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第一部 揺動のレジナテリス
8.偽称の官吏 サーシャ・シスル(S-074)
しおりを挟む「――私は近いうちに職を辞するつもりでいます」
アクレイア筆頭書記官がドイエン法務官に打ち明けた時、私は少なからず動揺してしまった。
研修官として付き従って来た彼は、今までの人生で見た事が無い程に出来た人だった。
公私に線を引く人ではあったが、任務を忘れそうになる位に信頼していたのだろう。
南エスパニの最東端に位置する小さな村の外れから、這い出るようにセビリスへ奉公に出て、
必死に生き伸び今の生活を手にするまで、周りには碌な人間が居なかった。
闇技能を教えてくれた盗賊ギルドの頭領は、偽りの姓を得させる為に私を下級貴族に売り、
その貴族は飽きると今度は《年頃の女》としてエスパニ領主に献上した。
その後貴族としての教養を叩き込まれ、王城へ送り込まれることとなる。
官僚試験は不安だったが首席で合格した。何かしら裏工作があったのだろう。
結果、実務で苦労する羽目になり、違和感を消す為に毎夜遅くまで勉強する日が続き、
徹夜明け業務開始を待って食堂でうつ伏せ、気絶する日々が続いた。
そんなある日、誰かが置いたミントティーが教育係となる先輩を知るきっかけとなった。
そして今朝の朝議で議題となった《侵入者》の件で、決行日が近いことを察すると、
初めて迷いがある事に気づいてしまった。
勿論止めることも、雇主を裏切ることも出来る訳が無い。
彼だけでもと思っていた矢先に交わされた会話が、少しだけ心を軽くしてくれるのを感じ、
そんな迷いを悟らせないように今日も新人書記を演じる。
「先輩……辞めちゃうんですか??」
「ええ、前からずっと考えては居たんですが……貴方も立派に育ちましたから――」
「――い、いえ! 私なんて! まだ日報の一つも満足に書けませんし……」
「まぁ……シスルさんは色々考えすぎる所がありますからね、けどそれで良いんですよ」
思わず黙ってしまったのは、《頼りない後輩》を演じていたことを見抜かれていた事実に
驚いたからというより、それを今まで一切悟らせ無かったからだ。
この人は《詐話》と《誘導》で演じている偽りの私に、
どこまで気づいていたのか――
珍しく慌てた法務官は技能を使うまでも無く心の動きが全て見て取れる。
しかし抑揚無く話す書記官の言葉や横顔からは、本心が何も見えてこない。
最下層で誰も信じてこなかった私よりも、ずっと人に関心が無いように思えてしまう。
食堂から出ていく彼を見送るまで、結局何も分からないまま寂しさだけが残った。
***
誘導灯が揺らめく階段を上がると、高窓から零れる月明かりが視界を少し鮮明にする。
メイド服の白い袖口が黄色を帯びて煌めいた。
女性官僚は城内の雑務も兼ねるので、あくまで業務の一環として自然に城内で諜報が出来る。
城内での諜報任務に女を使うのは組織ではよくある話だが、女王に近い場所に配属された事で、
上階に行きやすくなったのは都合が良かった。
基本的に王族や来客以外に立ち入り出来ない上階にメイドに扮して上がる理由、
それは――朝議で女王が言付けた内容を衛兵から聞き出したからた。
衛兵も寄せ付けない女王が訪問者を呼び出す、そんな状況を調べて報告するために。
靴を脱ぎ腰紐に差して《潜伏》と《抜足》で暗がりを進むと、
開放されたバルコニーから一際強い光と、柔らかな話声が差し込んで交じり合っていた。
穏やかな女王の声が少しばかり上擦っている気がするが、ハッキリ聞き取れない距離を、
慎重に、静かに、足裏に石床の冷たさを感じながら、詰める。
「――と戦った時は……――ったけど、後悔はしな――たんだ。けど――か悲しくなった。
あの子――を射って……なんだろ、上手く言え――んだけど」
多分リコと呼ばれていた小柄で可愛らしい子の声だろう。
元気に応対していた朝議とは違い、声色からは多少気落ちした印象を受ける。
「――時、ちょっと腕を切っちゃったんだ。こん――でも痛かったのにって思うと……」
