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しおりを挟む――いけない、急がないと……。
アイリスお姉さまと話し込んでしまったから、陛下の元へ伺うのが遅くなってしまった。
髪を梳かして、ほんのりと紅をさす。
夕刻までメアリーさまの使いに出ていたから、私は今日の催しに参加できなかった。
お姉さまから聞くに、陛下はかなりご機嫌を損ねているみたい。ロイさまやレオさまがお部屋を訪れても、扉を開けてくれないほどだという。
今の陛下を癒すことができるのは、この私だけ。
「ふふっ」
鏡の中の自分を見ながら、思わず笑みがこぼれる。
ここで陛下の怒りを鎮めることができたなら、私の地位は更に向上するはず。メアリーさまやアイリスお姉さまどころか、ロイさまやレオさまだって私に一目置くはずだ。
私は侍女なんかで終わるつもりはない。陛下の愛妾になって、この国一の女になってみせる。
いつも以上にウエストを絞り、胸元を強調させる。
今日は特に頑張らないと。
陛下の横には私がいるのだと、みなに見せつけてやらなくちゃ。私という存在を無視できなくさせてみせる。
「――……やあ、いるかい?」
準備が整ったところで、コンコンと誰かが部屋のドアを叩く音がした。
この声はロイさま――……ああそうか、私に陛下との仲を取り持つように頼みに来たのだろう。
少しだけならお話をする時間はある。
私は扉を開けて、にこりと笑みを作った。
「こんばんは、ロイさま。どうなさったのですか? こんな夜更けに」
「やあ……今日の君は特に美しいね。僕のために着飾ってくれたなんて、嬉しいよ」
「えっ?」
ロイさまは言うなり部屋に押し入って、私に抱きついてきた。
「ちょ……――ロイさま……! いったいどうなさったのですか!」
慌てる私に構うことなく、ロイさまは訳のわからないことを口にしている。
「今日は散々だったんだ。でも嬉しいよ、君が僕に会いに来てくれて、癒してくれると言ってくれて……」
ロイさまからは、かなりのアルコール臭が漂っている。酩酊されているのだ。
「ロイさま、お気をたしかに。私はアンでございます」
「ははは、知っているさ。君だろう」
……どうしよう、今のロイさまには話が通じない。
ロイさまは腰を優しく抱きながら、麗しい指で私の髪から頬を撫でる。
酩酊しているのに、なんて優美な仕草だろう。
どうする? ここで流れに任せてしまう? ロイさまのお顔立ちは近くで見ても美しい。それに所作だって陛下とは全然違う。それにロイさまは第一王子なのだから、ここで寵愛を賜ればいずれ私は王の愛妾。でも今は現国王の愛妾という立場だし……ああでもロイさまのお顔立ち、やっぱり素敵。でもでも今日の出来事でロイさまは陛下のお怒りを賜ったというし、ロイさまのお立場はもしかして今危うかったりする? 妾に愛を捧げる余裕はあるのかしら。これが一度きりのお通いだとしたら? 陛下と違って若くて自由もあり見目麗しいロイさまは若い娘も選び放題だし、他に愛妾が何人いるかわからない。今だってもしかして私と誰かを間違えているのかも。国王になった途端お払い箱にされる可能性もあるし、そもそもメアリーさまに知られたらすぐに追い出されてしまう。隠し通せる? 私は大丈夫だけどロイさまは? 逆にお通いが頻繁になったとしても、それはそれで関係が明るみになってしまう確率が上がってしまう。もし陛下に知られてしまったとしたら……――。
『……陛下は嫉妬深いお方……――』
考えを巡らせる中で、いつかのアイリスお姉さまの言葉が頭の中に響く。
やっぱり駄目だ、流されては駄目。
もし陛下のお怒りをかってしまっては、今まで築き上げたものがなくなってしまう。ここはやんわりといなして、ロイさまとは良い距離感を保とう。
陛下だけではなく第一王子から愛を賜るなんてさすがは私だけれど、ロイさまとの関係は、後々ロイさまが国王になってから進展させるほうが間違いない。今は陛下という存在を盾にして、気持ちがないわけではないと暗にお伝えするに止めよう。
名残惜しいけれど、ロイさまの腕を押し返す。
「いけませんわロイさま。私、これから陛下の元へ参りませんと……ロイさまも、きっとメアリーさまがお待ちです」
