婚約破棄だ!と言われ実家に帰ったら、最推しに餌付けされます

黒猫かの

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王都の酒場にて。

最近、ある噂がまことしやかに囁かれていた。

「おい、聞いたか? ローゼン家の娘の話」

「ああ、あの婚約破棄されたノエル嬢だろ? なんでも、とんでもない悪女だったらしいな」

男たちがジョッキを片手にヒソヒソと話す。

「王城の予算を横領して、私服を肥やしていたんだとさ」

「王子の執務室に呪いの人形を仕掛けたって話も聞いたぞ」

「恐ろしい女だ。追放されて当然だな」

これらの噂の出所は、明白だった。

王城だ。

ノエル嬢がいなくなってから、国政が回らなくなり、パニックに陥ったクレイス王子とその側近たちが、自分たちの無能さを隠すために「すべての元凶はノエルだった」というデマを流したのだ。

『彼女が悪女であればあるほど、婚約破棄は正当化される』

そんな浅はかな計算だった。

だが、彼らは一つだけ、致命的な計算ミスを犯していた。

その噂が、北の地――「氷の公爵」の耳に入った時のことを、想定していなかったのだ。

          ***

アースガルド公爵邸、執務室。

バキンッ!!

硬質な音が響き渡った。

私が顔を上げると、向かいの席に座っていたルーク様の手の中で、万年筆が真っ二つにへし折れていた。

インクがダラダラと、彼の手袋を黒く染めていく。

「……閣下?」

私は書類から目を離し、怪訝な顔をした。

「どうされました? また計算が合いませんでしたか? それとも、おやつのプリンが一個足りなかったとか?」

「……いや」

ルーク様は短く答えたが、その声は地獄の底から響いてくるようだった。

室温が急激に下がる。

窓ガラスに、ピキピキと霜が張り付いていく。

(……怒っている)

それも、ただの怒りではない。

活火山が噴火する直前のような、静かで、しかし破壊的な怒りだ。

先ほど、セバスさんが一枚の報告書を持ってきた直後から、様子がおかしい。

「……少し、出てくる」

ルーク様が立ち上がった。

「どちらへ? 午後の会議まであと三十分ですが」

「……散歩だ」

「散歩? その殺気立ったオーラで?」

「……害虫駆除だ」

ルーク様はサングラスをかけ直した(室内なのに)。

「庭に、目障りな羽虫が飛んでいるようだ。……俺が直接、叩き潰してくる」

「庭師に任せればよろしいのでは?」

「いや、俺の手でやらねば気が済まない」

ルーク様はコートを翻し、部屋を出て行った。

その背中からは、「慈悲はない」「根絶やしにする」という禍々しい文字が浮かび上がっていた。

「……変な人」

私は首を傾げ、折れた万年筆を片付けた。

「まあいいわ。仕事に戻りましょう」

私は気にせず、目の前のモンブランにフォークを突き刺した。

          ***

公爵邸の裏庭。

そこには、数人の怪しい男たちが拘束され、膝をつかされていた。

彼らは王都から送り込まれた「噂の流布工作員」たちだった。

「ひっ、ひいいい……!」

「た、助けてくれ……! 俺たちはただ、金を貰って噂を流せと言われただけで……!」

男たちはガタガタと震えていた。

彼らの目の前には、仁王立ちするルーク・ヴァン・アースガルド公爵。

その周囲の空間だけ、時が止まったかのように凍りついている。

「……誰が悪女だと?」

ルークが問う。

声のトーンは低いが、聞いた者の鼓膜を直接揺らすような威圧感がある。

「あ、いや、その……ノエル嬢が、横領をしたとか、呪いをかけたとか……」

「……証拠は?」

「そ、そんなものはありません! 王城の側近の方々が『とにかく悪い噂を流せ』と……!」

「……ほう」

ルークが右手を軽く振るった。

ヒュンッ!

