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174 母親
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「詩織ちゃん、大丈夫?」
『伊月くんが狙われて、びっくりしちゃった?』
ノアとロズが心配そうに妻に語り掛ける。
妻は小さく頷いたあと、じっと押し黙ってから首を横に振った。
「私はね、ずっと怒っているの。伊月くんを狙われたことにも、もちろん怒ってる。でもそれだけじゃない。私はずっと、ずっと怒ってるの。うちの子が一体何をしたんだって……!」
「詩織、お前、記憶が……?」
「……思い出したわけじゃない。でも、詩織の中でいつも誰かが泣きながら怒ってるの。詩織はたまに、その人の思い出を見せてもらってるだけ」
妻が言うには、旅の中で時折、懐かしさを感じる夢を見るのだという。
長い苦しみを耐えて、やっと生まれてきてくれた娘の壊れそうに小さな身体を初めて抱いたあの日。
夜中に熱を出して苦しむ娘が心配で、朝まで眠れなかったあの日。
満開の桜の下で楽しそうに娘が走り回っていたあの日。
学校の授業参観で嬉しそうに何度も振り返った娘が、小さく手を振ってくれたあの日。
繰り返される何気ない毎日の記憶はとても温かくて、幸せに満ち溢れていた。
しかしその幸せな夢はいつだって、深い暗闇に変わってしまう。
「すっごく幸せな気持ちになっていると、急に周りが暗くなるの。あわてて柚乃ちゃんに手を伸ばすんだけど、どうしても届かなくて、気づいたらどこにいるのかもわからなくなっちゃう。そしたら隣に、誰かが立っていることに気付くの。その人の顔はわからないんだけど、その人が泣きながら怒ってることだけはなんとなくわかるんだ」
「その人は……」
「うん。多分、ちゃんとしたお母さんだったころの詩織なんだと思う。柚乃ちゃんや伊月くんといっしょに暮らしていたころの詩織。……詩織は忘れちゃってるけど、自分のことだからわかるんだ。柚乃ちゃんのこと、どのくらい大好きだったか。柚乃ちゃんがいなくなって、どんなに悲しかったか」
ポロポロ涙を流す妻は、普段のあどけない顔とは違って、少し大人びた表情をしている。
妻は「思い出していない」と言っているが、おそらく記憶が入り乱れているのだろう。
忘れることで蓋をしていた感情が、とめどなくあふれ出てくるのを止められないのだと思った。
俺は妻の肩に手を当て、そっと抱きしめる。
妻の身体は、怒りと悲しみで小刻みに震えていた。
「だから詩織、決めたんだ」
「……何を?」
「神様には神様なりの理由があるのかもしれない。でも、だからといって柚乃ちゃんや伊月くんに何をしても許されるってことじゃないでしょ?」
「そうだな」
「だから、どんな事情があったとしても、絶対に一発ぶん殴ってやるって決めてるの。罰が当たるかもしれないけど、そうしないと気が済まないもん」
そんな妻の言葉に、俺は頷いた。
そして「俺もいっしょにぶん殴るよ」というと、妻はようやく気持ちが落ち着いてきたのか、小さく笑った。
※
ひとしきり心情を打ち明けてすっきりしたのか、妻の様子はすっかり元通りだ。
サミューが出て行ったドアにチラチラ目くばせしつつも、ロズとノアとおしゃべりに花を咲かせている。
俺はそれを眺めながら、今の今まで妻の抱えていた葛藤に気づけなかったことを悔やんでいた。
今まで俺は、何もかも忘れて笑う妻をみて、内心羨ましく思うことさえあった。
娘を失った心の穴が大きすぎて、挫けそうになるたびに、記憶を失ったのが俺だったらと思わずにはいられなかった。
でも、例え記憶を失っていても、妻は娘の立派な母親のままだったのだ。
