北溟のアナバシス

三笠 陣

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第四章 赤軍侵攻編

70 南樺太攻防戦の始まり

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 樺太に対するソ連軍の本格的侵攻が始まったのは、八月十一日のことであった。
 これより前の九日夕刻、樺太庁によって樺太住民の疎開が決定されていた。有事の際の住民の疎開については、すでに樺太庁長官と陸海軍間で事前に協定が交されており、船舶や鉄道は樺太庁長官の指揮下に入ることが取り決められていた。
 こうした樺太庁・陸海軍間協定に基づき、大津敏男長官は疎開の指示を各支庁(豊原、真岡、恵須取、敷香)に通達したのである。
 鈴谷丸事件の発生した直後ではあったが、老幼婦女子中心に二十万名近い非戦闘員を、十五日間で北海道に疎開させる計画となっていた(実際には出稼ぎの港湾労働者の引き揚げが完了していたなかったため、樺太から脱出させるべき非戦闘員の数は二十万名以上であった)。
 疎開者の乗船地は大泊、真岡、本斗の三港と定められ、十三日から住民の北海道への疎開が開始される予定であった。これに呼応して、海軍大湊警備府所属の第一〇四戦隊などが小樽方面ヘと出撃することとなっていた。
 そのように樺太全土で住民の疎開が開始される中で、ソ連軍による本格的な地上侵攻が始まったのである。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 南樺太に侵攻したソ連軍は、第二極東正面軍所属の第十六軍であった。
 第十六軍(司令官:レオンチー・チェレミソフ少将)は北樺太に展開する第五十六狙撃軍団およびソヴィエツカヤ・ガヴァニで控える第一一三狙撃旅団を基幹とする部隊であり、彼らを空軍の第二五五混成飛行師団と海軍の北太平洋小艦隊が援護する。
 第五十六狙撃軍団は、第七十九狙撃師団を基幹として二個狙撃旅団、一個戦車旅団、一個独立戦車大隊、二個砲兵連隊などからなる部隊であった。
 装備する火砲は二八三門、戦車は九十五輌である。
 一方、航空機は、空軍一〇六機、海軍八十機が樺太周辺に展開し、北太平洋小艦隊は樺太対岸のソヴィエツカヤ・ガヴァニを根拠地としていた。
 北太平洋小艦隊の主要な兵力は、次の通りである。

北太平洋小艦隊  司令官:ウラジーミル・アンドレーエフ中将
【戦艦】〈ソビエツカヤ・ベロルシア〉
【軽巡】〈ハバロフスク〉〈ウラジオストク〉
(※〈ハバロフスク〉、〈ウラジオストク〉は元米軽巡オマハ級)
【駆逐艦】〈ストレミーテリヌイ〉〈ソクルシーテリヌイ〉
【哨戒艦】二隻
【機雷敷設艦】二隻
【魚雷艇】四十三隻
【潜水艦】十五隻
など

 樺太周辺の天候がおおむね回復した八月十日、極東軍総司令官ヴォロシーロフ元帥は第十六軍に対し、八月二十五日までの樺太全土占領を命じた。
 ソ連による南樺太侵攻計画もまた、満洲と同じく日本軍の包囲殲滅を狙ったものであった。
 第五十六狙撃軍団を以て日ソ国境線を突破、国境地帯の日本軍陣地を占領した後、樺太東海岸に沿って豊原に向けて南下。一方、西海岸には第一一三狙撃旅団を上陸させ恵須取、真岡を占領しつつ、第五十六狙撃軍団と呼応して日本軍を挟撃、これを撃滅するという作戦計画である。
 また、日本軍が南樺太南部から国境地帯に増援を向かわせようとした場合には、戦艦ソビエツカヤ・ベロルシアを中心とする北太平洋小艦隊による艦砲射撃によってこれを阻止することとなっていた。
 南樺太の占領が急がれたのは、その後の控える北海道上陸作戦のための橋頭堡としての役割をスターリンが期待していたからである。
 この海域に展開する日本海軍の兵力が、旧式巡洋艦を中心とする弱小な艦隊(磐手、八雲を擁する第五艦隊のこと)であったことも、そうした作戦計画が策定された要因であった。
 そして八月十一日、ソ連軍は第七十九狙撃師団(三個連隊基幹)、第二一四戦車旅団および軍団直轄砲兵を先鋒部隊として、北緯五十度の国境線を一挙に突破したのである。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 北緯五十度の日ソ国境地帯では、天候の回復した十日からソ連軍による空襲が開始されていた。
 ただし、八方山陣地や半田陣地といった国境地帯に築かれた日本軍陣地は、さしたる損害を受けていない。
 池田末男大佐率いる戦車第十一連隊も敷香から古屯へと移動を開始していたが、ソ連軍の航空攻撃による損害は発生しなかった。
 八月十一日、ついに地上侵攻を開始したソ連軍を最初に迎え撃つことになったのは、半田陣地であった。
 半田陣地は日ソ国境線から南に四キロの地点にある野戦陣地であり、この地を流れる半田川の南側に築かれていた。
 半田は中央軍道(日ソ国境地帯と敷香を繋ぐ整備された道路)上に位置しており、半田川という地形的障害もあるため防衛上、重要な地点であった。八方山陣地は、半田陣地のさらに南側に存在している。
 中央軍道はこの地域でほとんど唯一の整備された大街道であった。道幅は六メートルもあり、ツンドラ地帯と森林地帯が広がる中でほとんど唯一、大部隊の通行に適した道路である。
 このような中央軍道上に存在する半田陣地は、敵戦車の半田川渡河を阻止し得るよう、河岸が対戦車崖となるように整備されていた。
 この半田陣地に強襲を仕掛けてきたのは、第七十九狙撃師団所属の第一六五狙撃連隊第二大隊であった。
 十一日早朝より、彼らは航空機の支援を受けつつ、半田陣地への正面突撃を敢行したのである。
 しかし、日本側の抵抗は頑強であった。
 十一日〇八〇〇時には、ソ連軍一個大隊による陣地への強襲は完全な失敗に終わり、逆に日本側守備隊による逆襲を受けて防戦に転じる有り様であった。
 航空攻撃による援護も、南樺太上空の制空権をソ連側が完全に確保出来ていたわけではないため、十分な効果を発揮しなかった。
 日本側が南樺太に整備した飛行場は、敷香、落合、内路、気屯、豊原(樺太庁の所在地)、初問、小能登呂、名寄の九ヶ所である。この内、敷香飛行場が海軍飛行場で、平時は民間飛行場として利用される豊原飛行場を除き、残りの七ヶ所は陸軍飛行場であった。
 樺太・千島方面を担当する陸軍の航空部隊は、帯広に司令部を置く飛行第一師団であった。
 飛行第一師団の内、樺太に展開していたのは飛行第三戦隊(九九式双軽爆撃機×二十七機)、飛行第二十四戦隊(四式戦闘機疾風×三十六機)および飛行第三十二戦隊の一個中隊(艦上爆撃機彗星×九機)、飛行第七十四戦隊の一個中隊(四式重爆撃機飛龍×九機)の計八十一機であった(その他、補用機が存在)。
 海軍航空隊も敷香飛行場に航空部隊を配置していたが、これは対潜警戒を任務とする第九〇三航空隊の一部であった。
 少なくとも、天候が回復した十日から十一日にかけては、特に戦闘機隊である飛行第二十四戦隊の奮戦により、南樺太上空の制空権をソ連に明け渡さなかったのである。
 樺太唯一の戦車部隊である戦車第十一連隊が敷香から古屯へと鉄道輸送される最中に空襲を受けなかったのも、疾風隊の奮戦によるものであった。
 戦車第十一連隊は十日には古屯に到着し、チキ一五〇〇貨車から三式中戦車チヌを下車させた。
 樺太最北端の駅である古屯駅は、中央軍道を通って半田陣地まで約十五キロの地点に存在する。
 この地で池田大佐ら戦車第十一連隊の将兵たちは、中央軍道の迂回突破を図るかもしれないソ連軍を迎撃すべく、戦車の擬装を始めた。
 しかし、一度はソ連軍の強襲を撃退した半田陣地であったが、ソ連軍による戦車を伴った再度の強襲を受けると徐々に劣勢となっていった。
 そもそも、八方山陣地を中心とする国境地帯に配備されているのは、樺太歩兵連隊の二個大隊のみだったのである。連隊規模のソ連軍による強襲を受け続ければ、半田陣地だけでは支えきれなくなるのは当然であった。
 さらにソ連側の第二次攻撃は、部隊の一部を以て半田陣地の火力を引き付けつつ、両翼を伸ばして陣地全体を包囲する姿勢を見せていた。
 これを受け、古屯まで司令部を前進させていた樺太歩兵連隊は、戦車第十一連隊と共同しての半田陣地の解囲を試みることを決定した。
 戦車第十一連隊に一式半装軌装甲兵車(ハーフトラック)に搭乗させた一個大隊を以て、半田陣地の友軍を救出し、再びソ連軍を半田川の北岸へと押し返すことを企図したのである。





「我が連隊はこれより古屯を進発し、中央軍道を北上。樺太歩兵連隊と共同し、ソ連軍に包囲されつつある半田陣地の救出に向かう」

 池田末男大佐は三式中戦車の出撃準備整えると、ハッチから上半身を乗り出したまま軍刀を振りかざした。

「戦車、前へ。我らの手でソ連軍を北樺太に押し戻すのだ」

 その命令と共に、五十一輌の三式中戦車は中央軍道に沿って北上を開始した。
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