巣ごもりオメガは後宮にひそむ【続編完結】

晦リリ@9/10『死に戻りの神子~』発売

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巣ごもりオメガと運命の騎妃

56.孤独を溶かす言葉

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「……お祖父様は、お祖母様とスハヤ様との確執の原因は自分にあり、それを解消するべきは自分だったともおっしゃっていました。それさえ上手く立ち回れていたら、お祖母様が苦しむことも……オメガへの当たりも、今のようではなかったはずだと」

 こんなにも静かに沈んだハイダルの声を、サリムは初めて聞いていた。

 サリムも知らなかった祖父と孫の四年間を語り終えたハイダルの手は、いつの間にか体の横に落ちていた。その手が握りしめられているのを見て、無性に掴みたくなったサリムだが、目の前にはディーマもいる。しかし自分の知らなかった話を諾々と聞かれされた皇妃は、サリムのことなど目に入っていなかった。

 落ちた扇を拾いもしないまま、ディーマは震える唇を開いた。

「……そんなもの、詭弁よ。言い訳だわ」
「そう言うだろうとも、お祖父様は仰っていました。もしもの時があればと、手紙も預かっています。あとで届けさせますので、この場は、ご容赦を。……サリムを休ませてください」
「……」

 もっと噛みつくと思ったが、意外にもディーマはそれ以上なにも言わなかった。

 むしろ彼女にしては落ち着かない様子で視線をさまよわせ、それから体を揺らした。

 倒れるかと思って一瞬サリムは焦ったが、単にうつむきがちだった顔を上げただけのようで、視線が合った。

 出会ったころからずっとサリムを厳しい目で見つめてきた双眸が弱く揺らぐ。視線をそらし、またサリムを見たディーマは結局ふらりと背を向けた。

 そのまま出ていこうとする背に、サリムは一瞬の迷いのあと、口を開いた。

「こ――皇妃殿下。私の不手際でハイダル殿下の参列が叶わなかったこと、お詫びいたします」
「サリム、お前が謝る必要は」

 寝台に座ったまま身を乗り出すサリムを、ハイダルの手があわてて抑えようとする。両肩を掴まれながら、サリムは首を振った。

「いいえ、謝らなければいけません。もっと警戒すべきだったと後悔しています。自分の身を軽んじ、護衛も少なく……殿下のつがいであるという自覚どころか、賓客が共にいることにすら配慮が足りていなかった。その結果が招いたことです。陛下にいただいた御恩情は決して忘れませんが、墓参については御伴侶である妃殿下の意向に従います。ただ……市中にある霊廟への参拝だけはお許しください」

 どうか、と言い縋るサリムを、ディーマはじっと見つめていた。その視線には怒りも憎しみもない。ただ、サリムには彼女が泣き出しそうに見えた。

 すっと視線が外され、ディーマはそのまま去っていった。ぱたんと扉が閉まってしまうと足音さえ聞こえなくなり、ついいましがたまでそこに彼女がいたことさえ夢のようだった。

 扉を見つめるサリムは、肩からハイダルの手が退いてようやくつがいを見上げた。

「ハイダル様……あの」
「すまなかった」

 サリムが何かを言う前に、ハイダルは寝台脇に膝をついて頭を下げた。

「やめてください」

 つがいとは言え、ハイダルは皇太子だ。自分が寝台に座ったままなのに、そんなことはさせられないと焦ったサリムだが、ハイダルはそのまま顔を上げた。

「いや、謝らせてくれ。……ずっと黙っていて、本当にすまなかった」

 何をとは言わなかったが、十中八九、婚約解消を黙っていたことだろう。

 どれほど綺麗に隠していたのかと考えるだけで、胸元がもやもやとして仕方ない。このことを知っていればとも思ったが、すぐにサリムはいいやとその気持ちを否定した。たとえ話をあれこれ妄想しても、現状が変わるわけでもない。

 いますべきことは、とぐらぐらする頭で考えたサリムがどうにかこぼしたのは、単純な疑問だった。

「ハイダル様。本当に……本当に婚約を破棄してしまったのですか?」

 本人から聞いたばかりだが、それでもまだ信じられなかった。

 サリムがいるということでこれ以上ハイダルと両祖父母の間に諍いが起きないようにと頑張ってきた四年間だった。その間に抱えた葛藤も苦悩も決意も涙も、すべてサリムのものだ。いまのサリムの言動は、ほとんどそれに従って出来ていると言っても過言ではない。

