【完結】新・信長公記 ~ 軍師、呉学人(ごがくじん)は間違えない? ~

月影 流詩亜

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終章:天下統一と「誤先生」の伝説

​閑話六:神の悪戯と三人の大爆笑

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​ 呉学人は、ついに完全に、決定的に、そして絶望的に道に迷っていた。

​「おかしい、おかしいぞ……」

​ 場所は、もはや近江おうみどころか美濃みのも通り過ぎ、信濃しなのの山中。

(もちろん本人は、琵琶湖の東岸あたりを彷徨っているつもりである)

​ 俺、前田慶次は、もう笑う気力も失せ、木の上でただ呆れてその姿を眺めていた。

 あの男、昨日谷底に落とした衝撃で、大事な日時計(二つとも)を壊しやがったのだ。

 今や彼が頼れるのは、己の野生の勘(もちろん皆無)と、折れた自作看板(『← 安土はこっち(のはず)』)だけだった。

​ 学人は、馬を止め、空を仰いだ。

 折しも、太陽が東の山々から昇り始めたところだった。

​「よし、わかったぞ!」

​ 学人の顔が、カッと輝いた。

 (……何が分かったというのだ、こいつは)

​「太陽が、あそこから昇っている! ということは、あちらが……西だ!」

​ 俺は、木の上で持っていた酒瓢箪を取り落としそうになった。

 ……今、こいつ、何つった?

​「(ギリッと奥歯を噛みしめ)そうか、このあたりの地方では、太陽は西から昇るのだな! 
 やはり土地によってことわりは違うのだ! よし、迷いは消えた!」

​ 俺は、もうだめだった……腹筋がよじれて、木から転げ落ちそうになる。

 こいつは……こいつは本物だ!

 己の方向音痴を正当化するために、天体の運行すら捻じ曲げやがった!

​「うおおおっ! 西へ! 西へ進めぇぇぇっ!」

​ 学人は、太陽が昇る方角(東)に向かって、「西へ!」と高らかに叫びながら、ヤケクソ気味に馬を走らせていった。

​「ぶっはっはっは! もうだめだ! 腹が、腹がよじれる! あいつ、頭がどうかしちまったわ! 面白すぎる!」

​ 天下広しといえど、これほどの傾奇者を、俺は他に知らん。


​◇


​ そんな狂気の暴走が、丸一日続いた。

 日がとっぷりと暮れ、学人が「おかしい、西に進んでいるのに、日が背中から沈んでいく……」などと、ついに真理に気づきかけた、その時だった。

​「……ん?」

​ 俺は、馬を止めた。

 空気が、変わった。

​「ひいぃ!? な、なんだ、この霧は!?」

​ 学人の情けない悲鳴が響く。
 
 それは、ただの山霧ではなかった。

 ねっとりと肌に絡みつくような、濃い霧。

 そして……

​「(ギョッ)……色が、ついてやがる……!?」

​ 俺の目にも、それは確かに見えた。

 月明かりに照らされた霧が、まるで怨念のように、うっすらと紫がかっている。

 これは、人の世のことわりではない。

​「おいおい、神様……悪戯いたずらが過ぎるぞ!  本気で遊び始めやがった!」

​ 次の瞬間、霧の中から、何かの獣の影がよぎった。

​「うわあああああっ! 妖怪だ! 化け物だぁぁぁ!」

​ 学人の馬が、その影に驚いて、とんでもない勢いで暴走を始めた!