「……――は優しい子ね」
そう答える為政者の声は、普段の厳格で周囲と一線を画した対応とは全く違い
年相応の少女のように感じられた。
印象の違いに戸惑いながら、限界まで近づいて耳を澄ませる。
「人が人を傷つけるのは、理屈じゃないと思う。剣を振れば、矢を打てば……
人は死ぬかも知れない……殺してしまうかもしれない。だから、出来るなら……
話し合いで解決したいの。エリアスにもそれを分かって欲しいのだけど……」
「そう、なのかな? えーっと……それじゃ、あの……皇女? はどうするの?」
「エスパニ領主に仲介をお願いして、帝国へ引き渡そうと思うの。
流石に自由にする訳にはいかないから……護送をエリアスにお願いしないといけないわね。
きっとあの子は怒るけど」
女王が何を言っているのか全く分からない。
話の内容は解るのに、意味が全く分からなかった。
敵だと分かっている相手を心配したり、丁重に送り返すとか、冗談か何かだろうか。
「早く治れば良いんだけどなぁ」
「そうね……貴方は洗礼を受けたことはあるかしら?」
「せんれい? なにそれ」
「どこか水にまつわるような場所で、何か……儀式とか、受けたことはある?」
「うーん……どうかな? 大きな滝の奥の洞窟に行ったことはあるけど……」
「……そう。ねぇ、腕を出して……ego…… spero……caritas……aqua」
透き通る歌い声に誘われるように覗き込むと、ぼんやり光りだした周囲の粒を
女王が静かに掌を掲げて、吸い寄せ、腕を覆う。
かざした白い手が、ほのかに赤く染まり、光の粒が漂うようにあふれ出る。
軌跡が細い手のように傷跡に触れると、包んだ腕の中に何かが流れ込んでいるかのように見えた。
しばらくの間、美しく流れる光の河を眺める。
それは初めての光景だった。
「うわ、なんで!? 傷が……消えた!」
「これはね、水精術よ。精霊の力で怪我の治りを早めたの。
この世の全てを司る加護の力――精霊力と呼ばれているもの」
「スペ……エレ……?」
「細かいことは覚えなくても良いわ。さっきの言葉、あれだけ覚えて。
そして、唱えるの。 心の中で……深く、強く願いながら」
「えっと……なんだっけ」
「これに、いくつか書き記してあげるわね」
胸元から出した懐紙に何かを書き始めた女王フローラの姿を、思わず視界の端から外した。
きっとあれは私が受けたそれとは全く性質が違う――《教育》なのだろう。
習得に対価も賞罰もないことが、余りに羨ましく妬ましく、尊くて目を逸らしてしまった。
火精信者が多いセビリスでは水精術の習得は難しく――美しいとすら感じた。
「……あんまきれいじゃない紙だね、それ」
「これでも結構高いのよ? だから小さく切って使っているの」
城内でも貴重で消費を抑えるように教育されている紙片を片手に、女王は木筆をひと舐めする。
「城にも書物は沢山あるけど、装飾がされた立派な物は《古書》と呼ばれてるわ。
こういう紙を重ねて結わえてあるような書は《新書》というの。どちらも書庫にあるから
時間があれば見てみると良いわ。誰が書いたか解らない物が多いけど……」
書庫は書記官の管轄で、本来使用には許可が要るが書記は自由に出入りする事が出来る。
諜報には都合が良く、外で得られないような情報が多く収められているので重宝するが、
出所が分からない物が多く著者も記載されていないので、内容の真偽は判断出来ない。
「この、他の3つの……術? はどういったもの?」
「一番上のは、さっきの治癒ね。《Treat》と言うの。下が水の力を強める《Splash》あと……」
まるで本当の姉のように寄り添って一つ一つ術を教える女王と、
楽しそうに聞いている子供の姿が、遥か昔に生き別れた弟を思い起こさせた。
村から逃げ出す時に連れていけなかった弟の事を思うと、押し潰した感情の種が、
硬い地面を突き破って這い出ようとする。
これ以上聞いている理由は無いと、自分の中で勝手に理由を付けて吹き抜け通路を後にする。
薄暗い階段を下りて宿舎へ向かっていると、居るべき闇の中に沈んでいくように感じた。