 それほどまでに自分の中に深く根付かせていたはずの、ハイダルの婚約という出来事が、まさかもうすでに無いものだとは信じられなかった。

 呆然と呟くサリムにもう一度頭を下げて、ハイダルはうなずいた。

「四年前の婚約破棄の日を覚えているか。俺はお前に会いに行く約束をしていたが、行けなかった。……お祖父様に呼びだされたんだ」

 その日のことを、ハイダルはぽつぽつと教えてくれた。

 四年前の婚約解消と、二年前にサリムが騎士になりたいと言ったこと。それがすべての軸だった。

「……あれからずっと、お前に真実を話すことができる日を待っていた。まさかこんな形で告げることになるとは思っていなかったが、いつかは必ず伝えなければいけないと思っていた。そうじゃなければ、誰も動けないままだ。どうしようもない後悔を抱えて生きていくことはしたくなかった」

 上向くハイダルの目に、自分が映っている。そのまっすぐな視線が、胸にわだかまりはじめていたもやに一筋の光をもたらす。

 ハイダルに選ばれて皇宮にあがってから、ずっと気を張っていた。自分だけがと思う日がなかったわけではない。けれど、それは彼らも同じだったのだ。

 サリムは自分以外の三人の仲が拗れないようにと身を引くことを考え、シラージュは遺される三人のことを思っていた。そしてハイダルはその思いを継ぎながら、祖父母の夫婦としての絆を信じ、サリムと共に歩みたいと思っていてくれた。

 隠されていたことには不満はある。それでもハイダルが自分との未来を考え続けてくれていたことがなによりも胸に響いた。

「だからサリム、これからも俺の隣にいてほしいんだ。出会ったのは運命のつがいとしてだが、いまはどんなきっかけでもよかったと思う。お前だけを愛しているんだ」

 腿の上に置いたサリムの手に、ハイダルの手が重なる。

 もしこれが四年前、ハイダルと会うことを制限される前のサリムなら無邪気にはい、と言ってしまったかもしれない。けれどいまのサリムにとって、ハイダルの告白は恐ろしい誘惑でもあった。

 ずっと覚悟してきたのだ。決して自分が運命のつがいであることを驕らず、傍で見つめ続けるだけでいいと。

 それに、すべての問題がなくなってもサリムの出自が変わることはない。親に捨てられたような自分が、皇妃になどなれるのか――そんな不安がゆらゆらと頭をもたげる。

「ですが、私のようなものが皇妃には……」

 思わず口をついた言葉に、ハイダルはサリム、と厳しい声をかけた。

「お前は自分を評価しなさすぎる。自信を持て」
「だって」

 思わず言葉が幼くなってしまって、それもまた情けない。

 もじもじと大人の影で隠れる子どものようだと思いながらも、言い訳がましくなってしまうのはこの四年でついた癖もあるだろうが、もともとの性格もあるのかもしれなかった。

 怖気づくサリムに、ハイダルは目を細めて笑った。

「だって、婚約破棄をしくじったあげく黙って白紙にしたうえ、祖母に逆らえないアルファなんて願い下げ?」
「違います!」

 思わず叫んだとたん、くらりとめまいがサリムを襲う。体が揺らいだとたんあわてたハイダルの手が背中に回って、ゆっくりと横たえられた。

「刺激しすぎたな。医官を呼ぼう、診てもらわないと」

 そう言ってハイダルは腰をあげようとした。けれど、立ちきるより先にサリムの手がその袖をつかんだ。

「……」

 思わず掴んでしまったサリムは、内心焦っていた。

 無言で袖をつかむなど、こんな無礼なことはしたことがない。それでも、そうしてでも言いたいことがあった。

 驚いた顔をしてこちらを振り返るハイダルを見上げて、サリムは震える唇を開いた。

「だっ……だって、つがいであるだけで充分だと、……それでいいと自分に言い聞かせていたんです。だから、驚いてしまって……」

 首のあたりに熱を感じる。それがどんどんあがってくる。頬が火照って、その熱が目元にまで広がっていく。

 泣きそうだと思いながら、サリムはいまにも詰まりそうな喉で必死にハイダル様、とつがいの名を呼んだ。

「本当はずっと――ずっと、あなたの隣にいたかった。発情期の時じゃなくても、ずっと傍にいてほしかった。私はあなたのオメガで、あなたは私のアルファなのに、どうしてって」

