44 / 117
第二部 擾乱のパニエンスラ
29.月桂樹を望む秘湯
しおりを挟むぷっはぁぁぁぁ
輝きを増す頭頂部を滑り落ちる汗を両掌で受払い、バスターは石壁に背を預けて天を仰いだ。
浴槽のど真ん中に鎮座する謎の巨岩の裏からは、グロリアとクロエの声が山中に反響する。
気恥ずかしさを紛らわすように額に手を当てると、岩陰からスイーっとリコが現れた。
「おいリコ……風呂で泳ぐんじゃねぇよ、つか何でお前服来たまんまなんだよ?」
「え? 上着は脱いで来たよ? これ下着だし」
いまいち話が噛み合わないリコは、ホワイトともベージュとも見える薄手の大きいシャツを
着たままスイスイと泳いでおり、湯面に広がる裾も相まって変種のコモンフロッグに見える。
恐らくブラインド代わりに雑に置かれたであろう仕切り岩の周りをグルグル回っているので、
最早役目を果たしていないなと、眼下に広がる緑の湖面を眺め、バスターは大きく息を吐いた。
「ねぇ、バスター兄、さっきの危なかったねー」
さっき――山中に佇む謎の廃教会の裏に設けられた『かけ流し』温泉を見つける、一刻程前、
九死に一生を得たあの瞬間を思い返して、静かに目を閉じた。
***
「だぁぁぁ!! やべぇ!!! グロリア! 眼ぇ閉じてろ!」
擦れるような声と共に傾く足場と、軋むような唸り声の直後――
音も無く脱力する橋桁――
筋力と信心を振り絞って投げたグロリアの髪が、フードから零れて谷間に綺麗な天河を描く。
一瞬その美しさに目を捉われながらも、小さく――そして高速で、脳髄に瞬いた文言を刻む。
「ego quaero flatum venti!」
バスターが口ずさんだ術の効果は、ほんの少しだった。
背高な巨躯を、僅か、落下から支えたに過ぎなかった。
だが、そのほんのたった2秒――これが生死を分けた。
前斜め下に放った戦鎌の先端、短めのスパイクが岩壁に突き刺さる、
右足裏でポールを蹴る、詠唱の合間に垂直に飛翔して次弾で揚力を助け――
鎌のブレードを真横に薙いで突き立てる。
エアラン、エアムーブと呼ばれる技術を得意とするバスターが使用した風精術は、
「Lv1 Air」あくまでその応用でしか無かったが、文字通りの《命綱》となった。
「ああ……ありゃちとヤバかったな……そういやグロリア嬢! アンタ怪我は平気か!?」
「……えっ! あ、はい? 何ですか?? も、もう、ほら動かないでクロエちゃん」
「もういいってば! 次はリコを洗ってやってよ!」
髪を洗われるクロエに逃げられたグロリアの声は、巨岩に遮られて反対まで届かないらしく、
バスターは気まずそうに岩の裏側まで近づいて、クルッと向いた背を岩肌に預けた。
「っと、聞こえるか? 俺が放り投げた時にあちこち擦ってただろ? 平気か?」
「はい。大した怪我でも無いですし、リコちゃんに治してもらいましたから」
「なら良いんだけどよ……咄嗟だったもんでな。傷痕でも残しちゃ大変だ」
「あ、いえ、大丈夫です! っとリコちゃん、こっち来て! 頭洗ってあげるから!」
「いらなーい、いつもこんなだし」
「ああ! またお湯の中に潜って……もう」
「ははっ 大変そうだな、ガキのお守りも」
「い、いえ、平気です! ところで、ゲイルさんって風精術も使えるんですね」
「ゲイル? ああ、俺か。まぁ色々あってよ、相方と分担して術を取ったんだよ」
「相方? ご結婚されてるんですか?」
「や、ちげぇよ。俺がずっとペアで組んでる仲間で、グレイドルって名前の気の粗い男だ。
あっちが土精術を取ったもんで、俺がこっちを担当したんだ」
「えっと……? けど術って適正もありますよね?」
「そうだな、最初は相方の方がシャープエッジを覚える為だけに土精術を習ったんだがな、
それが案外性に合ってたみたいでな。俺のはせいぜいLv1程度だが」
「シャープエッジ……『Edge』ですよね?」
「集束のエッジと強化のブレードを掛け合わせた基本的に戦人しか使わないマイナー術だな。
ただこれが案外便利なんだよ。アイツは自分の武器を毎回レストアに出すのが面倒だつってな、
金属ナゲットを持ち歩いて研ぐって、変わった使い方をしてんだよ」
「それは変わ……い、いえ、面白い人ですね」
