20 / 37
20
しおりを挟む都内にある阿賀野の部屋に置かれたクイーンサイズのベッドには、とあるラグジュアリーホテルと同じ寝具が使われている。出張で宿泊した際に肌触りや感触が気に入り、すぐにコンシェルジュにブランドを聞いて同じものを揃え、それ以来ずっと愛用していた。
枕は少し高めでパイプ入ったもの。夏の盛りである今時期は、麻のタオルケットを好んで使っている。
けれど、目覚めた阿賀野が頭を預けていたのはオーダーメイドした枕ではなく積み上げた藁の一部で、肩にかかっていたのは使用感のあるくったりとした感触が柔らかい、コットンのタオルケットだった。どこか懐かしいさを感じる、畳のような匂いがする。同時に、甘く芳しい香りもする。それはいつまでも嗅いでいたい匂いだった。
「……あっ」
匂いの元であるタオルケットにもう少し寄りたいと体を身じろがせた時だった。驚きを含んだ声が響いて、泥のような眠りに埋もれていた阿賀野の意識は急浮上した。
頬に藁が当たっている。ここは自宅の寝室ではない。
今に至るまでの出来事が動画の早回しのように脳裏によみがえり、ぐったりと重たい体を起こそうとした阿賀野の耳に、バンとけたたましい音が響いた。
昨夜、暴風雨の吹き荒れる中で足を踏み入れたこの倉庫は、暗くて大きな耕運機や棚以外の位置が分かりづらかった。けれど、いつの間に夜が更けたのか、倉庫内は薄暗い程度の明るさになっていて、音の方向に視線をやると、隅の方にアルミ製の扉が見えた。
扉は閉まっていたが、その向こうではどたばたと騒がしい足音が遠ざかろうとしている。咄嗟に立ち上がってドアノブをひねると、予想外にあっさりとそれは開いた。
ギイと音を立てて開いた扉の向こうには、板張りの廊下が真っ直ぐ伸びていた。左右にいくつか襖や扉が見え、そこが家内であるのだと気付いた阿賀野の視界の端で、廊下の突き当り近くにある扉がバタンと閉まった。
廊下には誰もいなくなったが、鼻先にまとわりつくように残る匂いは、間違いなく真柴の発情期の匂いだ。けれど阿賀野の体は一瞬で疼いたものの、数時間前に味わった狂おしいほどの衝動ではなかった。
多く服用したからなのか、発情のピークが過ぎたからなのか、どっちだろうかと考えていると、ふとすぐ近くに紙が落ちていることに気付いた。
なにかのメモだろうかと視線をやると、そこには少し震えた線で文字がつづられていた。
『阿賀野さんへ
昨日は迷惑をおかけしてすみませんでした。
台所のテーブルに、簡単ですが朝ごはんを用意してあります。めしあがってください。足りなければ、冷蔵庫のものを食べてくださってかまいません。冷めていたら、レンジを使ってください。
サイズが合うかわからないのですが、着替えもお風呂場に置いておきます。着替えた服は、洗濯をして後日お返しします。近くにカゴも置いておくので、そこに入れてください。
トイレやお風呂も使ってください。お休みになるんでしたら、寝室を使ってください。ただ、玄関に一番近い扉は開けないでください。
まだ発情期が終わらないので、お見送りは出来ません。本当にすみません。後日お礼をします。すみません。
真柴要』
メモの隅には間取り図が描いてあった。
真柴のいるところは家屋と倉庫を隔てる扉で、そこからまっすぐに伸びた廊下の右側にトイレ、浴室、キッチン、リビングと並び、突き当りが玄関だ。左側は中庭と寝室があり、寝室と玄関の間の僅かな壁部分にはバツが書いてある。そこから矢印が伸びた先に、『ここには入らないでください』と注意書きがあった。そこは、先ほど真柴が飛び込んだ扉だった。
本来なら、つがいではない発情期のオメガの近くに居座ることは賢い選択ではない。すぐにここを去るべきだというのは阿賀野もわかっていたが、外は暴風雨が吹き荒んでいる。喉の渇きと空腹と疲労もひどい。判断を鈍る一方だ。
「……、真柴くん」
ひとつ呼吸をして、誰もいない板間に声を投げる。少し擦れた大声が、ひとけのない廊下にがらんと響いた。
「メモを読んだ。すまないが、言葉に甘える。車にいったん戻るけど、抑制剤を飲んだらバスルームを借りるよ。ご飯もごちそうになる。寝室も少し借りる。天気が落ち着いたらすぐに出ていくけど、その時にはまた、声を掛けるから」
返事はないが、聞こえてはいるだろう。玄関の付近で、ぎしりと床板の軋む音がした。
匂いはするが、昨日よりははるかに薄い。おそらく真柴も抑制剤を飲んだのだ。更に真柴も抑制剤を服用すれば、扉を隔てているのだし、おそらくは大丈夫だ。
雨風が吹き荒れるなか、一度車に戻った阿賀野は、抑制剤をシートごと持ってきた。すきっ腹に薬を入れるのはよくないことだとわかってはいたが、今度は用量通り一錠だけを水で流し込んで、風呂を借りる。
真柴という男は他人を避けて生きているものの、気が利かないわけではないらしい。
それほど広くもなく、古びてところどころひびが入ったタイルが敷き詰められた風呂場の小さなバスタブには、湯が張られていた。
ある程度払ったものの動くと土がぱらぱらと落ちるので、風呂場で全て脱いで、阿賀野は改めてオーダーメイドのシャツの惨状を見直したが、それほど悪い気はしなかった。そのまま捨てるつもりではあったが、少し考えて、こちらも泥だらけになって処分行きだと思っていたスラックスと一緒に脱衣所の隅に置かれたカゴに入れた。
