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第三部:信長包囲網と天運の行方
第15話 煙の向こうの奇跡
しおりを挟む「撃てぇぇぇっ!」
織田軍の鉄砲奉行の絶叫が、設楽原に轟いた。
その号令一下、馬防柵の後ろに控えていた三千の鉄砲隊が、一斉に火蓋を切る。
ドドドドドドン!
腹の底を揺さぶるような轟音と共に、鉛の弾丸が武田の騎馬隊へと放たれた。
しかし、それと同時に、俺が最も恐れていた事態が現実のものとなる。
三千丁の鉄砲から吐き出されたおびただしい量の黒い煙は、不運な東風に煽られ、巨大な黒いカーテンとなって、あっという間に織田軍の陣地を覆い尽くしてしまったのだ。
「げほっ、げほっ!前が見えん!」
「敵はどこだ!煙で何も分からんぞ!」
鉄砲隊の兵たちから、混乱と焦りの声が上がる。 しかし、その混乱を切り裂くように、鉄砲奉行の怒声が響き渡った。
「うろたえるな! この程度の煙で臆したか!」
「視界が利かぬなら耳を澄ませ!
地を揺らす敵の馬蹄が聞こえぬ者はあるまい!」
「音を頼りに玉を込めよ!
敵は我らの混乱を見て、油断して突撃してくるはずだ! 儂の号令があるまで、決して撃つな!」
奉行の力強い声は、パニックに陥りかけた兵士たちの心に一本の芯を通した。
そうだ、俺たちは織田の鉄砲隊だ。
視界がなくとも、体に染みついた手順で次弾の装填はできる。
地響きは、すぐそこまで迫っている。 兵士たちは唾を飲み、煙の向こうの「音」に全神経を集中させた。
策は、まだ終わってはいなかった。
その黒い煙の向こう側で、武田の騎馬隊を率いる猛将・山県昌景は、思わぬ幸運にほくそ笑んでいた。
「天は我らに味方せり!
敵は自らの煙で自滅したわ!
好機ぞ、臆するな!柵を乗り越え、信長の首を掻き切れ!」
敵の姿が見えないことに、武田の兵たちは逆に油断した。
彼らにとって、この煙は絶好の目隠し。これならば、厄介な鉄砲の第二射、第三射を警戒することなく、一直線に馬防柵までたどり着ける。
最強の騎馬隊にとって、柵を乗り越えてしまえば、あとは一方的な蹂躙が待っているだけだ。
地響きは、ますます大きくなる。
死が、煙の向こうから、確実にこちらへ迫ってくる。
俺は、あまりの恐怖と絶望に、ただその場でへたり込むことしかできなかった。
その、時だった。
戦場を覆っていた黒い煙が、一陣の強い風によって、まるで舞台の幕が上がるかのように、さっと晴れ渡ったのだ。
そして、煙の向こうから現れた光景に、武田の騎馬武者たちは息を飲んだ。
彼らの目の前にあったのは、乗り越えるべき馬防柵ではなかった。
それは、銃口をずらりと並べ、今まさに第二射を放たんとする、織田の鉄砲隊の姿だったのである。
「なっ……!?」
武田の兵たちは、完全に意表を突かれた。
煙で敵の姿が見えぬまま、ただがむしゃらに突撃してきた彼らは、自らが死の罠のど真ん中に飛び込んできたことに、ここでようやく気づいたのだ。
しかし、あまりにも遅すぎた。
馬の脚は、急には止まれない。
回避することも、方向転換することも、もはや不可能だった。
「撃てぇっ!」
再び、号令が響く。
ドドドドドドン!
今度は、至近距離から放たれた鉛の弾丸が、何の障害もなく武田の騎馬隊へと突き刺さった。
人馬もろとも撃ち抜かれ、鮮血を撒き散らしながら倒れていく武者たち。
阿鼻叫喚の地獄絵図が、そこに現出した。
俺は、その光景を、ただ呆然と見つめていた。
(煙で……敵を油断させ……引きつけて……撃つ……?)
そんな馬鹿な !
俺は、ただ風向きを読み間違えただけだ。
だが、結果として、俺の失策(ミス)は、敵を油断させておびき寄せるための、完璧な「罠」として機能してしまったのだ。
後方の本陣で、戦況を見守っていた竹中半兵衛は、その信じがたい光景を見て、静かに、しかし確信に満ちた声で呟いた。
「……やはりだ」
彼の隣にいた木下藤吉郎が、興奮した様子で尋ねる。
「半兵衛殿!これは一体!?」
半兵衛は、もはや畏敬としか言いようのない眼差しで、遠くの呉学人がいるであろう方角を見つめ、静かに答えた。
「藤吉郎殿。あれこそが、呉学人殿の真の策よ」
「策……と申されるか!?」
「うむ。 彼は、戦場の全てを見通しておられるのだ。人の心理、天候、地形……その全てを計算し、偶然を必然に変える。
煙で敵を油断させ、最も効果的な間合いまで引きずり込むことまで、全てはあの方の計算の内だったのだ」
その言葉を聞いた藤吉郎は、ごくりと唾を飲んだ。
半兵衛は、もはや呉学人を、同じ人間とは思っていなかった。
それは、天運そのものを操り、戦場の理さえも自らの意のままに書き換えてしまう、神がかった軍師の姿。
「これが……天運を操る軍師の戦か……」
半兵衛は、壊滅していく武田の騎馬隊を見ながら、自らの知略が呉学人の前ではいかに矮小なものであるかを痛感していた。
その瞳には、もはや嫉妬や対抗心はなく、ただ純粋な尊敬と、そして人知を超えたものへの畏怖の念だけが宿っていた。
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