「ははっ 変だろ。だがこれも中々利点があってな。まず長期間で遠出しても武器の減りを
気にする必要がねぇ。勿論メンテに出す必要はあるけどよ。一々街に戻る必要が無いってのは、
それだけでもデカいアドバンテージになる。解るか?」
「ええ……前の仲間も愚痴ってましたから。私達はセビリスに馴染みの鍛冶師が居ますが、
レストアを月極で依頼すると、どうしてもそこが拠点になってしまいますから」
「まぁ要するに遠出がしづらくなる。俺らはそれが嫌であれこれ試行錯誤してこうなった。
ま、結局クロスビレッジの檻に囚われになってたわけだけどな」
クロスビレッジ、口から出たその単語はバスターの脳裏に様々な記憶と予測を想起させた。
グロリアが先日語ったモドバル商会からの受領依頼――これは十中八九、あの荷馬車だろう。
簡易的に応急修理して手押しして、ランバー村を経て、最終的にロガー村に辿り着いたという、
大勢の運命を変える奇縁の起点ともなった木箱。
それがここにも繋がって来るらしい。
「なぁグロリア……その、なんだ、この前も聞いたが、アンタ本当に例の受領依頼の内容は
何も聞かされてないのか?」
「受領依頼……モドバル商会の依頼ですか? あれはパット……えっと、前のパーティーの
リーダー……パストルが取って来た依頼なんです」
「ほぅ、商会から直接指名で依頼されるほどの男なのか?」
「えっと、名声という意味ではそこまででは無いと思いますが、彼は貴族出身なのに温和で
人望のある人で……ギルドや商会からは信用されていたんじゃないでしょうか?」
「信用、ねぇ……」
バスターが感じた引っかかり、喉に刺さった小骨のような気持ち悪さ。
そしてそれをどこまでこの純粋な娘に伝えて良いのかという悩みの種。
それが萌芽するまで、さほど時間の猶予が無かったことを知るのは、もう少し後の事だった。
「んー……まだちっと分からない事が多いな。判断するには情報が足りねぇ」
「あの……その依頼の事が何か気になりますか?」
「そうだな……例えばだ。その受領が違法取引によるもんだとして、そのリーダーとやらは
知ってたと思うか? 詳細を聞かされた上で依頼を受けたという可能性は――」
「――そ、それはありません! パット……彼はそういうのを最も嫌いますから!」
「そ、そうか。ならお嬢のパーティーは元々モドバルの子飼いって事でもなかったのか?」
「私の所属していたグレンランパードはグレンデスの所属ですが、
ギルドはセビリス管区になりますし、怪しいパーティーが出入りしているモドバル商会とは
距離を置いていました……けど、どうしても彼の実家との関係上、
付き合いを絶つ事は出来ていなかったと思います」
「怪しいパーティー?」
「有名な所だと《トリデプレダドール》ですね。三人兄弟のBランクシニアパーティーで、
中央では賞金首になっていますが……商会に出入りしているのを見かけた事があります」
「ほう……その辺の裏事情に詳しい人とか、誰か知り合いでいないか?」
「そうですね……私の父に聞いてみるのが良いと思います。一応セバールの子爵ですので」
ひょんな暴露から目的地が確定し、降りかかる肩の荷を水滴ごと振り払うように立ち上がり、
バスターは仁王立ちして腰に手を当てるのだった。
『ロレル湖』とグロリアが呼んだ楕円の湖は、湖では無く貯水池である――
と、バスターが知ったのは、湖畔の堤防を左に回り始めてしばらく経ってからの事だった。
名も無き温泉教会からは月桂樹に遮られ全貌が確認出来なかったが、円の左に達した辺りで
グロリアの幼少時の記憶と合致したらしかった。昔家族で来たことがあったそうだ。
申し訳程度に馴らされた獣道を分け入ってなだらかな坂を下って数刻、小雨を避けて数刻、
教会の対岸に達した辺りから険しい参道を降りて、渓谷に架かる吊り橋を二つ越えた先に――
その町はあった。
『白亜の断崖都市』と呼ばれる、セバールである。
***
「うっわーすっご! 綺麗な街だねー!」
「あ! リコ! ちょっと待ってよ! アタシも行く!」
駆け出す二人の後ろを歩くバスターと、そしてフードをしっかりと頭から被ったグロリアは、