「ひいいい! 止まれ! 止まってくだされぇぇぇ!」

「ちぃっ! 待て、学人! そっちは崖……いや、消えた!?」

​ 学人の姿が、濃い霧の中に吸い込まれるように消える。
 俺も慌てて馬の腹を蹴り、その霧の中へ飛び込んだ。

「くそっ、俺まで迷ったか! どこだ、ここは!?」

​ 霧は、まるで生き物のように俺たちの視界を奪い、方向感覚を完全に麻痺させた。

 どれほどの時が過ぎたのか、もはや分からなかった。


​◇


​ ふっと、視界が開けた。

 夜が、明けていた。

​ 俺は、いつの間にか馬を降り、とある丘の上で立ち尽くしていた。
 そして、目の前に広がる光景に、言葉を失った。

​「……はっ ?」

​ 俺は、ごしごしと目をこすった。

​「……山が、ない」

​ 見渡す限り、広大な平野が続いていた。

 昨日までいた信濃の山々は、影も形もない。

 もちろん、琵琶湖びわこなど、あるはずもなかった。

​「まさか……海の向こうか?」

​ 俺が呆然としていると、少し離れた水田から、泥まみれの塊がむくりと起き上がった。

 呉学人だった。どうやら、馬から振り落とされ、見事な着地(顔面から)を決めたらしい。

​「うぐぅ……。た、助かった……霧が晴れた……。さて、ここは……」

​ 学人は、泥だらけの顔でキョロキョロと周囲を見渡し、一軒の茶屋を見つけた。



​ 俺は、この後の展開が読めてしまい、ゴクリと唾を飲んだ。
 学人が、茶屋の主人に何かを尋ねている。

​「……おや、旅の方。ここは武蔵むさしの国でございますよ」

​ 主人の朗らかな声が、風に乗ってここまで聞こえてきた。
 学人が、注文したばかりの団子を、皿ごと取り落とすのが見えた。
​ 学人の手が、わなわなと震える。

​「……む」

「……む、」

「……む、むさしぃぃぃぃぃ!?」

​ 空気が、裂けた。
 
 鳥が一斉に飛び立った。

​「ああ、私はまた道を間違えてしまった~~~~~っ!」

​ 広大な関東平野に、男の絶望の叫びがこだました。
​ 俺は、ついに耐えきれず、その場に崩れ落ちた。

「ぶわっはっはっはっはっは!!」

 涙が、出た。腹が、よじれて死ぬ!

近江おうみから武蔵むさして! 縮地しゅくちか! 神隠しか! こいつは傾奇者どころの騒ぎじゃねえ!」

​ 俺は、天を指さして叫んだ。

「こいつは、神の玩具おもちゃだわ!」


​◇


​ さて、神様は、この玩具おもちゃを、何のために武蔵くんだりまで飛ばしたのか。

 俺は、その結末を見届けることにした。

​ やがて、絶望のあまり雨に打たれていた学人が、近くの寺に雨宿りに入るのが見えた。

「ん? あの寺、妙に物々しいな……」

 俺は、音もなく寺の屋根裏へと忍び込んだ。
​ そして、見た。

​「ほう……家康の奴、随分とでかい城(という名の野望)を広げてやがる」

 本堂では、徳川家康と旧北条の家臣らしき連中が、江戸城の巨大な設計図を囲んで密談の真っ最中だった。
​ そこへ、我らが呉学人先生、登場。

​「これはこれは徳川様。このような場所で奇遇ですな」

​ 家康の顔が、死んだ。

 声にならない悲鳴を上げ、

「(ビクゥッ!?)ご、ごご、呉学人殿!? な、なぜこの密談の場に、寸分たがわず!?」
と、完全に幽霊でも見た顔になっている。

​ 俺は、屋根裏で息を殺し、必死で笑いをこらえた。

「(くくくっ……だめだ、腹が痛い……! 
 信長様の天運が、家康の野望のど真ん中に、寸分違わず落ちてきやがった!)」

​ 家康が、明らかに動揺し、その設計図を「お土産にございます!」と、震える手で学人に押し付けている。


​「(神様、あんた最高だわ! 俺と気が合うぜ!)」


 俺は、この世で最も面白い喜劇を見届け、家康の絶望を肴に、こっそり酒を呷った。


​◇


​ 数週間後、安土城。信長様の執務室。


 (※呉学人、到着直前)


​ 俺と叔父御(利家)は、信長様に事の次第を報告していた。


​「……というわけで、先生、霧に巻かれて武蔵へ飛びました」

「……」

「……」

 利家は、こめかみを抑えて絶句している。

 信長様は、扇子を握りしめたまま、凍りついている。


​「ついでに、家康の謀反の証拠せっけいずを『お土産』に分捕ぶんどりやしたわ」

​ しん、と静まり返った部屋に、俺の声だけが響く。
 やがて、信長様の肩が、ぷるぷると震え始めた。

​「……ぷっ」

「……く、くく……」

「ぶわっはっはっはっはっは!!」

​ ついに、信長様が噴き出した。

 それにつられ、叔父御も、もはや耐えられないとばかりに机に突っ伏した。

​「は、はははは! もうだめだ! あいつは人知を超えておる! わしの胃が持たんわ!」

「神隠しで謀反潰しか!」

 信長様は、涙を流して床を叩いている。

「わしの天下、盤石よ! 学人こそが天下の宝よ! 家康……竹千代の青ざめた顔が目に浮かぶわ!」

​ 日の本の頂点に立つ三人が、腹を抱えて笑い転げている。
 まさにその時、廊下から声がかかった。

​「申し上げます! 呉学人様、御到着!」

​ 三人の笑いが、ピタリと止まる。

​「道に迷ったお詫びと……徳川様からの『お土産』をお持ちしたと……!」

​ 俺と叔父御と信長様は、顔を見合わせた。

 そして、再び、肩が震え始めた。

​「(くくっ)……う、うむ。通せ」

 信長様は、必死で笑いをこらえ、涙を拭った。


​「して、その『武蔵土産むさしみやげ』……とくと、見せてもらおうか」


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