婚約破棄だ!と言われ実家に帰ったら、最推しに餌付けされます

黒猫かの

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アースガルド公爵領の城下町。

そこは北国特有の堅牢な石造りの建物が並ぶ、活気ある街だ。

……普段ならば。

今日のメインストリートは、不気味なほどの静寂に包まれていた。

カツ、カツ、カツ……。

石畳を叩く足音だけが響く。

道の両脇には、数千人の領民たちがひしめき合っているのだが、誰一人として言葉を発しない。

全員が壁に背中を張り付け、顔面蒼白で震えながら、道の真ん中を歩く「二人の人物」を見つめていた。

一人は、絶対零度のオーラを纏った「氷の公爵」ルーク様。

もう一人は、その隣で鋭い目つきを周囲に走らせる「悪役令嬢」こと私、ノエル。

「……まるでモーゼですね」

私は小声で呟いた。

私たちが歩を進めるたびに、人波がサァーッと左右に割れていく。

誰も目を合わせようとしない。

子供は親の背中に隠れ、犬さえも尻尾を巻いて逃げ出す始末だ。

「……不愉快か?」

ルーク様が、隣でボソリと尋ねてくる。

彼は黒のロングコートに身を包み、サングラス(遮光用だが、どう見てもマフィア)をかけていた。

「いいえ。視察の障害物がなくて助かります。ただ……」

私は沿道の露店に目を向けた。

「活気がないのが気になりますね。景気動向調査も兼ねているのですが」

「……お前が睨むからだ」

「睨んでいません。商品の鮮度を目視確認しているだけです」

私は反論しつつ、一軒の八百屋の前で足を止めた。

店主の親父さんが「ヒィッ!」と悲鳴を上げて腰を抜かす。

「お、お助けをぉ……! みかじめ料なら先月払いましたぁ……!」

「こんにちは。このトマト、いい色ですね」

私は努めて優しく声をかけた(つもりだった)。

しかし、店主はガタガタと震えながら、籠ごとそのトマトを差し出した。

「さ、差し上げます! 店ごと持って行ってください! だから命だけは!」

「結構です。トマト二個でいいです」

私は財布から銀貨を取り出し、店主の手に無理やり握らせた。

「釣りはいりません。……領内の物流コストを考えれば、これくらいが適正価格でしょう」

「ひ、ひえええ! お金を……くださるのですか……!? 奪うのではなく!?」

「私は強盗ではありません。公爵家の事務官です」

私がトマトを受け取ると、店主は涙を流して地面に額を擦り付けた。

「あ、ありがてえ……! 仏様だ……いや、鬼神様だ……!」

「複雑な感謝ですね」

私が苦笑していると、ルーク様が横から手を出してきた。

「……貸せ」

「はい?」

「荷物だ。……お前が持つな」

ルーク様は私の手からトマトの袋を奪い取ると、それを大事そうにコートのポケットに入れた。

公爵様にトマトを持たせるなど不敬にも程があるが、彼の表情(サングラス越しだが)は頑固そのものだった。

「……俺の女に、荷物は持たせない」

「雇い主の間違いでは?」

「……うるさい。行くぞ」

ルーク様は私の背中を押し、再び歩き出した。

その背後で、店主が「見たかおい! 公爵様がトマトを持ったぞ!」「明日はトマト記念日だ!」と騒いでいるのが聞こえた。

          ***

街の中央広場。

そこには多くの屋台が並び、普段なら子供たちの遊び場になっている場所だ。

しかし、今は静まり返っている。

そんな中、広場の噴水の縁で、一人の少年がうずくまって泣いていた。

「ううっ……できないよぉ……」

十歳くらいだろうか。

手にはボロボロのノートと、短い鉛筆。

周囲の大人たちは、私たちに恐れをなして遠巻きにしているため、少年に声をかけられないようだ。

私はスタスタと少年に近づいた。

「……おい」

声をかける。

少年がビクッとして顔を上げた。

私と目が合う。

「ヒッ……! こ、殺さないで……!」

「殺しはしないわ。……何をしているの」

私は屈み込み、少年のノートを覗き込んだ。

そこには、拙い文字で計算式が書かれていた。

どうやら、店の手伝いで売り上げの計算をしているらしいが、数字がめちゃくちゃだ。

『リンゴ5個(単価30)+ミカン3個(単価20)=10000イェン』

「……ボッタクリね」

私は思わず呟いた。

「ち、違うんだ! わかんないんだよ! 父ちゃんに『計算が合うまで飯抜きだ』って言われて……」

少年は泣きじゃくった。

私はため息をつき、懐から愛用の「赤ペン」を取り出した。

「貸してごらんなさい」

「え?」

私はノートを奪い取り、サラサラと修正を加えていく。

