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第二部:天下布武と二人の軍師
第9話 金ヶ崎の退き口
しおりを挟む破竹の勢いで上洛を果たした信長様は、足利義昭公を将軍の座に就け、その権威はまさに日の出の勢いであった。
天下布武は、もはや夢物語ではない。誰もがそう信じていた。
その自信を胸に、信長様は次なる標的として、越前の朝倉義景討伐へと軍を進めた。
織田家にとって、朝倉家は長年の宿敵。
この戦に勝利すれば、天下は大きく信長様へと傾くはずだった。
そして、この戦には盤石の布陣が敷かれていた。
信長様と妹君・お市の方との縁で、織田家とは固い同盟関係にある北近江の浅井長政殿が、我らの背後を固めてくれる。
後顧の憂いなく、全軍で朝倉を叩くことができるのだ。
「浅井殿がおれば、我らの背後は安泰よ」
誰もがそう、信じて疑わなかった。俺、呉学人も、もちろんその一人だった。
だからこそ、その報せがもたらされた時の衝撃は、凄まじかった。
「……浅井長政、裏切りにございます!」
血相を変えた伝令が本陣に駆け込んできた瞬間、金ヶ崎城に集っていた将たちの誰もが、己の耳を疑った。
「馬鹿な!聞き間違いであろうが!」
「浅井殿が、この我らを裏切ると申すか!ありえん!」
怒号が飛び交うが、続く第二、第三の伝令がもたらした情報は、その悪夢が紛れもない現実であることを、将たちに容赦なく突きつけた。
浅井軍は織田との盟約を破棄し、朝倉と結託。織田軍の退路を断つべく、すでに行動を開始している、と。
その瞬間、織田軍は進退窮まった袋の鼠となった。
前には宿敵・朝倉、そして背後には、昨日までの盟友・浅井。
我々は、挟撃の危機に瀕したのだ。
本陣の空気は、鉛のように重く、冷たく沈んでいた。
将たちの顔からは血の気が失せ、誰もが絶望的な状況を理解し、言葉を失っている。
この絶体絶命の窮地にあって、ただ二人、冷静さを失わぬ者たちがいた。
一人は、言うまでもなく、織田信長その人。
「……ふん。小童、やりおるわ」
信長様は、裏切りの報に眉一つ動かさず、ただ静かに、しかしその瞳の奥には激しい怒りの炎を燃やして呟いた。
そして、もう一人が、竹中半兵衛だった。
彼はこの混乱の極みにあっても、すでに地図の上に思考を巡らせ、生き残るための最善手を模索し始めていた。
「上様。ここは、ただちに全軍撤退あるのみ。
ですが、敵も我らの退却を読んで追撃してきましょう。誰かが、殿を務め、敵を食い止めねばなりませぬ」
殿……それは、全軍が無事に退却するまで、最後尾で敵の追撃を防ぎ続ける、最も危険で、最も過酷な役目。
下手をすれば、生きては帰れぬ死地であった。
「その大役、この木下藤吉郎にお任せあれ!」
いち早く名乗りを上げたのは、あの猿面の男だった。
「ほう、猿。貴様に務まるか」
「この藤吉郎、命に代えましても!」
その藤吉郎の隣に、半兵衛が静かに進み出た。
「上様。藤吉郎殿と共に、この半兵衛も殿に残ります。某の知略があれば、必ずや敵の追撃を遅らせてみせましょう」
── 天才軍師と、後の天下人(予定 ?)。この二人が殿軍を志願したことで、絶望に沈んでいた将たちの間に、わずかな光が差した ──
信長様は、その二人の覚悟を認めると、すぐさま撤退の差配を始めた。
信長様自身は、少数の手勢を率いて、敵の包囲網を突破し、京へ帰還する。
残りの部隊は、いくつかの隊に分かれ、それぞれが追撃をかわしながら退却する。
「利家!」
「はっ!」
信長様の鋭い声に、利家が前に出る。俺もその背後に控えていた。
「貴様と誤先生は、別動隊を率いよ。
わしの本隊とは別の経路を取り、敵を引きつける陽動の役目を務めよ。良いな!」
「御意!」
陽動部隊。それは、いわば「囮」だ。
敵の注意を自分たちに引きつけ、信長様の本隊が逃れるための時間を稼ぐ。これもまた、殿軍と同じく危険な任務だった。
俺は、ごくりと唾を飲んだ。
稲生の初陣とは比較にならない、本物の死の匂いが、すぐそこまで迫っている。
撤退作戦は、すぐさま開始された。
織田軍は、夜陰に乗じて密やかに陣を払い、蜘蛛の子を散らすようにそれぞれの退却路へと散っていった。
俺と利家の隊もまた、信長様の本隊とは異なる、山深く険しい間道へと足を踏み入れた。
「学人、信長様からお預かりした地図は持っておるな?
この道は、わしも初めて通る。 貴様の案内が頼りだぞ」
馬上で、利家が真剣な声で言う。
「は、はい!しかと!この懐に!」
俺は、自分の胸元を力強く叩いた。
信長様から直々に渡された、この地域の詳細な地図。
それだけが、この暗い森を抜けるための唯一の道標だった。
しかし、陽動部隊の役目は、ただ逃げるだけではない。
時折、わざと松明を掲げて敵の注意を引きつけたり、鬨の声を上げて大軍がいるように見せかけたりと、危険な行動を繰り返さねばならなかった。
そんな緊張状態の中、束の間の休息が訪れた。
敵の追撃を一時的に振り切り、小さな谷間で兵たちに食事を取らせることになったのだ。
「学人、お前も食っておけ。腹が減っては、頭も働かんだろう」
利家から、干飯を包んだ握り飯を一つ、手渡された。
極度の緊張で食欲はなかったが、無理やり口の中に押し込む。
その時だった。
背後から、味方の兵が駆け込んできた。
「て、敵です!浅井の追っ手が、すぐそこまで!」
休息は、あまりにも唐突に破られた。
「ちぃっ、もう追いつかれたか!総員、退却だ!」
利家の号令一下、兵たちは慌ただしく立ち上がる。
俺も、慌てて握り飯を懐にしまい込み、馬に飛び乗ろうとした。
その時、俺は気づいていなかった。
慌てた拍子に、握り飯の包みがほどけ、味噌で湿った飯粒が、懐の中で無残に散らばってしまったことに。
そして、その被害が、命綱であるはずの地図にまで及んでいるとは、知る由もなかったのだ。
しばらく馬を走らせ、敵を再び引き離した頃、利家が俺に尋ねた。
「学人、次の分かれ道はどちらだ?地図を見せてくれ」
「は、はい!ただいま!」
俺は、自信満々に懐から地図を取り出した。そして、それを月明かりの下で広げた瞬間……俺は、凍りついた。
「……あっ……」
地図は、見るも無残な姿と化していた。
重要な道が記されていたはずの中心部分は、味噌と潰れた米粒でべっとりと汚れ、茶色い染みとなって完全に判読不能となっていたのだ。
血の気が、さあっと引いていく。
指先が震え、声にならない声が、喉から漏れた。
「……どうした、学人?」
利家の、いぶかしむ声が聞こえる。
俺は、ゆっくりと顔を上げた。
その目には、絶望の涙が浮かんでいたに違いない。
「……ああっ……」
俺の口から、いつもの、あの言葉が絞り出された。
「ああ、私はなんというミスを~~~~~っ!」
俺の慟哭は、追っ手のこない静かな夜の森に、虚しく響き渡った。
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