会うべきか会わずにいるべきか、確かに昨日までは迷っていたはずだった。けれど、次の機会を逃さないために、捨てるつもりだった服をきっかけにしようとしている。
そもそも、押し通していいものかと悩む時点で気付くべきだったのだ。
この感覚は衝動によく似ていて、阿賀野にとっては今まで味わったことのない感情だ。
もうすぐ三十路なのに自分でも判別のつかない感情に振り回されて思わずため息を吐いた阿賀野は、憂鬱を振り切るようにカランをひねった。
16
あなたにおすすめの小説
運命の番は僕に振り向かない
ゆうに
BL
大好きだったアルファの恋人が旅先で運命の番と出会ってしまい、泣く泣く別れた経験があるオメガの千遥。
それ以来、ずっと自分の前にも運命の番があらわれることを切に願っていた。
オメガひとりの生活は苦しく、千遥は仕方なく身体を売って稼ぐことを決心する。
ネットで知り合った相手と待ち合わせ、雑踏の中を歩いている時、千遥は自分の運命の番を見つけた。
ところが視線が確かに合ったのに運命の番は千遥を避けるように去っていく。彼の隣には美しいオメガがいた。
ベータのような平凡な見た目のオメガが主人公です。
ふんわり現代、ふんわりオメガバース、設定がふんわりしてます。
恵方巻を食べてオメガになるはずが、氷の騎士団長様に胃袋を掴まれ溺愛されています
水凪しおん
BL
「俺はベータだ。けれど、クラウス様の隣に立ちたい」
王城の厨房で働く地味な料理人ルエンは、近衛騎士団長のクラウスに叶わぬ恋をしていた。身分も属性も違う自分には、彼との未来などない。そう諦めかけていたある日、ルエンは「伝説の恵方巻を食べればオメガになれる」という噂を耳にする。
一縷の望みをかけ、ルエンは危険な食材探しの旅へ! しかし、なぜかその旅先にはいつもクラウスの姿があって……?
勘違いから始まる、ベータ料理人×氷の騎士団長の胃袋攻略ラブファンタジー!
【完結】愛されたかった僕の人生
Kanade
BL
✯オメガバース
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。
今日も《夫》は帰らない。
《夫》には僕以外の『番』がいる。
ねぇ、どうしてなの?
一目惚れだって言ったじゃない。
愛してるって言ってくれたじゃないか。
ねぇ、僕はもう要らないの…?
独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
✻改稿版を他サイトにて投稿公開中です。
2度目の恋 ~忘れられない1度目の恋~
青ムギ
BL
「俺は、生涯お前しか愛さない。」
その言葉を言われたのが社会人2年目の春。
あの時は、確かに俺達には愛が存在していた。
だが、今はー
「仕事が忙しいから先に寝ててくれ。」
「今忙しいんだ。お前に構ってられない。」
冷たく突き放すような言葉ばかりを言って家を空ける日が多くなる。
貴方の視界に、俺は映らないー。
2人の記念日もずっと1人で祝っている。
あの人を想う一方通行の「愛」は苦しく、俺の心を蝕んでいく。
そんなある日、体の不調で病院を受診した際医者から余命宣告を受ける。
あの人の電話はいつも着信拒否。診断結果を伝えようにも伝えられない。
ーもういっそ秘密にしたまま、過ごそうかな。ー
※主人公が悲しい目にあいます。素敵な人に出会わせたいです。
表紙のイラストは、Picrew様の[君の世界メーカー]マサキ様からお借りしました。
泡にはならない/泡にはさせない
玲
BL
――やっと見つけた、オレの『運命』……のはずなのに秒でフラれました。――
明るくてお調子者、だけど憎めない。そんなアルファの大学生・加原 夏樹(かはらなつき)が、ふとした瞬間に嗅いだ香り。今までに経験したことのない、心の奥底をかき乱す“それ”に導かれるまま、出会ったのは——まるで人魚のようなスイマーだった。白磁の肌、滴る水、鋭く澄んだ瞳、そしてフェロモンが、理性を吹き飛ばす。出会った瞬間、確信した。
「『運命だ』!オレと『番』になってくれ!」
衝動のままに告げた愛の言葉。けれど……。
「運命論者は、間に合ってますんで。」
返ってきたのは、冷たい拒絶……。
これは、『運命』に憧れる一途なアルファと、『運命』なんて信じない冷静なオメガの、正反対なふたりが織りなす、もどかしくて、熱くて、ちょっと切ない恋のはじまり。
オメガバースという世界の中で、「個」として「愛」を選び取るための物語。
彼が彼を選ぶまで。彼が彼を認めるまで。
——『運命』が、ただの言葉ではなくなるその日まで。
完結|好きから一番遠いはずだった
七角@書籍化進行中!
BL
大学生の石田陽は、石ころみたいな自分に自信がない。酒の力を借りて恋愛のきっかけをつかもうと意気込む。
しかしサークル歴代最高イケメン・星川叶斗が邪魔してくる。恋愛なんて簡単そうなこの後輩、ずるいし、好きじゃない。
なのにあれこれ世話を焼かれる。いや利用されてるだけだ。恋愛相手として最も遠い後輩に、勘違いしない。
…はずだった。
ちゃんちゃら
三旨加泉
BL
軽い気持ちで普段仲の良い大地と関係を持ってしまった海斗。自分はβだと思っていたが、Ωだと発覚して…?
夫夫としてはゼロからのスタートとなった二人。すれ違いまくる中、二人が出した決断はー。
ビター色の強いオメガバースラブロマンス。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる