婚約破棄だ!と言われ実家に帰ったら、最推しに餌付けされます

黒猫かの

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翌朝。

私はいつも通り、執務室の扉を開けた。

「おはようございま……す?」

挨拶は、疑問形になって消えた。

私は一度、扉を閉めた。

部屋番号を確認する。

『事務官室 ノエル・フォン・ローゼン様』

間違いない。

もう一度、扉を開ける。

そこには、私の知る質素で機能的な執務室ではなく――。

「……なんだ、ここは」

床には、足首まで埋まりそうなほどの純白の毛皮(おそらく最高級の白熊)が敷き詰められている。

窓には、重厚なベルベットのカーテンが三重にかかり、隙間風を完全にシャットアウト。

そして、私の愛用していた木の椅子は撤去され、代わりに王様が座るような、金ピカでフカフカの「玉座」が鎮座していた。

さらに部屋の四隅には、見慣れぬ魔道具が設置され、熱波のような温風を吹き出している。

「あ、暑い……」

入室して三秒で汗が噴き出した。

室温は体感で三十五度を超えている。ここは南国か? それともサウナか?

「……気に入ったか」

玉座の横から、ドヤ顔の男が現れた。

ルーク様だ。

彼はなぜか、額に玉のような汗を浮かべながらも、涼しい顔を装って腕を組んでいた。

「閣下。……これは何の嫌がらせでしょうか」

私はハンカチで汗を拭いながら問いただした。

「嫌がらせ? 違う。……職場環境の改善だ」

「改善? 改悪の間違いでは? 脱水症状で殺す気ですか?」

「……昨日、お前が馬車の中で震えていたからだ」

ルーク様が、そっぽを向いてボソリと言う。

「……俺の管理不足だ。大事な事務官を風邪にさせるわけにはいかない」

ああ、そういえば。

昨日の帰りの馬車で、少し冷え込んだ時に身震いをしたかもしれない。

たったそれだけのことで、部屋を熱帯雨林にするとは。

この男、極端すぎる。

「お気遣いは痛み入りますが、閣下。これでは頭が茹だって仕事になりません」

「……そうか」

ルーク様はショックを受けた顔をした。

「……設定温度が高すぎたか。『常夏モード』にしたのだが」

「『春の木漏れ日モード』くらいにしてください。あと、この毛皮の絨毯、歩きにくいです。書類を落としたら埋まって見つからなくなります」

「……むぅ」

ルーク様は不満げに唸ったが、指をパチンと鳴らした。

すると、待機していたセバスたちが飛んできて、魔道具の出力を調整し始めた。

室温が徐々に下がり、人が生存可能なレベルになる。

「……これでどうだ」

「はい、快適です。……ですが、あの椅子はどうにかしてください」

私は玉座を指差した。

「背もたれが高すぎて、後ろの棚の資料が取れません。それに、金箔が剥がれて服に付きそうです」

「あれは人間工学に基づいた最高傑作だぞ。……座り心地は雲の上だ」

「仕事をするのに雲の上に行く必要はありません。地べたで結構です」

「……頑固な奴だ」

ルーク様はため息をつき、渋々といった様子で元の椅子(ただし、座布団だけは最高級の低反発クッションになっていた)に戻すよう指示した。

          ***

ようやく環境が整い、私はデスクに向かった。

ルーク様は、なぜか帰ろうとせず、私の向かいの席(来客用ソファ)に陣取っている。

「閣下? ご自身の執務室へお戻りにならないのですか?」

「……ここでする」

「はい?」

「俺の部屋は寒い。……ここの方が、暖かいからな」

ルーク様はそう言うと、持参した書類を広げ始めた。

嘘だ。

公爵の執務室は全館空調完備のはずだ。

それに、彼は「氷の公爵」。寒さにはめっぽう強いはずである。

(……監視、か?)