本当は理由ではなく――聞き続ける気力が無かったから。
***
「サーシャ、聞いてるのか?」
昨夜の光景が目に焼き付いて寝付けないまま夜が明けた。
早朝で無人の庭園には庭師である青年一人しかおらず、傍目には城勤め同士が
業務の伝達をしているようにしか見えないだろう。
「おい、お前ぇ、なんか今日変だぞ?」
「え? ああ、ごめん、ちょっと寝不足で……」
「しっかりしろよお前ぇ、俺今日この後報告あんだから、×付けてもらうぞ?」
そう言って怠そうに上辺だけを箒がけしている庭師のオーリオは、
遥か目上である書記官に向かってお前呼ばわりする。
周囲に他の人間が居る時は低姿勢で二人になると態度が激変する彼が余り好きでは無いが、
諜報員としては彼の方が先輩で、女王を見張るために潜り込まされた自分同様に、
主に王子の動向を探ることを任務としている。
「しっかし傑作だな、もう駄目だろあの姉弟。先代もぼーっとした女だったらしいけどよ」
「ちょっと……誰かに聞かれたら」
「へーきへーき、ちゃんと気をつけてっから」
「……報告書いつもの所だけど……そっちの方は大丈夫なの?」
「あの王子味方居ねぇからな、城に居る時は毎日ここで剣振ってるだけで書く事ねぇよ」
「全然駄目じゃない……知らないからね減点されても」
「そもそも雇い主も王子なんか気にもかけてないっての、ぶっちゃけ意味ねぇよ」
「そうなの??」
「そりゃそーだろ、唯一の肉親とは不仲、上司は飛ばされ城には友人1人居ねんだぞ」
事実昨日の朝議で見たあのやり取りは何も珍しい事では無く、幾度と無く口論を繰り返している。
元老長や監察官が焚き付けるまでも無く、放っておいても不仲なのだ。
昨日の栗毛の子の方が本当の肉親に見えてしまうし、隠し子でも誰もが信じる程似ている。
「ところで、昨日の朝議ってあれだろ、帝国の皇女が捕まっただかなんだかっての」
「……なんで知ってるの? まだ城の人間には誰にも伝わってないはずだけど」
「お前、俺を舐めてんのか? こんなザル警備の城何とでもなんだろ、温いカスばっかで。
しっかし向こうも向こうでどんくせえな。ボッチ王子に捕まるとか、どんだけ雑魚なんだよ」
軽口を垂れ流すオーリオに冷や冷やしながら庭園を見渡すが、周囲に気配は感じられない。
いつ雇主の名前をうっかり漏らすか気が気で無いが、流石にそこまで粗忽では無いだろう。
ただその雇主も帝国皇女が捕らえられた事に関しては、さほど関心が無いようにすら思える。
昨夜の話では元老長を通じて帝国へ送り返すとのことだったので、大事にはならないだろうが、
事前に大まかに聞かされていた流れとは多少のズレがある。
「……この後ってどうなるのかな? なんか指示と違うみたいだけど」
「このまま様子見るしかねぇんじゃねの? 王子が王都を離れりゃ御の字だし、
居残るなら攪乱して追い出せば良いだけなんだからよ。実際修行時代よりユルユルだろ、この城」
「まぁ……それはそうなんだけど……女王も悪い人じゃないんだよね……」
「お前、甘い事言ってんじゃねぇよ、俺達にはこの道しかねぇんだぞ? 戻りたいのかよ?
毎日泥水すすって腹壊してよ、薄汚い豚に好きなようにされる糞溜めに」
目の前で吐き捨てるように零れ落ちる言葉は、聞きたく無いがまぎれも無い事実でしかない。
顔をしかめる彼にしても、自分とは違い由緒ある貴族の生まれでありながら、
父親の命で長く続く苦しみを味わい続けている。家族を深く恨んでいるのだろう。
そんな身の上を生きてきた彼が女王と王子の不仲が愉快で仕方ないのも仕方ないとは思うが、
同調はしたくないと思ってしまう。きっとそんな自分は、まだ甘いのだろう。
「やるしかねぇんだよ、結局俺た――」
「――シッ 誰か来る」
西階段から階下に降りてくる足音を察して、男の口を人差し指で静止する。
カツカツと苛立ちを叩きつける靴が誰であるかを表している。
庭師を装う煽動師オーリオの《変装》を――背後に見送り、
自然に足早に庭園を出た。
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