男たちの足元の地面から、鋭利な氷の杭が突き出した。

それは男たちの鼻先数センチのところでピタリと止まる。

「ヒィィッ!!」

「……次、その汚い口で彼女の名を呼んだら、その舌を永久凍土に埋める」

ルークはサングラスを外し、アイスブルーの瞳で彼らを射抜いた。

「彼女は悪女ではない」

「は、はいぃ!」

「彼女は横領などしない。……むしろ、俺の金を使わせようとしても『経費の無駄です』と断る、清廉潔白な金の亡者だ」

「は、はあ……(亡者?)」

「呪いなどかけない。……彼女が睨めば、呪うまでもなく相手は死ぬ」

「えっ(物理?)」

ルークは一歩踏み出した。

「いいか、貴様らに選択肢をやる」

「せ、選択肢!?」

「一つ。ここで氷像となり、公爵家の庭のオブジェとして永遠に余生を過ごす」

「嫌です!!」

「二つ。王都に戻り、正しい情報を流す」

「た、正しい情報とは!?」

ルークは懐から、一枚の紙を取り出した。

そこには、彼が直筆でしたためた(昨夜一睡もせずに考えた)『ノエル・フォン・ローゼンの真実』というメモが書かれていた。

「読み上げろ」

男の一人が、震える手で受け取り、声を張り上げる。

「『ノエル嬢は、北の地に舞い降りた女神である』」

「……」

「『その瞳は宝石のように輝き、その知性は図書館より深く、その微笑みは冬の寒さを溶かす太陽のようだ』」

「……」

「『彼女は公爵領の救世主であり、すべての領民が彼女を崇拝している。あと、公爵は彼女に夢中である』」

男たちは顔を見合わせた。

(これ、ただのノロケでは……?)

しかし、目の前の魔王は本気だった。

「……不満か?」

「い、いえ! 真実です! これが世界の真理です!」

「よろしい。……これを王都中の新聞、酒場、掲示板に広めろ」

ルークはニヤリと笑った。

その笑顔は、どんな拷問器具よりも恐ろしかった。

「もし、一言でも間違ったら……わかっているな?」

パキン。

ルークの指先で、空気が弾ける音がした。

「全速力で行け!!」

「うわああああああ!!」

男たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。

その速度は、人生最速を記録したという。

          ***

三十分後。

ルーク様が執務室に戻ってきた。

「……戻った」

「おかえりなさいませ。早かったですね」

私はお茶を淹れ直した。

ルーク様は心なしかスッキリした顔をしている。

「害虫は駆除できましたか?」

「ああ。……巣ごと焼いてきた」

「物騒ですね。環境保護団体に怒られますよ」

「……その代わり、良い種を撒いてきた」

「種?」

「ああ。……明日の朝には、花が咲くだろう」

ルーク様は意味深に微笑むと、私の淹れた紅茶を一口飲んだ。

「……やはり、お前の茶は美味い」

「だから、ただのダージリンですってば」

          ***

翌日。

王都の新聞の一面には、驚くべき見出しが躍っていた。

『誤報訂正! ノエル嬢は悪女ではなかった!』

『北の地で女神降臨!? 公爵領を立て直した聖女の伝説』

『目つきが悪いのは仕様だった! 実は慈愛に満ちた瞳!』

王城でそれを読んだクレイス殿下は、コーヒーを吹き出した。

「な、なんだこれは!? 昨日は『国庫を食い荒らす毒婦』だったはずだろ!?」

「で、殿下! 街中の噂が一変しています!」

側近が真っ青な顔で報告に来る。

「吟遊詩人たちがこぞって『ノエル・フォン・ローゼン賛歌』を歌っています! 『彼女の計算は光より速く、彼女の赤ペンは悪を断つ』と!」

「意味がわからん! 誰だ、こんな情報操作をしたのは!」

殿下は新聞を床に叩きつけた。

その新聞の隅には、小さな広告欄があった。

『提供:アースガルド公爵家 広報部(※物理)』

「……叔父上だあああああ!!」

殿下の悲鳴が、朝の王城に虚しく響き渡った。

一方、公爵邸にて。

私もその新聞を読んでいた。

「……閣下」

「なんだ」

「この記事。『女神』とか『太陽』とか書いてありますが……これ、誰のことですか?」

「お前だ」

ルーク様は新聞も読まず、優雅にトーストを齧っている。

「誇張が過ぎます。虚偽広告で訴えられますよ」

「事実だ。……俺にとってはな」

ルーク様はボソリと言って、耳を赤くした。

私はため息をつき、赤ペンを取り出した。

「……とりあえず、この『公爵は彼女に夢中』という一文。これは公務に関係ないので削除要請を出します」

「ならん!」

「なぜですか」

「そこが一番重要な情報だ! ……虫除けになる」

「虫除け?」

「王都の有象無象の男どもに、お前は俺のものだと知らしめる必要がある」

ルーク様は真剣な顔で言った。

私は呆れて、新聞を畳んだ。

「……そんなことしなくても、こんな目つきの悪い女に寄ってくる物好きはいませんよ」

「……ここに一人いるだろうが」

「はい?」

「……なんでもない。茶をくれ」

ルーク様は誤魔化すようにカップを差し出した。

どうやら、この「害虫駆除」と「種まき」は、私の知らないところで、確実に効果を発揮していたらしい。

ただし、その「花」が、王都をさらなる混乱に陥れる毒花であることは、まだ誰も知らなかったが。
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