私はペンを走らせながら、チラリと彼を見た。

ルーク様は書類を見ているふりをして、サングラスの奥からこちらをジッと見ている。

目が合うと、バッと書類に視線を戻す。

「……」

「……」

気まずい。

仕事は捗るが、背中に刺さる視線が痛い。

しばらくして、ルーク様がおもむろに口を開いた。

「……ノエル」

「はい」

「昨日の、あのガキのことだが」

「ティム君ですか?」

「そうだ。……あいつ、また来ると思うか?」

「さあ、どうでしょう。算数が楽しければ来るでしょうし、私が怖ければ来ないでしょう」

「……来るな」

「え?」

ルーク様が不機嫌そうに唇を尖らせた。

「あいつの目は、お前に懐いていた。……また『教えて』と言って来るに決まっている」

「それは良いことでは? 未来の納税者への教育投資です」

「……良くない」

ルーク様がガタッと音を立ててコーヒーカップを置いた。

「お前の時間は、俺が買ったんだ。……業務時間内に、他の男(七歳)にうつつを抜かすな」

「はあ……」

私は呆れてため息をついた。

「閣下。それは嫉妬ですか?」

「ち、違う! 契約履行の確認だ!」

「そうですか。では、契約書に『七歳児への算数指導禁止』と追記しますか?」

「……そこまでは言わん」

ルーク様はモゴモゴと言い訳がましく続けた。

「ただ……その、俺にも教えるという約束だろ」

「ああ、そういえば」

昨日の馬車の中で、彼の手帳(予算案)を見た記憶がある。

「見せてください。まだ途中でしたよね」

私が手を差し出すと、ルーク様は嬉々として手帳を渡してきた。

まるで宿題を提出する子供のようだ。

私は中身を確認する。

昨日の指摘箇所が、きれいに修正されている。

しかも、私が教えた計算式だけでなく、独自のアレンジを加えて、より効率的な予算配分になっている。

(……すごい)

やはり、この人は有能だ。

ただ少し、完璧主義すぎて視野が狭くなっているだけ。

ヒントさえあれば、最適解を導き出す能力はずば抜けている。

「……どうだ」

ルーク様が不安そうに聞いてくる。

私は赤ペンを取り出し、ページいっぱいに大きく花丸を書いた。

「……大変よくできました」

「っ!」

ルーク様の表情が輝いた。

サングラス越しでもわかる。目がキラキラしている。

「本当か? ……トマトはぶつけられないか?」

「ええ。これなら文句なしです。……さすが閣下、理解が早い」

「……ふん、当然だ」

ルーク様は照れ隠しのように顔を背けたが、口元が緩みっぱなしだ。

そして、ボソッと言った。

「……褒美は?」

「はい?」

「あのガキには、クッキーをやっていただろう(※逆です。貰ったのです)。……俺にも褒美を寄越せ」

「ええ……花丸だけでは不服ですか?」

「物足りん」

ルーク様は身を乗り出してくる。

「……膝枕」

「却下」

「じゃあ、頭を撫でろ」

「却下。髪型が崩れます」

「じゃあ……」

ルーク様は視線を泳がせ、私のデスクの上のポットを見た。

「……茶を淹れろ。お前が」

「お茶? セバスさんに頼めば最高級のものが……」

「違う。お前が淹れた茶が飲みたいんだ」

ルーク様は真剣な顔で言った。

「……毒見も兼ねてな」

「私が毒を盛るとでも?」

「盛ってもいい。……お前になら殺されても本望だ」

「重いですよ、愛が」

私は苦笑しながら立ち上がった。

まあ、お茶くらいなら安い御用だ。

私は給湯室(という名のミニキッチン)へ行き、手早く紅茶を淹れた。

茶葉は普通のダージリン。

カップに注ぎ、ルーク様の前に置く。

「どうぞ。何の変哲もない紅茶ですが」

「……頂く」

ルーク様は、まるで聖水でも飲むかのように、うやうやしくカップを持ち上げた。

一口飲む。

「……美味い」

「普通ですよ」

「いや、世界一だ。……心が温まる味がする」

ルーク様は、本当に幸せそうな顔で微笑んだ。

その笑顔は、いつもの「氷の公爵」の仮面が剥がれ落ちた、ただの不器用な青年のものだった。

ドキッ。

不覚にも、胸が高鳴った。

(……反則だわ、その顔は)

私は誤魔化すように、自分のカップに口をつけた。

「……熱っ」

「大丈夫か!?」

慌てて駆け寄ってくるルーク様。

彼は私の口元を覗き込み、心配そうに眉を寄せる。

「火傷したか? 見せてみろ」

「平気です、猫舌なだけです」

「……フーフーしてやろうか?」

「結構です!!」

全力で拒否する私と、残念そうなルーク様。

そんな私たちのやり取りを、半開きの扉から文官たちが覗き見ていた。

「……見たか?」

「ああ。公爵様が、ノエル様の淹れたお茶を飲んでデレデレしていた」

「しかも『殺されても本望』って聞こえたぞ」

「これはもう、確定だな」

「ああ、確定だ」

文官たちは顔を見合わせ、深く頷いた。

『公爵様は、ノエル様に完全に調教されている』

その噂は、瞬く間に屋敷中へ、そして城下町へと広がっていくことになる。

そして、その噂は、風に乗って遠く王都まで届き――。

「……おのれ、ノエル! 俺を捨てて、叔父上とイチャついているだと!?」

新たな火種を、呼び寄せることになるのだった。
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