自分の心の弱さを反省しつつも、俺にはそれが嬉しくてたまらなかった。
『伊月くんが狙われて、びっくりしちゃった?』
ノアとロズが心配そうに妻に語り掛ける。
妻は小さく頷いたあと、じっと押し黙ってから首を横に振った。
「私はね、ずっと怒っているの。伊月くんを狙われたことにも、もちろん怒ってる。でもそれだけじゃない。私はずっと、ずっと怒ってるの。うちの子が一体何をしたんだって……!」
「詩織、お前、記憶が……?」
「……思い出したわけじゃない。でも、詩織の中でいつも誰かが泣きながら怒ってるの。詩織はたまに、その人の思い出を見せてもらってるだけ」
妻が言うには、旅の中で時折、懐かしさを感じる夢を見るのだという。
長い苦しみを耐えて、やっと生まれてきてくれた娘の壊れそうに小さな身体を初めて抱いたあの日。
夜中に熱を出して苦しむ娘が心配で、朝まで眠れなかったあの日。
満開の桜の下で楽しそうに娘が走り回っていたあの日。
学校の授業参観で嬉しそうに何度も振り返った娘が、小さく手を振ってくれたあの日。
繰り返される何気ない毎日の記憶はとても温かくて、幸せに満ち溢れていた。
しかしその幸せな夢はいつだって、深い暗闇に変わってしまう。
「すっごく幸せな気持ちになっていると、急に周りが暗くなるの。あわてて柚乃ちゃんに手を伸ばすんだけど、どうしても届かなくて、気づいたらどこにいるのかもわからなくなっちゃう。そしたら隣に、誰かが立っていることに気付くの。その人の顔はわからないんだけど、その人が泣きながら怒ってることだけはなんとなくわかるんだ」
「その人は……」
「うん。多分、ちゃんとしたお母さんだったころの詩織なんだと思う。柚乃ちゃんや伊月くんといっしょに暮らしていたころの詩織。……詩織は忘れちゃってるけど、自分のことだからわかるんだ。柚乃ちゃんのこと、どのくらい大好きだったか。柚乃ちゃんがいなくなって、どんなに悲しかったか」
ポロポロ涙を流す妻は、普段のあどけない顔とは違って、少し大人びた表情をしている。
妻は「思い出していない」と言っているが、おそらく記憶が入り乱れているのだろう。
忘れることで蓋をしていた感情が、とめどなくあふれ出てくるのを止められないのだと思った。
俺は妻の肩に手を当て、そっと抱きしめる。
妻の身体は、怒りと悲しみで小刻みに震えていた。
「だから詩織、決めたんだ」
「……何を?」
「神様には神様なりの理由があるのかもしれない。でも、だからといって柚乃ちゃんや伊月くんに何をしても許されるってことじゃないでしょ?」
「そうだな」
「だから、どんな事情があったとしても、絶対に一発ぶん殴ってやるって決めてるの。罰が当たるかもしれないけど、そうしないと気が済まないもん」
そんな妻の言葉に、俺は頷いた。
そして「俺もいっしょにぶん殴るよ」というと、妻はようやく気持ちが落ち着いてきたのか、小さく笑った。
※
ひとしきり心情を打ち明けてすっきりしたのか、妻の様子はすっかり元通りだ。
サミューが出て行ったドアにチラチラ目くばせしつつも、ロズとノアとおしゃべりに花を咲かせている。
俺はそれを眺めながら、今の今まで妻の抱えていた葛藤に気づけなかったことを悔やんでいた。
今まで俺は、何もかも忘れて笑う妻をみて、内心羨ましく思うことさえあった。
娘を失った心の穴が大きすぎて、挫けそうになるたびに、記憶を失ったのが俺だったらと思わずにはいられなかった。
でも、例え記憶を失っていても、妻は娘の立派な母親のままだったのだ。
自分の心の弱さを反省しつつも、俺にはそれが嬉しくてたまらなかった。
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