「何を言っているんだ、君が僕を誘ったくせに。それに近頃メアリーは特に機嫌が悪いんだ、気分が悪いってね」
ロイさまはなかなか離れてくれない。
駄目だ、やんわりとした否定では断りきれない。
「本当……いけませんわ。今、私には陛下がおりますもの。どうかお手をお離しください」
ロイさまは私の話を聞いていないようで、私を抱きかかえたまま奥のベッドへと進んで行く。
困ったことになってしまった。私も抵抗するけれど、さすがに力では叶わない。それにロイさまの端正なお顔立ちが、逆らう気力をなくさせてしまう。
「いけませんロイさま、酔いをお醒ましになって!」
ベッドへ倒れ込んだ時、少し大きな声でそう言った。けれどこれはもう流れに任せるしか……――。
そう覚悟を決めたところで、ギギっと音がしてドアが開いた。
「――アン、いるの? 大きな声を出してどうかした? 入るわよ」
いつの間にかノックを聞き漏らしていたみたい。
開いたドアの方を見ると、硬直しているアイリスお姉さまと目が合った。
「アン……!? それにロイさま! 一体何をしているの!」
お姉さまは驚きながら目を見開いて、この状況を掴もうとしている。
……いけない、このままでは私の立場が危うくなってしまう。
急いでロイさまを押しやって起き上がり、乱れた髪を整えて釈明をする。
「違うわ……! 違うのお姉さま! ロイさまは酔ってらっしゃって……私はそんなつもりはなくて……どうしようもなくてっ……!」
お姉さまはこちらに駆け寄ってきて、慌てながらも優しく私を抱きしめた。ふんわりと、親しみのある柔らかな香りが私を包む。
「大丈夫……大丈夫よアン、落ち着いて」
そしてようやくベッドから起き上がったロイさまに質問した。
「ロイさま、これは一体どういうことでしょうか」
「やあアイリス妃……まいったな、こんなところを見られるなんて。どうしたもこうしたも見たままだよ、この娘が僕に気があるというものだから」
「ち、違うわ! ロイさまの方が部屋を訪れていらっしゃって……」
「何を言うんだ。君が部屋に来て欲しいと誘ってきたんじゃないか。君も悪い女だ、父上というものがありながら……まあ仕方ないさ、僕の前ではみなそうなる。初めて会った時から、君の熱い視線には気がついていたよ」
ロイさまは少し乱れた髪をかきあげながら、やれやれといった様子で仰った。
「そんな、違っ……」
助けを求めようとお姉さまを見ると、お姉さまは変わらず私を優しい眼差しで見ていた。
「恐れながらロイさま。アンはそのような娘ではございません。アンは今別の方を……陛下のことをただ一心にお慕いしておりますもの。ご様子から察しますに、今夜もずいぶんお酒を召し上がったのではございませんか? きっと深く酔っていらっしゃるのです。今夜のことは私たちの胸にしまっておきますので……どうかお部屋にお戻りくださいませ」
「お姉さま……」
お姉さまは、私のことを信じてくれている。相変わらず人を疑うことなく、運も欲もないお姉さま。
私が国一番の女に上り詰めた暁には、もっと取り立ててあげよう……。
「……全く、興が覚めたよ。今日はなんて酷い日だ」
ロイさまはため息をつきながら、やれやれと立ち上がって部屋の外へ出た。
「……お待ちになって、お部屋までお送りしますわ」
酩酊状態のご様子を気遣って、お姉さまは扉の外までロイさまを追いかける。
扉の外にはトレーを持ったメイドが控えていた。軽食とティーセットが乗っている。そうか、お姉さまは私にあれを陛下の元へ持っていくよう言付けに来たのだ。
「あっ、ロイさま! 大変っ……――!」
けれど二人が扉の外に出たと思ったら、ロイさまの身体が大きく揺れてメイドにぶつかった。
グラス類の割れる音が廊下に響き、夜分何事かと近くの部屋の扉が開く気配がする。
いけない、もし大事になって陛下のお耳に入ってしまったら……どうしよう、陛下が私の言い分を信じてくださらなかったら……先ほどした悪い想像がどんどん膨らんでいく。
ああどうしよう、どうしようどうしよう……――。
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