止まっていくような気配があった。
世界樹の洞にある〈女神の竪琴〉は、いつものような調べを紡ぐことをやめ、長く細く乱れた和音を響かせ続けていた。
その音は旋律と呼べるようなものではなく、どこか世界の奥底を震わせる、不穏な弦たちの吐息を思わせた。
それは、世界の心臓が乱れた兆し。
巡るはずの季節が止まり始めた、最初の合図だった。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
始まりかけていた春の時間が止まりかけているのは、祝福ではなかった。
それは、あらゆる終わりを拒む、緩やかな死そのものの気配を孕んでいた。
はじめは些細な違和感だった。
人々が、朝の光と夕暮れの色が同じに見えると言い始めた。
怪我をしても血はほとんど流れず、そのかわりに治る気配もしない。
痛みは鈍く、喜びも悲しみも薄れ、全てが春の霞に溶けていくようだった。
森の果実は落ちず、土に還らない。
川の流れは滞り、鳥たちは巣の縁で声をあげず佇んでいる。
世界そのものが、深く呼吸することを忘れてしまったようだった。
〈島〉の時間が、静かに、しかし確実に閉じ始めている。
春の巫女セリスは芽吹きの気配が途絶えたことに気が付き、歌に和してくる祈りの声がないことに気が付いた。
夏の巫女リュシアは情熱の炎が揺らがぬまま凍りついたことに不安を覚え、生命の躍動が失われつつあることを悟った。
冬の巫女ノエルは沈黙の深さが永遠へと変わりゆく兆しを見て、静寂が世界を覆い尽くす予感に震えた。
彼女たちの歌は季節を巡らせる力をほぼ失い、ただ虚ろに響くだけとなっていた。
春の温もりは薄く、夏の脈動は弱く、冬の静寂は遠ざかり……気づけば、秋の気配だけがどこにもない。
そして、誰かがようやく口にした。
――秋の巫女、オルフェリアが姿を消した、と。
止まりかけた世界、巡らなくなった時間、そして……欠けた秋。
彼女の住居を訪れた三人の巫女が見たものは、主の姿をなくした虚ろな空間だった……。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
〈島〉には、いつもなら春・夏・冬の声とともに、柔らかな黄金の余韻を残す秋の声流れているはずだった。
しかし今、響くべき秋の声はどこにもなく、空気は妙に軽く、冷えていた。
最初に異変を察したのは、春の巫女セリスだった。
胸の奥でさわぐ予感を抱えて、彼女は急いで秋の巫女オルフェリアの住居へ向かった。
だが、細い金色のツタ模様の装飾に覆われた栗色の木の扉を開けても、そこに秋の巫女の姿はない。
茶と深い赤で統一された寝具は整えられ、琥珀色のランプの灯りだけが静かに沈んでいる。
一足遅れて来た夏の巫女リュシアは、秋の巫女らしい落ち着いた色合いの室内を見渡し、形の良い金橙色の眉を釣り上げた。
「どこへ行ったというの? この島から遠く長く離れることなんて、私達にはできないのに」
怒りと不安を隠しきれない声が、静寂に響く。
その後ろに、冬の巫女ノエルが音もなく立った。彼女は雪の日の静けさのごとく、何も言わない。
ただ世界樹の根を伝って届く〈世界〉の鼓動に、耳を澄ました。
ほんのわずかに、しかし確かに、その律動がずれている。
三人の巫女は互いの表情を見交わした。
「〈女神の竪琴〉の様子を見に行かなければ」
と、夏の巫女リュシアが、言った。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
三人の巫女は、秋の巫女オルフェリアの住居を後にし、そろって世界樹の前に静かに立った。
世界樹の中央の洞に浮かぶ〈女神の竪琴〉は、四つの季節の歌声とともり世界を廻すための共鳴体として、十六本の弦でいつも柔らかな旋律を紡ぐはずだった。
しかし、その日鳴っているのは、凝縮された長く美しい、不安定な和音の響きだけ。
春の四弦、夏の四弦、冬の四弦――それらは変わらず脈動しているが、秋の四弦はわずかに震えるのみ。
まるで季節の命が凍りつき、閉じ込められたかのように。
それは美しくも狂気を誘うような不協和音であり、聴く者の心を涙で満たすほどに甘美でありながら、それでいて耐え難い痛みを伴っていた。
秋の巫女が死んだわけではないのは、三人の巫女達にはわかっていた。
彼女らの魂は細い絆でつなぎ合わされており、誰かが命を終えて次の生に移行したのであれば、そのことがすぐに伝わってくる。
そもそも、彼女たちは輪廻転生を繰り返す存在……オルフェリアは確かに四人の中で現在は最年長だが、それでも今回の命を終わらせるのは、あと十年は先のことになる予定だった。
だが、その秋の巫女は姿を消し、竪琴の秋の弦は十分な音を奏でず、季節を動かし時を進める調べは今、歪んだ音色になっている。
セリスは竪琴の音に涙を滲ませ、不快な和音に身を委ねながら呟いた。
「彼女……オルフェリアはきっと、どこかにいるはずよ」
一方のリュシアは耳を押さえ、苛立ちを隠せなかった。
「この半端な和音、まるで世界をゆがませるよう」
怒りに近い影が、彼女の金琥珀色の瞳に走る。
ノエルは静かに竪琴の弦に手をかざし、落ち着いた声で言った。
「秋の声が欠け、弦の動きも弱まっている。だから旋律が〈世界〉を回せず、永遠の停滞に落ちようとしているよう」
その言葉に、二人はうなずく。