 誰にも吐露したことがなかったのに、言葉はすらすらと出てくる。すっとこぼれた涙が、熱でひりつく頬を伝った。

「でも、でも違うんです。アルファじゃなくても、つがいじゃなくても、騎妃じゃなくても、私」
「サリム」

 屈んだハイダルの手が頬を包む。そこに自分の手を重ねて、サリムはひっくと一度大きくしゃくりあげた。

「私、ずっとあなたが好きだったんです。だから、だから嫌とかじゃなくてっ」

 皇妃にと望んでくれたのだから、皇太子であるハイダルのつがいなのだから、もっとしっかりしなければ。

 そう思うのに、四年越しの安堵と告白にぐちゃぐちゃになってしまったサリムの心はひどくもろくなってしまって、とうとううああと声を上げてしまった。

 ずっと抑え込んできたいろんな感情が、どんどん雫になっていくせいで涙が止まらない。

 シラージュに可愛がられていた喜びと、もう会えないという痛み。

 ディーマに嫌われた寂しさと、あの凛とした佇まいと揺らがない自分を持っていることへの憧れ。

 そして決して自分ひとりのものにはならないと思っていたハイダルを慕い続ける孤独感と、愛されていたのだという歓喜。

 すべてがないまぜになって、サリムは混乱していた。

 わあわあと泣きながら、この四年の感情を吐き出した。

「本当は、寂しくてっ……でも、婚約者の方が、でもディーマ様の気持ちもわからなくないって……っ。へ、陛下のことも考えたら、私はやっぱりって」

 言ってることもばらばらで、きっと伝わっていないだろうとどこか冷静にサリムは思った。けれどハイダルはじっと話を聞いてくれて、少ししてようやくサリムの口が閉じると、顔を近づけた。

 こんと額がぶつかる。ハイダルの額が冷たくて、サリムはすんと鼻を鳴らして体の力を抜いた。

 間近で見つめあいながら、ハイダルは笑った。

「お祖父様から話を聞いたとき、思ったんだ。お祖父様たちは、話をしなさ過ぎたんだって。だけど、俺たちもそうだ。言ってくれてありがとう、サリム。これからはもっと話をしよう。嫌なことも、楽しいことも、全部。俺たちはここから始められる」

 そうだろう、と笑うハイダルに、サリムは無言でうなずいた。口を開いたらまたわんわんと泣いてしまいそうだった。

 それなのに唇があわさる。逃げる舌をからかうようにつつかれたサリムは驚いたが、キスは終わらない。頭がぼうっとしはじめてようやく自由になったころには、もう涙も引っ込んでいた。

 サリムの頭を撫でながら、ハイダルはまた額をあわせた。さっきから、ハイダルはどこかしらを触れさせていたがる。もしかしたらスキンシップを取るのが好きなのかもしれないと、サリムは四年目にして増えたハイダルの情報をそっと心に留めた。

 間近で見つめる黒い瞳は、夜空のようだ。虚空ではなく、星の輝く空。そのきらめきにサリムを映して、ハイダルは囁いた。

「つがいも皇妃も隣にいてくれるのも、お前じゃなきゃだめなんだ。愛してる、サリム。ずっと一緒にいてくれ」

 小さな声は、サリムにしか聞こえなかっただろう。だからサリムもハイダルだけに聞こえるほどの小さな声で、はいと返事をした。

 それは、これからも何度も繰り返される二人の会話の一端に過ぎない。けれどこの日のことは、生涯忘れずにいようとサリムは思った。

 その日、サリムは自分の部屋に戻ることなく、そのままハイダルの部屋にい続けた。そして一緒に眠った。発情期でもなく体を合わせるでもなく過ごした夜は、静かに深く二人を包んで更けていった。

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