「まず、位取りが間違っているわ。30かける5は150。20かける3は60。足して210よ。なんで一万になるの?」

「だ、だって……ゼロがいっぱいあると、強そうだから……」

「算数はバトルじゃないの。……いい? ここにリンゴがあると思って」

私はルーク様のポケットからトマトを取り出した(ルーク様は無言で頷いた)。

「これが30円。5個あったらいくら?」

「え、えっと……」

少年が指を折って数え始める。

私はその目の前で、鋭い眼光を放った。

「遅い。三秒で答えなさい。社会に出たら、計算の遅さは致命傷よ」

「ヒィッ! ひゃ、百五十!」

「正解。じゃあ、そこから仕入れ値の原価率が三割だとして、利益は?」

「げ、原価率……?」

「計算しなさい。……間違えたら、このトマトを顔面にぶつけるわよ」

「四十五えぇん!!」

「正解! 素晴らしいわ、やればできるじゃない」

私はニッコリと微笑んだ(少年は恐怖で引きつっていたが)。

「次、この割り算。……余りが出ているけれど、商売において半端な数は切り捨てか四捨五入か、事前に決めておくものよ」

「は、はいぃ! 切り捨てますぅ!」

スパルタ算数教室は、十分ほど続いた。

少年は涙目になりながらも、驚異的な集中力でノートを埋めていった。

「……で、できました!」

「見せて」

私はノートを確認する。

全問正解。字も最初より丁寧になっている。

「……合格よ」

私は赤ペンで大きく花丸を書いた。

「よく頑張ったわね。これなら、お父さんも文句は言わないでしょう」

私がノートを返すと、少年は呆然とその花丸を見つめた。

そして、顔を上げて私を見た。

その目から、恐怖の色が少しだけ消えていた。

「……お姉ちゃん、怖かったけど……教えてくれて、ありがとう」

「礼には及ばないわ。……将来、ウチの経理に来なさい。鍛え直してあげるから」

「う、うん……考えておく……」

少年はノートを抱えて、走っていった。

「父ちゃん! できたよー! 怖いお姉ちゃんが教えてくれたー!」

その背中を見送りながら、私は立ち上がった。

ふと周囲を見ると、遠巻きに見ていた領民たちが、ざわざわと囁き合っていた。

「おい、見たか……あの般若の面を被ったような令嬢が、子供に勉強を教えていたぞ」

「『間違えたらトマトをぶつける』って聞こえたけど、あれは愛の鞭か?」

「実は……賢くて優しい方なのかもしれん」

「いや、単に計算間違いが許せない完璧主義者なだけでは?」

評価は半々といったところか。

まあ、悪女と言われるよりは「口うるさい教育ママ」と言われる方がマシだろう。

私が服の埃を払っていると、ルーク様が近づいてきた。

その表情は、どこか不満げだった。

「……ノエル」

「はい?」

「俺にも教えろ」

「はい?」

ルーク様は、どこから出したのかわからない手帳を開いて見せた。

「……領地経営の、来期の予算案だ。……計算が合わない」

「閣下……それは執務室でやる仕事です」

「今やりたい。……俺も花丸が欲しい」

「は?」

ルーク様は真顔だった。

サングラスの奥の瞳が、少年のように訴えかけている。

「あのガキには花丸をやったのに、俺にはないのか? ……不公平だ」

「子供相手に張り合わないでください」

「トマトをぶつけられてもいい。……教えてくれ」

「ドMですか?」

私は呆れ返ったが、公爵様が往来でダダをこねるわけにもいかない。

「……わかりました。帰りの馬車で見て差し上げます」

「本当か」

「ええ。ただし、間違えてもトマトはぶつけませんよ。服が汚れますから」

「……チッ」

「舌打ちしない」

ルーク様は少しだけ機嫌を直し、私の手を取った。

「……行くぞ。視察は終わりだ」

「まだ半分も回っていませんが」

「十分だ。……これ以上、お前のその『怖いけど実は優しい』ところを、他の奴らに見せたくない」

ルーク様はボソッと言った。

「……俺だけの特権にしておきたいんだ」

その声は小さすぎて、街のざわめきにかき消された。

「何か仰いましたか?」

「……なんでもない! 早く馬車に乗れ!」

ルーク様は乱暴に私の手を引いて歩き出した。

その耳が、夕焼けよりも赤く染まっていることに、広場の領民たちも気づき始めていた。

「おい……公爵様、照れてるぞ?」

「あの二人、実はめちゃくちゃ仲が良いんじゃないか?」

「『氷の公爵』が溶けてる……!」

こうして、私たちの初の領地視察は、「恐怖のパレード」から一転、「公爵カップルの公開イチャイチャ見学会」として幕を閉じたのであった。

私はただ、仕事をしていただけなのだが。

解せぬ。
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