秋の巫女の姿がないのは単なる不在ではなく、おそらく〈島〉を中心としたこの〈世界〉そのものの異変とつながっている。
「オフェリアはーーどこに行ったの?」
泣きそうな声で、春の巫女セリスが言った。
輪廻転生を繰り返す巫女達の中でも、今は彼女が一番この生命で過ごした時間が短いせいか、その感情の振れ幅も瑞々しい。
冬の巫女ノエルの白い手が、慰めるようにその肩に置かれた。
「もう一度、調べてみましょう。彼女の住まいを……」
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
三人はふたたび、秋の巫女オルフェリアの部屋に立ち戻った。
そこは、彼女そのもののように静かで、深く、そしてどこか温かかった。
茶と赤を基調に、ところどころ金色が差し込まれている、簡素で小さな空間。
磨き込まれた木の壁は秋の深まりを思わせ、丸みのある机や柔らかな灯りが、長い時を生きた彼女の静謐な暮らしを物語っていた。
棚には使い込まれた楽器が数点、書物と寄り添っている。
その空間の一番奥に進むと──小さな丸机の上に、四つの品物が整然と並べられているのが目に入った。
どれもまるで、消えた秋の巫女の遺品のように。
淡い桃色を帯びた、手のひらほどの大きさの白い花弁のひとひらが、ほんのりと香っている。
太陽のように輝く小ぶりの黄金の杯からは、赤い葡萄酒があふれんばかり。
掌二枚分ほどの大きさの白銀に光る石板の上には、流れるように文字が浮かんでは消えていく。
胡桃の実ほどの大きさの、いびつな形の黒曜石は──ゆっくりと、かすかに伸縮していた。
「これは……何?」
リュシアはつぶやき、杯を取り上げる。
なみなみと満たされていた葡萄酒がゆれて零れ、果実と酒の香が広がった。
「人の世界の、匂いがする」
眉をひそめて、リュシアはつぶやき、杯に鼻をよせて葡萄酒の香りを嗅いだ。
「毒じゃないようね」
言うなり、勢いよく中身を煽る。
「ちょっと、リュシア!」
慌ててその手を止めようとしたセリスの前に、リュシアは空になった杯を差し出した。
目の前で、さながら内側から湧き出してくるかのように、みるみるうちに杯の中身がふたたび葡萄酒で満たされていく。
「これは……」
「何かの、魔道具みたいね。ということは、他もそう」
リュシアは口元をぬぐって、他の3つに目を向ける。
セリスはおそるおそる花弁に顔を近づけ、
「精霊の、気配がする……」
と、言った。ノエルは石板を手に取り、
「こちらからは、魔法界の香りが」
と、告げる。
「ということは、残る1つは、夢界にゆかりのあるもの……オルフェリアってば、私たちに何も言わず、本当に何を考えて、こんなものを残して、どこへ行ったのよ」
と、リュシアは悔しげに唇を噛む。
四つの品――魔道具――は、〈島〉を取り巻きそこに繋がる四つの世界――精霊界、人間界、魔法界、夢界――と、おそらく何らかのゆかりを持っている。
秋の巫女オルフェリアはなぜ、これらを揃えたのか、どうして揃えたのか……そしてなぜ、姿を消したのか。
だが、まちがいなくオルフェリアは、確かな理由があってこの象徴をここに置き、そして姿を消した――その沈黙の告白だけが、部屋に残されていた。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
セリスは、淡い桃色を帯びた白い花びらを拾い上げて両手で包み込み、そっと胸元に押し当てた。
花弁に走る脈に沿って、淡い光が小さく鼓動するように震える。
まるで、何かを語り出そうとするかのように。
「オルフェリアはまだきっと、どこかに居る。私はこれを頼りに、精霊の世界を探しにいってみるわ。必ず、彼女を見つける」
その声は弱かったが、大きな灰緑色の瞳には強い光が宿っていた。
リュシアは黄金の杯を握りしめ、怒りとも悔しさともつかない苦みに顔をゆがませる。
「黙っていなくなったままでは、終わらせないわ。あの人を連れ戻す。私はこれを持って、人間界に行く」
その強い声は、火花のように弾けた。
ノエルは白い石板を静かに抱え込み、低く呟いた。
「時間が止まろうとしている……急がねば。私は、これを頼りに魔法界へ行く」
その瞳は氷のように澄んでいたが、同時に深い憂いに沈んでいた。
「時間は……どのぐらい、ありそうかしら?」
今回の命を最も長く生きているノエルに向かって、リュシアが尋ねた。
ノエルは「わからない」というように、濃紺色の髪を振った。
「おそらくは……月の満ち欠けがひとつ、巡るぐらい……」
そのぐらいの刻がすぎるうちには、竪琴の音はきっと止まってしまう。
そうなったら、三人がどれほど歌っても、これ以上世界を廻し続けることはできない。
三人は誰からともなく、丸机の上に最後にひとつ残された、いびつな形の黒曜の石へ手を伸ばした。
触れた瞬間、ひどく冷たい鼓動が指先へ伝わる――そこには確かに、何か命のようなものが宿っていた。
「きっと、これのことも調べにいかねばならないだろうから……それぞれの調べものの期限は、月が半分巡るまでにしましょうか」
ノエルの提案に、二人はうなずく。
「ではーー」
「月が半分、巡り終わるまでに」
「戻ってきましょう」
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