領主館があるというモンパの丘を目指して人通りの多い街道の、端を進む。
リッツと似た別荘地のように往来に戦人は少なく、一行は商店街に紛れても目立っていた。
「お、お嬢……どうした? なんで顔隠してんだ? それに名前も呼ぶなって……」
「余り注目されたくないので……そのまま進んでください。後で説明します」
「お、おう……良く分からねぇが、ま、まぁ了解」
市街地から少し離れて、街の東側に広がる断崖を望む丘陵に、領主館はあった。
比較的質素な佇まいで周囲には建物も無く、言われなければただの別荘にしか見えなかった。
そして石壁に囲われた庭園を開放する門扉の向こうから、箒を持った一人の老人が駆け寄る。
「お嬢様!! お戻りになられましたか!! 爺は嬉しゅうございますぞ!!」
「ちょ! ちょっと、セ、セバスチャン……声が大きい……」
「グロリア嬢……アンタ、まさか……」
「えっと……セバールは子爵領ですので……父はセバールの領主、フリオ・ソレルです」
「こりゃ驚いたな、ご無礼を働いてなきゃいいんだが……って放り投げたじゃねぇか!」
「き、気になさらないでください。今はただのヒーラーでしかありませんから」
きゃっきゃとハシャギながら満更でもない老人の手を引いて邸宅へと駆け出すリコの姿に、
羨ましさと懐かしさを隠しきれない笑みを零すグロリアと、見ない振りするバスターだった。
「待ちなさいリア!!」
バーンと開かれたドアから飛び出した青髪の淑女からは涙がこぼれているように見えた。
門前で待たされていたバスターは気まずそうに室内に入り、家主と対面した。
「すまないね……みっともない所を見せてしまったね」
「あ、いや。平気だ……です。けど、良いんす……かい? 泣いてたみたいですが」
「まぁ……いつもこんな感じだよ。娘の命を助けてくれたみたいで、本当にありがとう」
苦笑いしながら差し出したフリオ・ソレルと名乗る温和そうな子爵の右手を軽く握り返して、
戸惑いを隠せないバスターは言葉の中に意図を隠した。
「なんと言うか……貴族という感じがしませんね。や、勿論良い意味ですが」
「ハハ、子爵なんてのはそんなもんだ。伯爵の小間使いみたいなもんで、私も元は戦人さ。
怪我で戦えなくなってね、小さな村を開拓してたら町になり、編入されて領主になっただけだ」
右で床を突いて居た杖をスッと振って椅子に腰かけると、フリオの面持ちは深く重く変わる。
「さて、娘から聞いた話だと、君は私に聞きたい事があるという話だったが、まずその前に
君の目的を聞かせてくれないか? Bランクパーティー、ジャックリーパーのバスター君」
「な! 私はゲ、ゲイルという者で……誰かと勘違いしてないすかい?」
「フッ、一応これでも元戦人なんだよ? 今でもその辺の情報はちゃんと収集してるさ……
心配しなくて良い、仮に君が罪人だろうが私には関係ない。勿論ここで罪を犯すなら別だが。
娘の恩人でもあるし、多少は君の力になれるだろう。ここは一つ私を信じて話してみないか?」
静寂の後、ゲイルことバスターは意を決して今までの経緯を伝え、フリオはそれに傾聴した。
「なるほど……まず最初に、モドバルの荷については心当たりがある。だが、それを今君が
どうこうする事は難しいだろう。それよりも先に目的を果たすべきだと思うが?」
「目的? いや特に何か大事な要件がある訳じゃなく、単に村の木材の買い付けに……」
「そうかい? 君は随分あの子供達を気にかけているようだが。でなければわざわざ難所を
越えてまでついてくるようなことはしないだろう?」
「あ、いや、まぁ……ついでですんで。イベリスまで送ったらそこで別れる予定で」
「私が娘と喧嘩になったのもその事なんだ。あの子は仲間にもう一度会って、
イベリスでの募兵に加わる事を止めに行きたいと言い出した。私もその方が良いと思うが……
今はあの子をイベリスには近付けたくない。そこで君に情報提供と引き換えに一つ依頼を頼みたい。
バスターは後に幻影の大地で思い出す事になる。運命の転換点はこの日だったということを。
1
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる

